目次

〔01〕(2014.02.14) ~意識に関するメモ~

意識の広がりと質、及び志向性
(cf.クリシュナムルティの意識体験)
(cf.井筒俊彦「意識と本質」「意識の形而上学」)
集合無意識 ≒ 集合意識
(cf.ユング、象徴の意味)
人間の意識を通して感受され表現されたあらゆるものは人間の意識の象徴である。
cf.言説・造形 ≒ 表現者の意識
cf.芸術作品 ≒ 作者の意識
cf.宇宙・自然 ≒ 観察者の意識
(動植物はそれぞれ固有の意識を持っている様に思われる。)
無生物に意識が内在するのかどうか、宇宙に意識が遍在もしくは偏在するかどうかは今のところ不明である。
人間の意識の進化と退化。ダーウィンの進化論的観点から見た変化の状況を確認し、考量すること。
意識を覚醒する方法
意識は思考と感覚によって麻痺している。
思考も欲望と感情によって歪んでいる。
感覚も習慣と惰性によって鈍っている。
鈍った感覚と歪んだ思考が意識を麻痺させ理解と判断を誤らせる。
自我とは先入観に支配された欲求と志向である。
自我を捨て、思考と感覚を浄化することにより意識は覚醒する。
(cf.仏教哲学による意識の分類)
意識の矯正における自然の役割。
naturalism, naturalist  > humanism, humanist
(まともな思想家はほぼ皆ナチュラリストである。)
コミュニケーション=意思の疎通をはかるとは、意識を交感することである。
相互理解を阻んでいるのは「意識の壁」である。
(「バカの壁」ではない!)
利己心を離れた愛により人は正しく意識を交感し理解しあえる様になる。

〔02〕(2014.02.22) ~ルネサンスついて~

傑出した意識が出現し歴史に刻まれるには、その時代の意識環境が整っていなければならない。
ルネサンスは中世カソリック思想と古代ギリシャ精神との程良いバランスの上に花開いたものである。人間復興、文芸復興という言葉に惑わされてはならない。
ルネサンスの芸術家の中に在ってダヴィンチは特異な存在である。ナチュラリストであり、個人主義者であり、近代人である。

〔03〕(2014.02.28) ~宗教の本質~

宗教の本質は、死後の世界を措定することである。死後の世界は死の恐怖を乗り越え、現世における不合理ならびに非合理を暫定的に解決する為に考え出されたものであるが、残念ながら合理的な根拠は今のところ何も見当たらない。キリストその人、ブッダその人が死後の世界についてどう考えていたか定かでは無いが、キリスト教、仏教の発展と共に死後の世界の観念も広まっていった。ダンテの「神曲」は正にその象徴的存在である。
   (cf.ゲーデルの不完全性定理;数学における虚数の導入、虚数的意識)

〔04〕(2014.03.01) ~日本経済について~

昨今、日本経済が低迷している原因は何であるのか。政治に問題があるのか、それとも構造的な問題なのか。労働人口の減少、グローバル経済下における比較優位性の喪失、国民性の変質、等々、構造的なものが主たる原因であるとすれば、政権を幾ら挿げ替えたところで事態は改善しないであろう。その場合、とりあえず観光資源を含む資源開発なり、次世代エネルギーを始めとする技術開発なりに、国を挙げて取り組む必要があるが、それでも今迄の様な成長が見込めないということであれば、富の配分の仕方を考え直すべきである。マイナス成長下でこの国をどう運営していくか、皆で率直に議論すべきである。以前より多少物質的な豊かさが減少しても精神的な豊かさを保持して生きるすべが必ずあるはずである。

〔05〕(2014.03.06) ~意識の及ぶ範囲~

宇宙の年齢は約138億年、寿命は今のところ不明だが、終末は在る。
地球の年齢は約45.4億年、太陽の余命は約50億年、生物があと何年地球上で生きられるかについては諸説あり不定。例えば、2億5千万年後に生命は地球上に生存できなくなるという説もある。
今のところ人類の思考力が自然環境に対して及ぶ範囲はこのようなものであるが、これを基本認識として踏まえ、人類の文化や価値観を見直してみる必要がある。

〔06〕(2014.03.13) ~意識の地質学的な見方~

集合的無意識が集合的意識に顕在化する過程で傑出した意識が出現することがある。しかし時代と共に集合的意識も集合的無意識へと退化し、人々の記憶の奥底に埋もれてしまう。人類史上において意識の云わば地層と言うべきものがあり、自然の地層同様、地殻変動的な出来事によって時を経て表出する場合がある。例えばナチスの反ユダヤ主義は、ユダヤの選民思想に対するゲルマン民族のinferiority complexがsuperiority complexに転化し、過激な攻撃の形をとったものであるが、旧約聖書を紐解くまでもなく、反ユダヤ主義的意識は欧州史上、古くから集合的意識、集合的無意識のなかで見え隠れして存在していたものである。ついでながら付記して置くと、ナチスはニーチエの著作を反ユダヤ主義の正当化を諮るために援用しようとしたが、ニーチエ自身は反ユダヤ主義を嫌悪しており、そう言明もしていた。ナチスのゲルマン民族主義にニーチエの思想が影響を与えたとも云われるが、これもニーチエの意図したことではなかったと思われる。

〔07〕(2014.03.14) ~源氏物語と平家物語~

「源氏物語」には当時の貴族社会に貴族として生きた人々の集合意識とその中にあって傑出したレベルに到達した紫式部の意識が反映されている。一方、「平家物語」「平曲」には「方丈記」的無常感とひとつの時代の喪失感を抱いた中世の人々の集合無意識が見てとれる。

〔08〕(2014.03.16) ~所感~

人類の歴史は文化(culture)を、文明(civilization)が駆逐してきた歴史ではないのか。
文化にも負の側面があり、文化的偏見を生む。人種的偏見は人種差別をもたらした。「意識の壁」を取り除く為の「意識革命」が必要不可欠である!

〔09〕(2014.03.26) ~幸、不幸について~

世の中に不幸と感じている人間が多くなると幸福と思い生きている人達のリスクが高まる。不幸な者は幸福な者にルサンチマン(キルケゴールの術語)を抱き、幸福な他者の人生を毀損するようになる。行き着くところは殺人であり、国の規模に拡大すると戦争になる。そもそも人間は他人も幸福でないと自分も幸福と感じられない生き物ではなかったのか。それとも自分より不幸な他者と比較しないと幸福を実感できない性分なのか。満たされない、尊重されない、等々、不幸の理由も色々あるようである。

〔10〕(2014.03.26) ~断捨離、終活について~

高齢化社会になったせいか(今、日本は世界一の長寿国である)巷では「断捨離」「終活」が流行っている。「断捨離」に関しては、整理整頓が苦手な者に思い切って物を減らせと助言しているだけの様に思われるし、まだ使える物をゴミとして捨てることにも抵抗を覚える。物より心が大事であると言いたいようであるが、それならば、生き方、考え方から指導すべきであろう。邪魔物扱いされている物達にしても、持主の日々の生活を彩ると共に、持主の人となりを物語る存在でもある。欧州の小村の昔ながらの生活や白洲正子の暮らし振りの方が好ましく思われる。次に「終活」について言えば、そもそも何れ死すべき存在である人間は、生まれた時から「終活」が始まっており人生そのものが「終活」なのである。したがって死すべき者に言うべきことは、生きられる時間を精一杯生き、人として何が最も大切であるかを考え、気付けということではないのか。

〔11〕(2014.03.28) ~宗教の功罪~

宗教、例えばキリスト教は、現実社会の価値観とは別の尺度で人間を評価し、人の幸、不幸を判定する。実社会とは異次元の「神の国」においては、貧しき者は幸であり、賤しき者も高貴な神の僕と看做される。「真実の光」のもとで明らかにされる審判に従い、来世での処遇が決定する。古来より宗教は,時々の権力者に統治の手段として利用され、世の中に様々な弊害も齎して来たが、一方で社会秩序を安定させる役割も果たして来た。「霊魂の不滅」がどれ程モラルの維持に貢献したことか。同時にまた命を賭して戦う兵士をいかに勇気づけたことか。宗教が果たして来た役割に見られる光と影とは、人間精神の光と影そのものであるように思われる。

〔12〕(2014.03.28) ~宗教の変質~

宗教は、その創生期においては、現実社会の変革を目指していたようであるが、普及するにつれて時々の社会と折り合いを付け、生き延びてきた。その間、原点に立ち返ることを唱える者や、内部改革を行おうとする者が折に触れて現れ、多少の成果が見られもするが、残念ながら大方の宗教において、世俗化の流れを押し止めるには到っていない。
(cf.アッシジの聖フランチェスコ)
(cf.トルストイの原始キリスト教的信仰)

〔13〕(2014.03.29) ~ホワイト・カラー~

私が初めて世の中に出て、働き始めた頃、奇異に感じられた事があった。街を行き交うサラリーマン、とりわけホワイト・カラーと呼ばれる人達の事である。こんなにも多く、この人達は本当に社会に必要なのだろうか。この人達はどんな役割を担っているのか。現代社会のスタンダードであるかのように揃いの出で立ちで日々通勤して何の違和感も覚えないのだろうか。現在、この人達が社会に占める割合が増えたのか減ったのか分らないが、当時の奇異な感覚はいまだに続いている。

〔14〕(2014.03.30) ~自戒~

既成の観念や価値観に捉われる事無く、人と自然を良く見聴きすること。結論を急がず、人生観、世界観、自然観、価値観が醸成するのを待つこと。何が最も重要で基本的な事であるかを見極めること。些細なことにも真実が宿っていることを忘れないこと。人と自然に共感し、正しい理解を持ち、価値判断を性急に行わないこと。
日々の務めを果たし、取り巻く人々を案じ、穏かな心を保ち、やらなければならないこと、やり残したことを片付けてゆくうちに、やがて私の余命も尽きることであろう。

〔15〕(2014.04.02) ~震災後の日本~

東日本大震災3周年追悼式典が先月(3月)11日に行われた。(あれからもう3年が経ったのだ。)その模様を偶々TVで見ていて何か引っ掛かるものを感じた。3年が経過し、当時の政権から別の政権に移行し、その代表がTVに映っていた。日銀の円安誘導政策が功を奏してか、日本経済はやや上向いている様であるが、被災地の復興は、原発事故関連を含め遅々として進んでいない。当時、宮沢賢治の足跡などを拠り所にして芽生えた、日本人が自己中心的生き方を反省し脱却しようとした気配も薄れてきている。今でも、街を行き交う車の後尾に「がんばろう日本」のステッカーを散見するし、若者達が復興のボランティア活動に参加している話も聞く。確かに震災は一時、日本をひとつにし、国民に内省を促したが、そのことが被災した人々にどれ程の支援を齎したかは不明である。まさか被災しなかった日本人は、震災にあわず無事であった自分達の幸運に安堵しているわけではないのであろうが、時と共に被災者が忘れられ、被災地がとり残されている様に思えてならない。孫とモンゴルで面会した横田夫妻の記者会見が3月17日にTVで放映されていた。このとき横田夫妻は終始満面の笑みを浮かべていたが、そこには震災で孫や子、親や兄弟を亡くした方々への気遣いは微塵も感じられなかったように思われる。

〔16〕(2014.04.02) ~変革者の心得~

世の中を変えようと思う者は、先ず、自分自身が変わらねばならない。しかも根本的に変わらねばならず、変わったことを行動で示さねばならない。次に自分を取り巻く人々を変えねばならない。古来、人間社会に歴史的変革を齎した者達は皆このようにしてきたのである。決して、口先や小手先で世の中を変えようなどと思ってはならない。変革は全身全霊で、死を賭して行うものなのだ。そうしてこそ共感も説得力も影響力も生み出すことができるのである。

〔17〕(2014.04.03) ~禅問答の落し穴~

教育TVの「趣味Do楽」の「落語でブッダ」という番組を一昨日偶々視聴した。落語の「蒟蒻問答」を例に、講師の釈徹宗が禅問答を解説していた。「蒟蒻問答」に登場する、修行の旅をしている禅僧は、勘違いとは言え、この問答から何か学び得るものが有ったので、この様な頓珍漢な問答でも無駄では無かったと言う。禅機はこの様なところにもあるのだと言いたいようである。語るに落ちるとは此のことで、これほど馬鹿げた話はない。鈴木大拙は禅問答のこの様な安直な側面を窘めたのである。勘違いから得られる真実など有り得ないし、たとえ問答がまともなものであったとしても、問答によって仏道を修め悟りに到ることは、不可能である。

〔18〕(2014.04.14) ~イスラムとイタリア~

ギリシャ文化を継承したイスラム文化に於いては、宗旨上の理由から彫刻や絵画に関心が示されなかった。ルネサンスのイタリアに於いて、突如、絵画、彫刻をはじめとする諸芸術が花開いた様に見えるのはそのためである。どうやらギリシャ文化は、学問、文芸に関してはイスラムに、美術に関してはイタリアに受け継がれたようである。
ルネサンスのきっかけを作ったのは皮肉にも、十字軍であった。藪蛇とも言うべきこの遠征によって西欧は、じかにイスラム文化に触れ、古代ギリシャ・ローマ文化の復興に目覚めたのである。また、中世以来長きにわたるカソリック教会の権威を弱体化させ、宗教改革をも招くに到った。

〔19〕(2014.04.24) ~人援けの心得~

人の面倒を見たり、世話をする場合は、先ず、その人に対して思い遣りを持たなければならない。また何をどうしてあげるのがベストであるかを判断し、実行できるだけの力量を備えていなければならない。その為には、寛容な気持ちで、ありの儘にその人を受け入れ、当の本人以上にその人を理解していなければならない。なお、人の死活問題にコミットする際には、こちらも命懸けの覚悟で臨まねばならない。その覚悟が無いのであれば、関わるべきではない。過去を振り返り、慙愧に堪えないのは、関わったものの、未熟、非力ゆえに援けることが出来なかった人々との出会いである。今はただ、これらの人々のその後の人生が幸せであることを願うばかりである。

〔20〕(2014.04.28) ~遊びと道楽について~

遊びと道楽は、男の子、男を成長させ成熟させる上で必要不可欠なものかも知れない。(cf.ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」)しかし、やり方次第では逆に男を駄目にしたり、場合によっては破滅させる原因ともなる。本、パイプ煙草、ワイン、美術品、車、旅行、囲碁、ゴルフ、仕事、等々、私も様々な遊びと道楽を経験し、今日に到っている。ギャンブルに手を染めなかったのは、私にとって人生そのものがギャンブルであったからかも知れない。振り返って危なっかしい状況もあったが、何とか無事生きてこれたのは、幸運であったという他ない。さて、遊びにせよ道楽にせよ大事なことは、身銭を切ってやること、身体を張ってやることである。計算づくでやっても何も得るものはない。省みてもっと遊んでおけばよかったと後悔してもいないし、遊び過ぎたと悔やんでもいない。また残された人生でこれをやって見たいと思うことも今のところ特に無い。

〔21〕(2014.04.29) ~去年今年~

去年今年(新年の季語で「こぞことし」と読む)、この5年間毎年、年頭所感に代えて年賀状に添えた腰折を並べてみる。
 ◎夢現 耳順も間近 去年今年    (平成22年元旦)
 ◎耳灌ぎ 目澄まし居り 去年今年  (平成23年元旦)
 ◎本卦還り 竜と降りて 去年今年  (平成24年元旦)
 ◎今ここに 在るか意いつ 去年今年 (平成25年元旦)
 ◎われは我 ひとも我なり 去年今年 (平成26年元旦)
 ◎限り有る 時空に在りて 去年今年 (平成27年元旦・予定)

〔22〕(2014.05.01) ~稲盛和男~

(「NHK 百年インタビュー 稲盛和男」を見て) 稲盛方程式
「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」
熱意、能力は0から100まで
考え方は-100から+100まであるという。
(考え方とは意識の問題であると言ってよい。)
稲盛氏の価値観の基本は(企業の)経済的成長に在る。
彼は結構、楽観主義者で世の中には常に見えないフォローの風が吹いているという。土光さんから日航の再建を頼まれた時、我に一点の私心有りや無しやと問うた末、無給で引き受けたそうである。(再建に際し、国の援助を受けたが、私財を投じてはいないようである。)日航の再建に当たり、社是を印した手帳を全社員に携帯させたそうで、その第一条には日航は社員の安心・幸福を第一に優先すると記されているそうである。結局のところ、稲盛さんは個人としての私利私欲は捨てても、企業家としての私利私欲は捨てなかったということになる。その稲盛さんが、100年後の人類が100億の人口を養う為には、利己心から利他心に転換する必要があると説いている。ごもっともではあるが、この地球規模の難問の解決は一企業の再生とは比較にならない困難な課題である。はっきり言えるのは、この問題の解決にあたっては企業のエゴは勿論のこと国家のエゴも捨ててかからなければならないということである。

〔23〕(2014.05.02) ~述懐~

六十年以上この世に生き、省みて分ったことは、自分がいかに凡庸な人間であるかということである。自慢するわけではないが私には傑出した才能は何もない。何事も気が向けばそこそこ一生懸命やることと、生まれながらの性分で、人が困っているのを放って置けず世話をやいてしまうのが、取り柄と言えば取り柄かも知れないし、逆に弱点かも知れない。もし、仮に人より多少優れた点があるとすれば、物事の本質を直感的に見抜く能力が、たまたま生まれながらにして備わっていることかも知れない。学校が嫌いで、組織社会に馴染まない私の様な人間が、この年まで何とか満足できる人生を送ってこれたのは、幸運であったとしか言いようがない。もっとも、青少年時代の私は、不幸としか言いようがなかったのではあるが。

〔24〕(2014.05.06) ~無私・無我への岐路~

無私・無我の境地に到る方法が二つある。ひとつは禅的な方法で、無念無想し、自我を滅却し、無私・無我の境地に到る道である。もうひとつは密教的な方法で、万物・万象を自己に取り込み、自我を相対化することで無私・無我の境地に到る道である。私には密教的方法の方がより普遍的で健全なやり方であるように思われる。なぜなら自我は容易に消し去ることはできず、個人を超える大きな存在(例えば企業・国家など)に無意識に同調し、これを自我の消滅と錯覚しやすいからである。日本人は禅的方法を好むようで、室町以来の「日本文化」の到る処にその影響が見てとれる。(因みに室町ルネサンスの創始者と言われる臨済宗の禅僧・夢想疎石は後醍醐天皇から国師の称号を授けられている。)下って、江戸前期の芭蕉の俳諧にも禅の影響が見られ、明治・大正期の日本文学、とりわけ私小説に逆説的にではあるが禅の影響が現れている。日本で密教的世界観があまり浸透せず、その影響を受けた文学作品がほとんど見当たらないのは一考に値することであると思われる。

〔25〕(2014.05.06) ~自然と人間~

人間は自然現象を擬人化したがり意味や意図を探りたがる。自然現象には原因と結果のメカニズムは存在するが本来、意味や意図はない。人間のこの様な性癖の根底には、自身が自然とは違う何者かであるという幻想がある。人間は自然から生まれ自然の一部に過ぎない。人間は自然を支配することも、コントロールすることもできないし、創り出すことは不可能である。どうやら今のところ人間は、地球の生物界で食物連鎖の頂点に立っている様であるが、これとて一時的な現象であるに過ぎない。今後の地球環境の変化によっては何時どうなるか分らない。宗教や経済学のドグマから見て取れるように、人間は自然現象を単純化したがる傾向があるが、これは自然の持つ多様性と複雑性という真実から懸離れたものである。

〔26〕(2014.05.11) ~ローマ帝国~

よく言われることであるが、ローマ帝国に於いて既に、現代文明の基本的枠組みが形成されていた。都市に必要なインフラや建造物、大衆文化の象徴である大浴場やコロセウムによって、この時代、既に、都市化と大衆化がかなり進んでいたことがわかる。しかしながら一方では、ギリシャ文化に見られた学問や哲学の継承、発展の痕跡はほとんど見られない。これらはむしろイスラム文化によって受け継がれ伝承された。なおかつ不思議なことに、これらはまた、イタリア・ルネサンスに於いても(ダヴィンチという天才を除き)ほとんど顧みられなかったことである。ローマ帝国は確かに現代文明のよき縮図ではあるが、同時に、現代文明に反面教師としての影を落としていることにも気付かねばならない。

〔27〕(2014.05.21) ~人の絆~

周囲の人々が自分から離れていくことを案ずるのは愚かなことである。そんなことを心配している暇があったら、人を理解し、思いやり、信頼されるに値する人間であるか自らに問うべきである。敢えて人々におもねる必要はないし、逆に、本当に相手を思ってのことであるなら、怒ってもいいし、たしなめてもいい。大小を問わず、経済的組織において、スタッフや顧客が離れていくことを懸念し、待遇やサービスで繋ぎとめて置こうとしがちであるが、抜本的対策にはなっていない。何よりも大事なことは、そのような心配をしている自分自身に問題があることに気付くことである。

〔28〕(2014.05.28) ~ロシアと中国~

ウクライナ情勢が緊迫し、欧米とロシアの冷戦が心配されている。アメリカを始め、東南アジア諸国は、中国の拡張政策に懸念を示している。共産主義体制を経たロシアと中国は宗教を捨て、野放図な人間中心主義に染まり、力は正義であるという考えに傾斜している。宗教という衣装を纏った人間中心主義とは異なり、裸の人間中心主義は暴走しやすい。(動物行動学者デズモンド・モリスは人間を「裸のサル」と名付けた。) ロシア、中国が核大国であることを考えると、もし新たな冷戦が始まれば、人類に及ぼす脅威は、計り知れないものとなる。マルクス主義が人類に与えた影響について言えば、いくつかの共産主義国家を一時的に実現したことより、唯物論哲学・唯物史観によって、(マルクス主義者にとってはアヘンにしかすぎない)宗教ならびに宗教的文化を否定したことの方が重大である(cf.文化大革命)。ニーチエは「神は死んだ」と言ったが、宗教や宗教文化をすべて否定したわけではない。マルクスの唯物史観は、宗教無き人間中心主義へと人類を誘い、現代に到る物質文明を後押した。この先、欲望をコントロールできない人類は、どのような文化を築き、どのような未来を創造しようとしているのであろうか。

〔29〕(2014.06.06) ~世迷言~

世の中は擬いもので満ちている。根拠のない信仰や思想をはじめ、価値があると云い伝えられ、言い広まっている物事を安易に信じ込み、一生を棒に振る者があまりにも多い。その一方で、人々は、本当に価値のあるもの、大切なものを蔑ろにして頓着しないのである。学問や芸術の分野にも、根拠のない妄想や夢想が混入している。人生はこれらの世迷言にうつつを抜かすには、余りにも短く、貴重である。耳を灌ぎ、目を澄ませ、心を洗い、本当に価値あることに時間と労力を向けるべきである。

〔30〕(2014.06.06) ~思考の断捨離~

物の断捨離より思考の断捨離をすべきである。我々が日々いかに、つまらないこと、どうでもよいこと、どうにもならないこと、に思いをめぐらせているかを省みるに、何という時間の無駄、人生の浪費であることかと思わずにはいられない。人として生きていく上で、何が最も大切なことであるかを見極め、時間とエネルギーを有効に活用すべきである。前項と本項の趣旨は、道元の以下に記す箴言に触発され綴ったものである。
「知れよ心思われねばと思うべき事は事にてあるべきものを」

〔31〕(2014.06.08) ~実存主義~

思想・哲学が不毛な時代であるといわれる現在、実存主義の思想・哲学は見直され、再興されてもよいと思われる。ヘーゲルの弁証法を否定し、実存主義の哲学を創始したとされているキルケゴールの思想には、キリスト教の倫理と死生観が色濃く反映している。また哲学者というよりは詩人に近い思想家ニーチエは、ドイツ・ロマン主義の復興を求め、旺盛な闘争心を発揮し、古代ギリシャのソクラテス的ロゴスを嫌い、デュオニソス的パトスに与した。また、キルケゴールとは逆に、キリスト教的倫理を批判した。「神は死んだ」と宣言して「超人」を生み出し「生の哲学」を説いたが、最後は錯乱状態に陥り、この世を去った。対照的なこの二人を先達と仰いだハイデッガーは、実存主義の礎となる可能性を秘めた(といわれている)存在論の研究に没頭した。ドイツ観念論哲学の伝統に則り、フッサールの現象学を援用し、思弁的な基礎理論の構築を試みたが、ついに完成を見ることなく、ドイツ民族主義の暗い影を背負い生涯を終えた。フッサールとハイデッガーの影響を受け、無神論的実存主義を展開したサルトルは、その哲学を含め、世界的な影響力を持った最後の思想家であったが、思想界の妖怪、マルクス主義への接近によって、恰もミイラ取りがミイラになった如く、実存主義本来の思想的豊穣さを失い、構造主義の台頭を許すことになる。以上、いずれも孤独な戦いに生きた、実存主義にかかわる主だった思想家達を挙げて見た。その思想的立場の違いにもかかわらず共通しているのは、彼らの言説が良質な意識を豊富に内包していることである。これ等は、ヤスパースが人類の枢軸時代と呼んだ、古代の聖人達が活動し、思想的活況を呈した状況と比肩しうるものと思われる。ただし、ここで指摘しておきたいのは、西欧の哲学的伝統の枠組みで育った哲学者や思想家は、無意識のうちに人間中心主義、個人主義の見えざる足枷を引き摺っていることに気付かぬことである。構造主義の人類学者レヴィ・ストロースが1962年の『野生の思考』最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は有名であるが、単なる弁証法に対する批判であって、構造主義者レヴィ・ストロース自身も同様に見えざる足枷を引き摺っていることに相違はない。科学を標榜する構造主義はさておき、実存主義哲学に関して言えば、人間中心主義を脱却し、自己を超え世界に開かれた意識という実存主義の原点に立ち返るならば、現在の世の中にも通用する思想として再生し、実り多い成果が期待できるものと思われる。新しく再生した実存主義の観点から見れば、例えば、弘法大師空海は、そして松尾芭蕉や宮沢賢治もまた、紛れもなく実存主義者であったと言えるかも知れない。
(cf.カール・ヤスパースの実存主義哲学)

〔32〕(2014.06.13) ~意識の遍在と偏在~

人の心は黙っていても人に伝わるものなのか。人の心を分ろうとしない者に人の心が分るはずはない。死者の声も、聴こうとしない限り聞こえないであろうし、聴こうとする者には地の声、天の声も聞き取れるのかも知れない。仮に意識がそこらじゅうに遍在するか、偏在する意識の不可思議な伝達回路が存在するとすれば、意識も感受しようとする者には伝わるのかも知れない。その昔、シャーマンに聴き取れたものが、現在の我々に聞き取れないのは何故なのか。雑音や雑念に邪魔されているのか、受け手である我々の感性に問題があるのか、謙虚に耳を澄ませ、耳を傾けて見ても良いかも知れない。

〔33〕(2014.06.19) ~国益を超えて~

集団的自衛権をめぐり国論が割れ、輿論が錯綜している。最近の中国の動向を考えると、戦術的観点からは必要かと思われるが、問題なのは、誰もその先の戦略を考えていないことである。現今、国家間で様々な資源の争奪戦が展開され、覇権争いがヒートアップしているが、これを鎮静化するにはどうすればよいのだろうか。地球上の資源、とりわけ海底資源は、どこに存在しようと、本来、全人類共有の財産であるという認識が先ず必要である。世界遺産同様、世界資産として位置づけ、共同で開発し、共有する道を模索すべきである。国という単位、国益というエゴを捨て、地球人という発想に立たない限り、今後、100億の人口を養っていくことは不可能であるように思われる。

〔34〕(2014.06.20) ~モラルの効用~

どの時代、どの社会にあっても、その経済力に対し、人々のモラル・公共心の水準が、少なからぬ影響を与えている様に思われる。社会が経済的に発展するためには、マイナスのエネルギーを減らし、プラスのエネルギーを増やさねばならない。この事情は、大小の経済的組織にも当てはまる。どの様な社会・組織に於いても、全てを法や規則で律する訳にはいかず、人々のモラル・公共心に委ねざるを得ない部分が多々あり、普段は余り気付かないが、大きな影響力を持っているに違いない。今回のブラジルでのワールドカップで、日本人のサポーターが試合後ゴミ拾いをしてメディアに賞讃されたが、この様な行為に象徴されるモラルや公共心は、社会の健全な発展を支える底力となっている。日本人が培ってきた、始末、手入、世話、等の道徳意識は、見直され、再評価されてしかるべきであろう。

〔35〕(2014.06.23) ~ファンの心理~

特定のスポーツチームや選手、芸能人などを応援するファンの心理とはいかなるものか、我ながら不思議に思えてならない。先ず、何故その選手やチームを応援するようになったのか、あまり明確な理由が見当たらない。にもかかわらず、その選手やチームが負けると、自分の人生にも暮らしにもほとんど何も影響がないのに、動揺し、気分がすぐれなくなる。一体これはどういうことなのか。この問題は社会心理学の恰好のテーマでもあるが、ファンであるチーム・人物のもつ何ものかに、無意識のうちに自己を投影しているのは間違いない。私が自身のファン心理に気付き愕然とするのは、そのような間隙を縫って忍び込み、刷り込まれている、自分を取り巻く社会への帰属意識や世の中の価値観の存在を再認識させられるからである。

〔36〕(2014.06.29) ~もうひとつの師資相承~

ひとりの人間の意識を変える為には、マンツーマンで向かい合い、決定的な機会を捉え、決定的な意識体験を共有せねばならない。イエスやブッダは、相当数の人々を相手にこれをどのように、どうして実現しえたのか。イエス、ブッダの亡き後も人々はイエスやブッダと1対1で対峙した。この様なことがどうして可能であったのか。人々の資質と信仰心のなせるわざと言えばそれまでだが、この間の事情は、きちんと解き明かす必要がある。

〔37〕(2014.06.30) ~ノスタルジー~

戦後復興の時期、昭和中期から後期にかけて、美空ひばりの唄が流行っていた頃、あの時代の日本は希望があって良かったという声をよく聞く。しかし、その希望も今にして思えば、脆弱な基盤の上に築かれたものであった。世界史に於いても、古代ローマやルネサンスの時代を懐かしむ人達は少なくない。だが彼の時代もまた、危うい均衡の上に成り立っていたと言える。その文化にしても、幾分かグロテスクなものにも思われる。もっと自然と調和した控え目な文化の方が好ましく感じられもするのである。どちらの場合も規模こそ違え共通するのは、大衆を含む人々が、根拠のない自信のもと、未来に疑いを持たず、文明生活を謳歌しえた時代であったということである。

〔38〕(2014.06.30) ~美意識について~

マイセンのスノーボールに美しさは感じられない。沖縄の自然には心地よさを覚える。最近、年と共に自然の美しさに意識が感応するようになっている。人工美より自然美に心地よさを感ずる。美意識は時代と共に、年齢と共に変化する。美しいと感ずるかどうかは受け手の主観の問題であるが、主観は人それぞれであると言って済まされる問題ではない。何をもって美しいと感ずるかどうかは、意識の質の問題なのである。現代社会の人々の美意識は、もしかしたら病んでいるのかも知れない。人は自然から離れると病んでいくようである。

〔39〕(2014.07.01) ~意識の可塑性~

能は日常的なものから非日常的なものに意識を移行させる為に様々な仕掛けを施している。聴覚的にも視覚的にも工夫が為されている。能に限らず、人は様々な状況に置かれ、無意識に意識を変化させられている。自然、芸術、出来事、等、意識を変化させる要因は色々であるが、意識変化の状態も多岐にわたる。日常的・非日常的(同様に柳田國男のハレとケ)という区別はいかにも大雑把に過ぎると思う。もっと正確な意識の分類法があってしかるべきである。いずれにせよ、意識の有り様が取り巻く世界の見え方、感じ方、捉え方、理解の仕方を左右することは間違いない。意識が変わらないと分らないことがあるのだ。

〔40〕(2014.07.06) ~意識の識閾~

人によって危機感の意識レベルに違いがあるようである。これには識域の範囲や感度が関係している様に思われる。楽観的、悲観的と分類される性格とは、また違ったものである。リスクマネジメントに属するこの感覚は、人生に対するスタンスとは別のものである。現に楽天的であっても危機感の意識レベルが高い人がいる。「人事を尽くして天命を待つ」タイプの人である。概して、視野の狭い人は、危機感の意識も鈍いと言えるかも知れない。

〔41〕(2014.07.07) ~心境報告~

最近、若い頃考えていたことを再確認している。当時より多少考えが深まり、整理され、確信が持てるようになった気がする。青少年期の思索の日々が戻ってきたようにも思える。体力的には明らかに衰えているが、その分、時間とエネルギーを無駄にしなくなった。物心両面で多少余裕が出てきた所為かも知れない。ただし、生きられる時間、残された日々は、確実に少なくなっている。死を考えることもあるが、死が幾分か自然なものに感じられるようになった。少なくとも、若い頃の恐怖感はもう無い。

〔42〕(2014.08.07) ~聖人達の俤~

ソクラテス、孔子、ブッダ、イエス、この4人の聖人達に共通する点は、それぞれ生前、個々の弟子達に語りかけ、感銘を受けた弟子達が思想と人となりを語り継ぎ書き残したことである。
(ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。・・・Wikipedia)
ソクラテスの場合、以上の理由から意図的に著作を残さなかったようであり、いわば思想を生きた人であったと言うことができるが、この間の事情は、他の3人についても似たようなものではなかったかと思われる。これら思想を生きた4人の聖人達が残した足跡は、後の人類に計り知れない影響を及ぼしているのである。

〔43〕(2014.08.07) ~死者達の俤~

1923年(大正12年)9月1日、大正関東地震が発生し、大規模な 地震災害をもたらした。世に言う関東大震災である。
1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結した。
2011年(平成23年)3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、
記憶に新しい東日本大震災を引き起こした。

以上、多数の人々が亡くなった出来事を振り返る時、自然災害で亡くなった人々と、戦争で亡くなった人々では、遺された者達の想いが相当違うのではないかと思われる。自然災害で亡くなった場合は、運命として受け入れる余地があるが、戦死の場合、そこには人間の愚かさの記憶が付き纏っているからである。

〔44〕(2014.08.07) ~見えない戦争の傷跡~

出征し、生き残って帰って来た父親達に育てられた子供達に、父親の戦争体験がどの様な影響を及ぼしているのか、この点に関して、きちんとした調査研究が行われたという話を寡聞にして聞かない。このことが戦後日本の精神風土に、どのような見えない傷跡を残しているのか、いないのか、調べてみる価値はあると思う。少なくとも私自身について言えば、父の戦争体験から、何らかの影響を受けているように思えてならない。

〔45〕(2014.08.08) ~二人の詩人~

アルチュール・ランボオ (1854.10.20~1891.11.10)
中原中也 (1907.04.29~1937.10.22)
アルチュール・ランボオはマラルメをして「おそるべき通行人」と言わしめた、フランス象徴主義に属する早熟の詩人で、1875年以降は憑物が取れた様に詩作を放棄している。
中原中也は詩作当初、初期ランボオの詩に影響を受け、そのいくつかを翻訳している。まず、この二人の詩論を比較して見たい。 (ランボオの詩論) 『詩人』
「詩人になろうとする人間が最初にしなければならない探求は、自分自身を認識すること、それも完全に認識することです。彼は自分の魂を探求し、仔細に調査し、試練にかけ、それを学ぶのです。自分の魂を知ったらすぐに、彼はそれを養い育てなければなりません。そのことは簡単なことのように思われます。いかなる脳髄においても、何らかの自然な発展が成し遂げられるからです。数多くのエゴイストたちが、自分を作家であると表明しています。また自らの知的な進歩を、自分の力によるものだと考える他のエゴイストたちもたくさんいます!・・・けれども問題なのは、魂を怪物じみたものにすることなのです。コンブラキコスに倣って、ね!自分の顔に疣を植えつけて、それを養い育てている男の事を想像してみてください。見者であらねばならぬ、自分を見者たらしめねばならぬ、とぼくは言うのです。詩人とはあらゆる感覚の、長い間の、大がかりな、そして合理的な狂乱化を通して、見者になるのです。ありとあらゆる形態の愛と、苦悩と、そして狂気。彼は自ら自己のうちなるすべての毒を探求しくみ尽くして、その精髄のみを保存しようとするのです。筆舌に尽くし得ぬ責め苦、そこにおいて彼は、あらゆる信念、あらゆる超人的な力を必要とするのであり、さらにまた、きわめつけの病者、偉大な罪人、偉大な呪われ人になるのであり、・・・そして、至上の学者となるのです!なぜなら彼は、未知のものに到達するからなのです!彼は、すでに豊かだった自分の魂を、他のいかなる魂の努力にもましてさらにいっそう養い育てたのですから!彼が未知のものに到達して、気も狂わんばかりになり、ついには自分の見たヴイジョンの見分けさえつかなくなってしまったとしても、まさに彼は、それらのヴイジョンを見たことになるのです!前代未聞の、名ずけようのない事象を跳躍してゆくその運動の過程で、くたばったところが何でしょう。他のとほうもない働き手たちがやって来るでしょう。他の者が倒れた地平線から、彼らは仕事を始めるでしょう!」
(筑摩書房ランボー全詩集アルチュール・ランボー宇佐美斉訳)

(中也の詩論)『河上に呈する詩論』
「子供の時に、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとして、あまりに散文になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて、その間の理論づけは可能でない。
大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。
短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのは、それを作す人にハーモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。
短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。
真の「人間詩人」、(ベルレーヌの如き)と、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は「多くの詩人」と呼ばう。
「多くの詩人」が其他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビュションが、詩の中枢をなすといふことである。
彼等は、認識能力或は意識によつて、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、あまりにも生理作用で書き付ける。又此の時、「人間詩人」は、――否、彼は、常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。
五年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であつた。
――暫く天を忘れてゐた、といふ気がする。然し、今日古ぼけた軒廂が退く。
どうかよく、僕の詩を鑑賞してみて呉れたまへ。そこには、穏かな味と、やさしいリリシスムがあるだらう。そこに利害に汚されなかつた、自由を知つてる魂があるだらう。
そして、僕は云ふことが出来る。
芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!
(なんとなら、神は理論を持つてはしなかつたからである。而も猶、動物でもなかつたからである。)
千九百二十九年六月二十七日 Glorieux 中也 」

ランボーの言う「見者」は幻視者と預言者の両面を持っている。ランボーにしても中也にしても自己の意識的・無意識的世界の探求者であった。彼らはまた言葉以前の世界を探索していた。彼らに共通して言えることは、意識・無意識の世界に対峙する際、(ペルセウスがメドゥ―サを退治するに当って、石にされないよう、アテ―ナーから借り受けた、鏡の様な盾を携えて臨んだように)詩という鏡に映して認識していたことである。言葉以前の世界を言葉を用いて探求しようとしていたのだ。言葉以前の世界とダイレクトにアクセスするには、彼らは余りにも詩人としての才能があり過ぎたのかも知れない。しかし皮肉なことに、彼らが短い人生で遺した全ての詩に内包されている意識的・無意識的諸事象は、彼らを育んだ多彩で豊かな集合的意識・無意識の世界の存在証明ともなっているのである。ここで忘れてならないのは、集合的意識・無意識の世界には、詩的事象のみならず散文的事象も含んでいることである。
Cf.中原中也のランボオ評
「いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。
その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。 」〔昭和十二年八月二十一日〕
 (角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より) Cf.中原中也が訳した、ランボオ「永遠」(1872年作)

『永遠』

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。

見張番の魂よ、
白状しようぜ
空無な夜(よ)に就き
燃ゆる日に就き。

人間共の配慮から、
世間共通(ならし)の逆上(のぼせ)から、
おまへはさつさと手を切つて
飛んでゆくべし……

もとより希望があるものか、
願ひの条(すぢ)があるものか
黙つて黙つて勘忍して……
苦痛なんざあ覚悟の前。

繻子の肌した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ
やれやれといふ暇もなく。

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)

〔46〕(2014.08.09) ~コトバの誕生~

NHK BSプレミアム(地球大進化 第3回ヒトへと通じる道) によると先ず、肉食によって脳の発達が促され、コトバによるコミュニケーション能力の獲得をもたらし、ヒトへの進化に繋がったということである。コトバは自己と他者の意識を映す鏡であり、言語は文化の貯水池でもある。コトバはまた第二の遺伝子であり、言語は第二、第三の脳でもある。コトバと言語を習得して後の人類進化のスピードの速さは、何よりもこれらの事情を物語っている。意識がコトバの誕生以前に存在したことは確かであるが、意識を意識できたのは、コトバという鏡のおかげである。さらにコトバという鏡に映る他者の意識を認識することで、自己と自己の意識に目覚める。このプロセスは、現在、人が他人を理解する際、自己を基準として理解するのとは逆である。自己の肥大化の証と言ってよいかも知れない。ときには、他者のおかげで自己の意識に目覚めた原点に立ち返って、他者を虚心に理解して見てはどうであろうか。

〔47〕(2014.08.10) ~3つのM~

仕事には Mind,Moral,Motivation の3つが不可欠である。この3つは、人生を全うする為にも、無くてはならないものである。
人を思いやる  Mind
自らを律する  Moral
前向に生きる  Motivation
この3つを保持していれば、悔いのない人生を送れるであろう。しかし、この3つを保持し続けることは、至難の業である。

〔48〕(2014.08.11) ~宇宙の外側~

私の宇宙に対する興味は、子供の頃、宇宙の外側はどうなっているのだろうかという疑問をもったことから始まった。今日では、宇宙は始まりがあり、空間的にも時間的にも(時空連続体として)有限で、やがて終りが来ることも解ってきたが、その外側に関しては、いまだに未知のままである。この点に関しては、かの著名なホーキング博士も何も教えてくれていない。
果たして私の存命中に、この問題の科学的端緒が掴めるかどうかさえ不明である。ブラックホールの研究がその手掛かりになりそうな気はしているのだが。

〔49〕(2014.08.12) ~中間報告~

最近、頭の中で思索が言葉となって、芋蔓式に浮かんでくるのを実感している。永らく言葉と本の世界から遠ざかっていたが、それらがまた身近なものに感じられる。私がこれまで考えてきたことが、多少なりとも後生の役に立つのであれば、遺された時間を、これらを書き残す為に使ってもいいように思われる。しかし、それには、私が探求してきた「意識の解明」という課題に、納得できる答えを出さなければならない。自分が確信を持てないことは、人には伝えられないからである。その時が訪れるかどうかは、今後の探求次第である。

〔50〕(2014.08.13) ~科学と人間~

一口に科学と言ってもその中身は多岐にわたる。科学技術、科学的世界観、等々、様々である。原爆は科学技術が創り出したものであり、進化論も科学によってもたらされた真理である。人類にとって有用な科学もあれば、有害な科学もある。何よりも戦争と産業が科学技術の進歩を促してきたことからも、このことは明白である。科学的なものの見方は必要であるが、科学技術に関しては、功罪相半ばするものが多い。若い頃、私も数学をはじめ科学と称する学問を幾らか学んだが、その理由は、科学の名のもとに様々な言説が世の中に溢れており、これらに惑わされないようにする為であった。

〔51〕(2014.08.13) ~我が十戒~

十代の後半に、幸か不幸か、或る精神的体験をした。その為、普通の人生を送ることを放棄せざるを得なくなった。そこで、自らに、以下の十戒を課すことにした。

  • 一、 世俗的成功を望まぬこと。
  • 二、 世の中の価値観や評価に惑わされぬこと。
  • 三、 中途半端な同情心から人に近づかぬこと。
  • 四、 自身の欲望を満たすために他人を利用しないこと。
  • 五、 批判や非難をすることに時間と労力を費やさぬこと。
  • 六、 人は死すべき存在であることを、片時も忘れぬこと。
  • 七、 現実を直視し、非現実の世界に救いや逃げ場を求めぬこと。
  • 八、 人間が自然から生まれ、自然の一部であることを認識すること。
  • 九、 人の本質は変わらず、人の世には、解決困難な問題があることを肝に銘じること。
  • 十、 この世で生きる為には、妥協せざるを得ないことを自覚し、どうしても譲れないこと以外はこだわらず妥協すること。

〔52〕(2014.08.13) ~霊魂について~

お盆の時期だからというわけではないが、世の中には死後の世界の存在や霊魂の不滅を信じている人がいる。私はと言えば判断を保留している。あると証明することも、反対に、ないと証明することも、現在のところできないからである。(この様な命題はポパーの「反証可能性による検証」の埒外である。)仮に死後の世界があるとしても、現世に比してそれ程良い所とは思えないし、霊魂も生身の人間とそんなに違うとは考えられない。現世でも来世でも人間が人間である以上、本質的に変わらないと思っている。実際問題、現世の生身の人間にも、霊魂らしきものは宿っているのである。宗教によっては、生前と死後で、魂に劇的変化が生じると説くものもあるらしいが、いずれにせよ、霊魂にも良いものと悪いものがあるのは、平安時代に陰陽師の安倍晴明が悪霊退治に活躍した故事が伝えられていることからもわかる。要するに、この世もあの世も大して変わらないのだから、あの世に余り期待せず、この世での己の霊魂、すなわち心を磨いた方が、生ける屍とならない為にも、得策であるように思うのである。しかも、かのドストエフスキーが看破したように、この世でも「悪霊」が闊歩して居り、こちらの方がたちが悪く、退治しにくいのである。

〔53〕(2014.08.14) ~自問自答~

未だ私の「問題」は解けていない。何故そのことを知ることが最も大事なことなのか。そのことを知ることで人は本当に納得できるのか。誰にとっても、そのことを知ることは、同じように大切なことなのか。そのこととは何であり、そのことを人はどのようにして知ることができるのか。今、此処で、全てと一体となるとは、どういうことなのか。どうしたら体得できるのか。そのために最も重要なことは何なのか。言葉と物・事を結び付けるものが何なのか、確証は得られるのだろうか。

〔54〕(2014.08.16) ~人類の進化~

私の見るところ、人は持って生まれたものによって、ほぼ人となりが決まってしまう様に思われる。能力はもちろん性格なども、ある程度、遺伝子に左右されているようである。人は潜在的には人類の遺伝子の殆んど全てのストックを持って生まれてくるが、そのうち顕在化するのは極一部である。ここで問題なのは、種としての人類の遺伝子の表出に、どの様な淘汰圧が掛かっており、どのような遺伝子が優勢になるかである。ただ人類が地球上に増え、満ちればよいと言うものではない。善きサマリア人ならぬ善き地球人が増えることが望ましい。現状は、悪貨が良貨を駆逐している様に見えてならないのであるが。(cf.ルカによる福音書「善きサマリア人のたとえ」)

〔55〕(2014.08.23) ~芸術と宗教~

親鸞の思想に共鳴する日本人作家が何人かいる。倉田百三、吉川英治、丹羽文雄、津本陽、五木寛之などである。宮沢賢治は国柱会に入信し、法華経を信奉していた。トルストイは「キリストに倣いて」晩年、原始キリスト教的な思想を抱くに到った。歴史上の芸術家や思想家の多くは、その時代の何らかの宗教の影響を受けている。彼らが歴史に残る作品を作り得たのは、これらの宗教の影響があったからなのか、あるいは、その様な影響があったのにもかかわらずなのか。音楽や美術においては、宗教による思想的影響は、ある程度、限定的に考えても許されるかも知れない。しかし、哲学や文学の場合はどうであろうか。少なくとも私は、その様な哲学や文学に接する際は、この点を踏まえ、相応の距離を置くことにしている。

〔56〕(2014.08.23) ~芸術と哲学~

現在活動し、あるいはこれから世に出ようとしている芸術家達に付き纏
う困難は、彼らの拠り所となる哲学や思想が、どこにも見当たらないことである。勿論その様な困難に直面した戸惑いや、不安や、絶望を表出し、形にすることはできる。しかしその様な芸術作品は、不完全で、怠惰で、良心なき作品であり、人々に真の感動を齎すことは不可能である。今日、創作活動から生まれる作品が貧弱であるのは、まさに、この困難さゆえである。新たな創作活動を行おうとするには、新たな哲学をも生み出さなければならない。今後、芸術家を目指す者達は、この困難な課題を乗り越えて行かなければならない。

〔57〕(2014.08.25) ~人に説くこと~

人から質問を受けたら、分らないことは分らないと言い、分っていることは分る様に答えること。何を質問するかで、その人の人となりが伺える。また、質問の仕方で、その問題をその人がどの様に考えているか、ある程度分る。総じて人は、基本的な問題を、複雑に考え過ぎている。もっとシンプルに考え、シンプルに生きるべきである。とはいえ、頭で考えただけではだめで、経験し、実証して見なければならない。

例としてたとえば;
(質問)
「悟り」の境地とはどういう精神状態か
(答え)
たとえ劣悪な状況に置かれても、私利私欲を離れ、人を思い遣り、利他的な行動を自然に取れること

(私の私に対する質問)
「悟る」とはどういうことか。
(私の私に対する答え)
自己の意識が全世界の意識の「全体でもある部分」であることを認識し、部分と全体が一体であることを(ホログラフィックな意識体験を通じて)体得すること。

〔58〕(2014.08.26) ~意識とは何か~

意識界というべきものが存在する。動物にも植物にも、それぞれ意識界がある。人類にも意識界があり、変化、発展して今日にいたっている。意識が、何時どの様に発生し、意識界が、何時どの様に形成されたのかは定かではない。人類が言葉を獲得する以前であることは間違いない。意識界は、言語を主たる媒介として成立する文化とは似て非なるものである。意識界は、共時的、通時的、広がりを持つ。したがって、時代、地域により、ある程度、異なったものになる。個体としての人類は、意識界で生まれ育つ。個人意識は意識界で生まれ育つ過程で、おそらく、後天的に生じるものであるが、ある種の幻想に近いものかも知れない。個々人の頭脳はハードウエアーの役割を、言葉や文化はプログラム言語の機能を担っている。個人としての人は、意識界で様々な意識をインプットされて、意識体である個人となる。大事なことは、集合体としての人の意識界が存在して初めて、個体としての人の意識が成立すること、意識界が先ず在って、個人意識が派生することである。例えば、蟻に個体意識があるかどうか不明であるが、蟻は生涯、集団意識に従って活動している(ように見える)。自由主義や個人主義の影響で、個人の自由意志が持て囃されているが、実態は、それ程自由度の高いものではない。
ユングは、ある時代、ある地域の意識界を、元型的意識表象を含む集合的無意識と名付けた。ここで指摘しておきたいのは、意識と無意識という区別は、便宜的なもので、無意識もまた実体は、意識に他ならないことである。無意識が本当に潜在的なものであるとしたら、永遠に意識化されることはないであろう。ノーレットランダーシュは、意識はユーザーイリュージョンであると言っている。面白い捉え方ではあるが、意識の実態を解き明かすには到っていない (cf.トール・ノーレットランダーシュ「ユーザーイリュージョン;意識という幻想」)。個々人は確かに様々な形で意識をアウトプットしているが、顕在化した意識のみで、潜在的なものは表出し得ない。意識界と文化 意識とイメージ、意識界と言語 意識と思考、意識界と遺伝子 意識と感性、これらの関係については、今後の探求に待つ他ない。確かなことは、文化的、芸術的、学問的、日常的、等々、人間のあらゆる活動が、意識界、意識が形となって表出されたものであるということである。それらは謂わば、意識界、意識を象徴するものであり、生きた化石と称してよいかも知れない。

(追記)
フロイトは個人を対象として分析し、「無意識」の存在を明らかにすることで、「意識」の在り様を示唆した。
ユングは「集合的無意識」を発掘したことで、「集合的意識」象徴のアイデアを得た。

  • cf.1.意識場と称してよいものが、この宇宙には存在するのだろうか?
  • cf.2.数学の集合の概念に、意識概念は似ているかも知れない。ユングの「集合的無意識」は言い得て妙である。
  • cf.3.構造主義の発達心理学者、ピアジェは、数学的概念を心理学の研究に積極的に取り入れた。そのピアジェが「人が子供から大人になるとは、脱自己中心化することである。」と言っている。

〔59〕(2014.08.27) ~神あるいは宗教を巡って~

神の概念を伴う宗教の誕生は、人類の過渡的な集合意識によって齎されたものである。神や宗教を非科学的であるとして否定しても構わないが、これらを生み出した集合意識まで捨て去ってはならない。なぜならそこには、人類が到達した良質で貴重な意識が含まれているからである。これらの意識に感応した芸術家達が、すばらしい作品を創り出せたのも首肯できる。ルネサンス期、キリスト教の信仰のもとに活動していた芸術家達が、キリスト教の影響を受けていたにも拘わらず、後世に傑作の数々を残し得た所以である。例を挙げるなら、ラファエロをはじめ多くの画家達が「聖母子像」を描いているが、なぜであろうか。「聖母子像」は、母の子に対する無条件の愛を象徴すると同時に、神の人に対する無条件の愛をも暗示しているからである。ラファエロの「大公の聖母」に描かれている聖母マリアは、神の子、イエス・キリストの運命をも、その面差しによって暗示しているようにさえ思われる。マリアの無条件の愛のもとで育ったイエスは、人々に無条件の愛で相対することになる。イエスが人々の罪を赦し、人々の罪を一身で贖うことができた理由も、そこにある。


〔60〕(2014.08.29) ~理解と評価~

Aの意識とBの意識を下図の集合とする。
AとBの意識が交わり理解するとは、下図の(1)、(2)の何れかである。

(1)の場合はA、B、共に相手を部分的にしか理解していない。
(2)の場合はAはBを理解しているが、BはAを部分的にしか理解していない。

これらのことから、人と人が理解し合う為には、お互いにその気になって意識を交感し合うことが不可欠であるが、その場合でも双方共に相手を完全に理解することは、ほぼ不可能であることが分かる。これを「意識の壁」と名付けておく。このことは人が芸術作品を理解しようとする際にも当てはまる。芸術作品は作者の意識が形に成ったものだからである。例えば、芭蕉の俳句は、芭蕉の意識を観取してはじめて、その句境を理解できるのである。
次に問題なのは、人は往々にして、他人や物事をよく理解せずに評価することである。評価することで理解した積りになっていることさえある。本来は、きちんと理解し、その後に評価すべきである。しかも、そうしたからといって、その評価が適切であるかどうかはまた別の問題である。人はそれぞれ自己流の価値評価を行っており、通常、自分の価値判断に疑いを持たないからである。少なくとも言えることは、価値評価をするに当たっては、それなりの教養が備わっていなければならないということである。大方の人々は、漠然とした世の中の価値観を鵜呑みにして、評価を下しているが、世の中の評価が常に正しいとは限らないのである。

〔61〕(2014.08.30) ~意識の壁をなくすには~

人と人の間に「意識の壁」があり、相互理解を阻んでいる。「意識の壁」を乗り越えるには、どうすれば良いのか。個人の意識が人類の意識界を前提にして存在し得ること。個人意識も単に個人的なものではないこと。個人意識に捉われない、開かれた意識を持つこと。これ等のことは意識の実態を把握することで、了解されてくる。しかし、人と人が理解し合う為には、何よりも、お互いに相手を理解しようと思うことが肝心である。相手を理解しようと思う心、これこそは愛である。欲望を離れた愛こそが理解である。人を愛するとは、人を理解することである。また、人と人が理解し合うとは、お互いに意識を交感しあうことである。人は母親の愛を中心とする人の愛の中で生まれ育ち人となる。人が意識界で人としての意識を獲得できるのは、愛の存在があればこそである。キリスト教の神は愛であると言われる。菩薩の愛は、慈悲である。人は生まれながらにして人から愛され、理解されることを必要とし、生涯これを求め続ける。神や仏の前で、人は無条件に愛され、理解されていると感じ、救われるようである。人を無条件に理解するとは、人の欠点や弱点を含めて理解すること、すなわち赦すことを意味する。神や仏の前で人が救われたと感ずるのはその為である。人は人を愛する時、幸福感を覚え寛大な気持ちになる。その際、たとえ一時的にではあっても、「意識の壁」が取り払われ、相手との一体感が得られ、多少なりとも、意識界との繋がりを感受するからである。古来、芸術作品、文学作品、哲学、等が愛をテーマにしてきたのは、愛が人と人との意識の交感を促し、自己意識からの脱却をもたらすからである。昨日、「理解と評価」について述べたが、人が人をどう理解するかによって、当然、評価もまた違ったものになる。母親にとっては、たとえ出来が悪くても、子供は可愛いのである。母親は子供を無条件に愛することができるが、他人が他人を理解し、評価する場合は、やはり「意識の壁」が生じ、相互理解を阻んでしまう。人が人や物事を理解し、評価する為には「教養」が必要である。「教養」とは、単なる知識ではなく、人間としての品位、人生で培われた感性の豊かさ、バランス感覚、等を総合的に含意した言葉である。(英語で、教養=culture=文化である。)

哲学=フィロソフィーの語源は「知を愛する」という意味であると言われているが、この意味を誤解している人が多い。正しくは、「知ることを愛する」すなわち「理解することを愛する」という意味である。かのソクラテスは正しく「理解することを愛する」人であった。この点から見ると神や仏も哲学者であるとも言える。また、「教養人」とは、開かれた意識を持ち、深く人や物事を理解できる人、と定義できる。したがって「教養人」である為に最も肝心なことは博愛心の持ち主であるということである。此処までくれば、人はもはや、神や仏と遜色ない様にも思われる。

〔62〕(2014.08.31) 
~意識の広がりと質、志向性について~

この数日来、私は主に人の意識および人の相互理解について述べてきた。
ここで今一度、人の意識の働きについて考えて見たい。通常、人が人を理解する場合、自分を参照軸とし、人を推し量り、理解しようとする。したがって、人は自分を認識し、理解する程度に応じて、他者を理解できると言える。意識論の観点から見て、自分を知るとは、どういうことなのか。自己の意識の広がりと質、そしてその志向性を知ること、更には自己の意識が自己を超えた意識界に属していることを知ることである。なお且つ、この様な事実を認識することにより、いかに己が限定された意識界に捉われているか、その結果、自己と他者(ブーバーの言う我と汝)、物事、世界について、いかに不完全に理解し、行動しているかを自覚することである。
ソクラテスの言う「汝自身を知れ」とは、おそらく、こういうことであったに違いない。実際、大方の人々は、狭い、粗雑な意識で日常生活を送っており、社会も人々の不完全な相互理解をもとに成り立っている。多くの社会問題が日々絶え間なく起こっているのも、この為である。人は主として人の中で生きており、今や70億を超える人口を抱える地球上で、文明生活を送っている。人々の日々の関心事は、人間的な事象で占められている。ギリシャ時代に活動していたソクラテスにしても、その主たる考察対象は、人事にかかわることであった。もっともギリシャ時代には、デモクリトスのように、もっぱら自然を探求した哲学者らもいた。「人間的な、あまりにも人間的な」というエッセイを著したニーチエの考察対象も、人によって生み出された宗教であり、人によって人に似せて創り出された神であった。ファーブルは生涯、昆虫に関心を寄せ、昆虫たちと意識交感しようとしていたのではないかと思われる程である。現代では、ホーキングのように、宇宙に意識を向け、その成り立ち、仕組み、将来を解き明かすことをライフワークにしている者もいる。ホーキングはローマ法王庁から、宇宙の構造を考えてもよいが、その起源を知ろうとしてはならないと言われたそうである。なぜなら、宇宙は神が創りたもうたものであることは、自明の理であるからという訳である。神が自分に似せて人間を創ったという記述を含め、このような聖書の説明は、余りにも現実離れしているが、今日でも、これを信じている人々が居り、アメリカのある州では、ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁じている。
閑話休題。何を私が言いたいのかというと、人の意識の広がりは、人の世界に止まらないこと、意識は人間的事象のみを志向するものではないということである。意識界そのものも、人の意識界だけでなく、植物や動物の意識界が存在することは、すでに指摘した通りである。有機物一般におよぶ意識界が存在するか否か、さらに無機物を包含する意識界の有無については、今のところ不明である。ネイティブ・アメリカンは、無機物をもふくむ自然と意識を交感することができたと言われるが、定かではない。マヤ文明において、人々の意識が天空に広がる宇宙を志向していたことは、間違いない。日本人は山や海をはじめ自然の中の八百万の神々を敬ってきた。小泉八雲はこれを「神道の感覚」と呼んでいる。自然物や自然現象と意識を交感するアニミズムは、日本人のみならず、世界中の民族に、古くから、普遍的に見られる意識形態である。アニミズム的世界観が事実に基づく正しいものであるとは思わないが、「何故人は、この様な方法で世界を意識し、認識したがるのか」については、一考に値する。私が考えるに、人間そのものが自然から生まれ、自然の一部であることを、人間が本能的に感じているからではないだろうか。現在、意識と意識現象に関しては、物理現象の基本的構成要素自体に、何らかの原・意識的なものが含まれているのではないか、という説や、物質自体に意識は内在しておらず、物質がある巨視的レベルで特定の構造を取るに到った時、初めて意識現象が創発される、といった説が唱えられている。これらの根拠が薄弱で曖昧な仮説は脇に置くとして、当の意識現象に関わっている人間がこの宇宙から発生し、この宇宙を構成する一部であることに変わりはない。パスカルは「広大な宇宙から見れば、人間は風にそよぐ葦に過ぎないが、人間の思考(意識)は宇宙を包む」という有名な言葉を残している。現在の進化した文明に於いてもなお、人間は、人間的問題や人間の手に負えない問題を解決する為、神や宗教的権威に助けを求め続けている。一方で人間はまた、自身がそこで生まれ、そこに属している、自然そのものを、あたかもそれ自体が神であるかのごとく崇拝してもいる。一体、どちらがより賢明なのであろうか。ひとつ確かなことは、どんなに文明が進歩し、どれほど科学技術が発達したとしても、神ならぬ人間は、自然を創り出すことはできず、自然と離れては生きていけないということである。

〔63〕(2014.09.01) ~自然の逆襲?~

昨今顕著な地球規模の異常気象による自然災害は、人類が長年に亙り自然を破壊し、自然資源を無節操に浪費してきた報いであり、いわば天罰である。人類社会の人為的不幸の主たる原因となっている「意識の壁」にしても、人類が自然と遊離し、人間中心主義の文明を推し進め、自己中心的な価値観に陥り、エゴイズムを助長した結果、相互理解の大きな障害となるに到っている。自身の出自を忘れ、己の力量を過信した人類は、今や、物心両面で、自然の逆襲に晒されており、地球環境の砂漠化は、同時に心の砂漠化を齎している。「意識の壁」、が厄介であるのは、人はなかなかその存在に気付かないことである。面白い事に、意識の研究者にも「意識の壁」が有り、意識の実態を見えなくしていることである。ベルリンの壁は取り払われたが、「意識の壁」は未だに人類に立ちはだかっている。

〔64〕(2014.09.04) ~相互理解についての補遺~

アメリカの哲学者、トマス・ネーゲルは、1974年に発表した論文、『コウモリであるとはどのようなことか (What is like to be a bat ?)』のなかで、意識の主観的な性質は、科学的な客観性のなかに還元することはできない問題であると主張した。この論文は、心身問題の中心が意識の主観的側面(現象的側面)であることを指摘した思考実験のひとつとして、よく知られているものである。我々は、コウモリの生態をどれほど知っていても、当のコウモリがコウモリであることをどう意識しているかについては分らない。したがって、コウモリを人間が完全に理解することは不可能であるということになる。コウモリであること、という主観的意識の壁は、コウモリ以外の生き物には乗り越えられないからである。ネーゲルは残念ながら論じていないが、ここで更なる問いを提示して見たい。コウモリは仲間であるコウモリに関して、完全に理解できているのかどうか、という問題である。ネーゲルの問いが「集合体としてのコウモリと人間との意識の壁」であるとすれば、これは「個体としてのコウモリ同士の意識の壁」の問題である。宇宙人が人類を理解しようとする場合、「集合体しての人類との意識の壁」が障害となるが、人間が人間を理解しようとする際には、「個人的な意識の壁」まさしく「主観的意識の壁」が禍となっているのである。このことから、人と人の完全な相互理解は不可能であると言ってよいかも知れない。では、我々は、お互いにどの程度不完全な理解しか得られないのだろうか。ひとつには、集合的意識に対して個人的意識が持っている個体差の度合いに左右されるように思われる。次に言えることは、当事者の意識状態によって相互理解の深浅が大きく影響されることである。いずれにせよ、人と人の完全な相互理解の可能性に限界があることは確かである。しかし、だからと言って、できるだけ互いに互いを理解しようとする努力を、放棄してもよいということにはならない。
人が人を理解しようとする際、誤解や理解不足が付き纏い、正しく理解することがどれほど困難であるにしても、人は、人との相互理解を求めず、他人を無視し、孤立して生きていくことは不可能である。人間の社会は、それがどれほど不完全で、様々な問題を抱えているとしても、人と人との相互理解の可能性を前提として成り立っているからである。我々人類は、たとえ相互理解に様々な困難や障害が伴うとしても、可能な限り「意識の壁」を克服し、お互いの理解を促進する努力をあきらめてはならない。

〔65〕(2014.09.06) ~孤児の唄~

若い頃(今から40年程前)、或る雑誌に詩を投稿していたことがあった。選者は詩人の木原孝一氏で、その都度、掲載していただいたのを覚えている。「覚書」を一旦終えるにあたり、そのなかの詩をひとつ再読して、締め括りとしたい。詩人は見者(預言者)でなければならないとランボオは言った。書かれてから40年以上経った現在、果してこの詩は、現在の人々(若者達)の心象風景を描き得ているであろうか。

『孤児の唄』

俺達の尻に 火を点けたのは誰だ
またぞろ 運命の悪戯なのか
この平和な午後の巷を 俺達は
一体何処へ駆られていくのか
幽霊船に行く先を訊ねてみな
風に聞けって言うだろう

遣りて婆の 時の歩みは忍び足だ
流行り唄に染まった 俺達の耳には聴こえない
気付いたときは手遅れで とうの昔に
親の脛は 掏られていた
恋人達の想い出を 幾ら焚いた処で
冬を越すには 足りないだろう

継母みたいな警官に
どんなに優しく訊かれても
舌が縺れて答えられない
何故 ここに こうしているのか
精々 煙草を吹かすのが
精一杯の意思表示だ

それにしても口に苦い Peace の味だ
ビルの向こうで 陽が沈む
失くした帽子は 見つからない
夕べに神が甦る 奇蹟なんかも 起らない
陽気に群れ騒ぐ灯り達の
何処で今宵は 夜を明かそうか

〔66〕(2014.09.15) ~あとがきに代えて~

若い頃(10代後半)に、人として生き考える際に必要な、基本的事柄について探求し、その結果を何冊かのノートに書き留めた。その後も探求は継続して行われてきたが、主に、実生活に於いて、その成果を検証する作業に追われ、今日に到っている。今年、2014年2月14日から、若い頃考えた事を確認し、再検討しながら、再び日記風にパソコンで書き記すようになった。 その結果、半年余り経った8月26日から9月4日にかけて、集中的に思索が湧出し、これまでの探求に対する、ほぼ納得できる結論を得ることができた。これについて、何人かの知人、友人に話したところ、好意的な感想をいただき、勧められた為、何かのお役に立てばとも思い、パソコンで打ち直し、自家製本して、興味のある方々に、目を通していただくことにした。「覚書」の中身の大半は、基本的な事柄に関するものである。時事問題や、歴史上の問題に言及しているものもあるが、これらは基本事項の応用であると受取っていただければよいと思っている。パソコンで打ち直しながら、それぞれのテーマを掘り下げ、展開したい誘惑に駆られたが、断念した。そんなことを始めたら、いつまでたっても作業が終了しないことに気付いたからである。時間の許す方々は、自由に考えを巡らせ、思考演習として活用していただいて結構である。
丸山眞男は、生前・未公刊の覚書ノート、「自己内対話」(1998年1月24日)のなかで、次の様な言葉を書き遺している。
「国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも人格内交流を¦自己自身のなかで対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか。」 この一連の「覚書」が、目を通していただいた方々の「自己内対話」の一助となれば幸いである。
最後に、私の愛誦する詩、1929年、作者22歳の時に、雑誌「生活者」10月号に掲載された、中原中也の「サーカス」を載せて、筆を擱きたい。

『サーカス』

幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
今夜此処での一と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛(さか)り

サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外は真ッ闇 闇の闇(くらのくら)
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん