〔01〕(2016.12.11) ~続・去年今年(こぞことし)~
「覚書」〔21〕に掲載した、季語、去年今年(こぞことし)に、年頭所感を込め、過去6年間の年賀状に添えた俳句の続編を、雛型と共に御紹介したい。
◎一隅を 守り続けて 去年今年 (平成28年元旦)
◎地に落ちし 意い啄み 去年今年 (平成29年元旦・予定)
〔02〕(2017.01.02) ~年頭所感~
元旦、2日(本日)と今年の正月は神奈川県界隈では、穏かな初詣日和が続いている。恒例の皇居での一般参賀には、天候にも恵まれ、平成になって2番目に多い、9万6千7百人の参賀者が訪れた。多くの人々が参賀した理由の一つに、天皇ご自身が提起された生前退位問題の成り行きによっては、今年が、元気なお姿の見納めかも知れない、との思いが働いた所為もあったものと思われる。陛下は「新年おめでとう。皆さんと共にこの日を祝うことを誠に喜ばしく思います。本年が人々にとり穏かで心豊かに過ごせる年となるよう願っています。年頭に当たり我が国と世界の人々の平安を祈ります。」と挨拶をされた。私も全く同感であるが、昨年来、世界の先行きに様々な問題が影を落とし、不穏な空気が漂っている。欧州連合からのイギリスの脱退問題( 通称ブレグジットBrexit、Britainとexitを合わせたもの)、アメリカ次期大統領トランプの米国(の経済的利益)中心主義、ロシア・中国の拡張主義、世界各国に拡散するテロ、世界各地で頻発する自然災害、等々をはじめ、世界中の様々な、真偽入り混じった情報が、主にインターネットを通じ、リアルタイムに伝わり、人々の不安を煽っている。福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)は、『文明論之概略』の緒言で、「恰も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と述べている。一身にして三世を経るが如き現代人は、目まぐるしい世の中の変化に翻弄され、心休まる暇もない。時代に乗り遅れ、負組になるまいと必死で、様々な問題を吟味し、考える暇も無く、漠然とした、焦燥感、荒涼感を抱いて刹那的に生きている。(両刃の剣である)文明の急激な進歩によって齎された、物質的豊かさは、一方で、人心の荒廃を招き、精神の野蛮状態を生み出している。第二次世界大戦(1939~1945)での、連合国、枢軸国、中立国の軍人・民間人の死者数は当時の世界人口の2.5パーセント以上、総計5000万~8000万人に上ると言われ、軍人の倍の数の民間人が犠牲になった。わずか70数年前の事である。人類はいまだに軍拡競争に凌ぎを削り、世界のあちこちで戦争を行い、大量の難民が発生し、深刻な問題となっている。資源の争奪による自然破壊や貧困は、経済難民も生み出している。グローバル経済とインターネットで、世界中が結び付いている現在、ハムレットならずとも、まさに「世の中の関節が外れている(The time is out of joint )」と言わざるを得ない。日本は戦後、アメリカの核の傘のもと、平和と経済成長を謳歌してきたが、トランプ政権による日米関係の変化や高齢化社会の影響で、今後の経済的見通しは不透明である。スマホのチェックに忙しい、街ゆく老若男女の姿を見ると、日本と自分達の将来を真剣に考えているようには思われない。日本の敗戦からの復興は、先人達の犠牲と辛苦の御蔭であるが、此の事実を忘れ、刹那的に生き、平気で子々孫々に負の遺産を残そうとしているかの如くである。未来の日本人の資産を無断で切り崩している事に、多少の後ろめたさは覚えても、さほど強い罪悪感はもっていないようである。未来の人々の資産を欲望の赴くままに先食いする事態は、世界的規模で蔓延している。地下資源の乱開発、森林の濫伐、海洋資源の濫獲、これら自然破壊とバイオ技術の乱用による生物多様性の消失、等が、良識ある専門家の度重なる警告にも拘わらず横行している。自分達が生きている時代さえ良ければよいという、現代人の集合的意識=エゴが暴走している模様である。人は皆、多かれ少なかれ時代の子である。いつの世も人は、その時代の漠然とした理念と価値観に影響を受け生きている。個人レベルで世論に異を唱え、その影響から脱却することがいかに困難であったかは、歴史を紐解いてみれば明らかである。幾多の先人達が志半ばで挫折し、時代の露と消え、「世直し」という自己実現を果たし得た者は稀である。「タイムズ」紙が「怒れる若者たち」と名付け、1950年代後半に登場した、体制批判的な若手作家たちの一人である、コリン・ウイルソン(1931年6月26日~2013年12月5日)は、『アウトサイダー』(1956年)に始まる初期の実存主義思想のシリーズで、サルトル、バルビュス、カミュ、ドストエフスキー、ニーチェ、ジョージ・フォックス、グルジェフなど、さまざまな思想家や小説家に根ざしている実存的危機を読み解き、そこから抜け出す道を模索した。しかし、彼の提唱した「新実存主義哲学」を含め、その試みは成功しておらず、問題の解決には至っていない。日本の現状を見る限り、若者たちは怒る気力も失くしているようである。政府が若者を元気付けようと18歳選挙権を導入したりしているが、2016年7月10日に行われた、第24回参議院選挙の投票状況を見る限り、あまり効果は無いようであり、昨年暮れの紅白を若者受けを狙ってイメージチェンジしたNHKの試みも成功しているとは言い難いようである。そもそも、若者たちに「付け」を回した老人たちから、「後は頼む、日本を建て直してくれ」と言われても、多勢に無勢の若者たちは、しらけるだけであろう。今から15年ほど前、「9.11=2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件」以降、世界情勢が険悪化し、経済も不安定になった為、海外旅行ブームも下火になり、今や国内旅行を始めとする(寺、城、美術館、山、温泉、等を巡る)日本ブームが起きている。この際、旅行に関して、私見を述べさせていただくと、何処に行くか、より、誰が行くか、が重要である。猿に幾ら世界文化遺産を見せても、何にもならない。さらには、歴史への関心も高まっているが、歴史の授業でも、なおざりにされるのは、現代史である。この際、現在を見つめ直し、未来に思いを馳せて見ては如何であろうか。先ずは、老人たち自らが、与えられた暇を有効活用し、正しく現状を認識し、各人が出来る事から始めるべきである。自分達の生き方を痛悔し、言行一致を心がけ、残された人生で、身を切る改革を実践すべきであろう。時代の影響力は絶大であるが、時代を創っているのは個々の人間である。老人たちにとって正月は、一休和尚が狂歌で述べている様に、「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という心境かも知れないが、老い先短い老人こそ、馬齢を重ねない為にも、生きているうちに正しい意識に目覚め、まともな人生に一刻も早く踏み出すべきである。言うは易し、行うは難し、かく言う私も他人事では済まされない。今年も、越し方行く末を「覚書・自伝的エッセイ」を書きつつ考え、引続き日々の務めを果たしていく所存である。
〔03〕(2017.01.06) ~A skeleton in themselves~
前章で、一休宗純(1394年2月1日~1481年12月12日)の狂歌を紹介したが、正月に杖の頭に髑髏をしつらえ、「ご用心、ご用心」と言って練り歩いたというエピソードも有名である。これは、一休独特のメメント・モリである。メメント・モリ(memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句で、「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとしても広く使われている。メメント・モリの教訓は、キリスト教が普及する以前と以後とでは180度異なる。古代における、元々のメメント・モリの趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬのだから」という意味であった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。その後、キリスト教世界で違った意味を持つようになった。キリスト教の文脈では、メメント・モリは正反対の、かなり道徳化された意味合いで使われるようになる。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった。『死の舞踏』は、「メメント・モリ」の最も知られているテーマで、骸骨の姿をした死神が、貧乏人と金持ちを一緒に連れ去ろうとしている図で、これはヨーロッパの多くの教会で飾られていた。「静物画」は以前「ヴァニタス」(vanitas、「空虚」)と呼ばれていた。静物画を描く際には、どことなく死を連想させるシンボルを描くべきだと考えられていたからである。明らかに死を意味する骸骨(頭蓋骨)や、花びらが落ちつつある花などが、よくシンボルとして使用されていた。時計も、「現世での時間がどんどん少なくなっていくことを示すもの」と考えられていた。公共の時計には、 ultima forsan(ことによると、最後〈の時間〉)や vulnerant omnes,ultima necat(みな傷き、最後は死ぬ)という銘が打たれていた。ドイツのアウクスブルクにある有名なからくり時計は、「死神が時を打つ」というものである。なお、一休禅師のメメント・モリについて言えば、一休が破戒僧であったことから考えると、古代の、元々の意味に近いかも知れない。次に、骸骨にちなんで、有名なミイラに纏わる話を御紹介しよう。その墓が、イギリスの考古学者、ハワード・カーター(1874年5月9日~1939年3月2日)によって発見された、ツタンカーメン王のミイラの話である。(Wikipediaに拠ると)「ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 – 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 – 紀元前1324年頃)で、より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン (Tut-ankh-amen)である。最近のDNA鑑定、CTスキャン、病理解剖、等の科学技術の進歩により、これまで謎とされて来た、早世した王の出自と死因がほぼ明らかになった。ミイラの調査結果によると、ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリア(熱帯熱型)が重なって死亡した可能性が高いことが判明した。また、近親交配で生まれたことに起因する、遺伝による先天的な疾患を多数患っていた可能性が非常に高いことが確認されている。ツタンカーメンは埋葬より前に、左の大腿骨を骨折していたということも判明し、病理学者などが分析したところ、ツタンカーメンの左足(足首の先)は内側に傾いており、また、左足の指の付け根あたりの骨が腐っており、ケーラー病(足舟状骨という、足指の付け根の骨への血行が障害されて生じる、骨が壊死する病気)を発症していたと判断され、骨が体重を支えられる状態ではなく、ひどい痛みを伴ったはずであるため、生前の王は脚が不自由で、まともに歩行できる状態ではなかった、すなわち脚を引き摺っていた、と推定された。外科医のフタン・アシュラフィアンは、これらの症状は、ツタンカーメンは、生まれつき側頭葉てんかんを患っていたとすると説明がつく、とする見解を発表した。この見解に拠れば、ツタンカーメンは、側頭葉てんかんによって発作をともなった人生を送っていて、しばしば発作によって転倒していたと推測され、転倒事故によって大怪我をした可能性が高く、その結果、大腿骨を骨折し、それが原因で死去した可能性があるとされる。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名したり、首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻したりしたのも、側頭葉てんかん、にともなう衝動的・夢想的傾向に起因するものとの見方もある。」要するに、ツタンカーメンは近親相姦・近親結婚の犠牲者と考えてよいであろう。英語に「A skeleton in the closet」(家庭内の秘密,外聞をはばかる一家の秘密[恥])と云う諺があるが、この場合、「A skeleton in themselves」(生まれながらに負っている遺伝的欠陥)と言ってよいかも知れない。正月早々、(Wikipediaを参照しつつ)「骸骨」に纏わる話をしたのは、「メメント・モリ」と「skeleton」が私にとって、身近なものと感じられるようになったからである。私の育った一家は、両親と男3人兄弟(次男の私、2歳年上の兄、8歳年下の弟)である。父は、30年ほど前、脳溢血で68歳で亡くなったが、母と兄、弟は存命中である。92歳の母は現在、遷延性意識障害で、所謂、植物状態になり、一昨年9月から実家近くの介護型病院に長期入院している。入院以前は、10年以上に亘って、アルツハイマー型認知症を患い、実家で弟が世話をしていた。現在50代後半で、依然として独身の弟は、適応障害の為、母の発症以前から、母と同居し、母の被扶養者となっていた。15年程前、母が墓参りで帰郷した際、同行した兄と私は、母が初期の認知症であることに気付き、その後の対策を家族4人で集まり協議し、具体的な取り決めを行った。母も同意の上で決めた事であったが、直後、母が翻意したため、実現には到らなかった。(認知症の厄介なのは、本人が認知症であると自覚しない事で、馬鹿が馬鹿であると自覚しないのと同じである。)その後、兄と私は、年々症状が進行する母の様子を定期的に見守り、その間、弟は、なし崩し的に、母の面倒を看る名目で、母の資産を自由にしていた。兄と私で、母の資産状況をチェックしようとしたこともあったが、弟の抵抗にあい、出来ずじまいになっていた。一昨年の9月初め、90歳の母が脳卒中で倒れ、危篤状態に陥った為、兄弟三人で、貸金庫を開け、母の資産状況を確認した。その結果判明したことは、20年程前、大手銀行を上司が原因のストレス障害で早期退職し、当時、和解金を含め、5千万近い貯蓄があった弟が、じきに、遊興三昧で使い果たし、無一文になり、勝手に、母の代理人となり、母の口座から現金を引き出し使い込んでおり、一時、東京都の長者番付に載った程の母の資産が、すでに半減していたことであった。猶、母の死に備え、私は、家族葬の準備をし、母の遺影を用意したり、念のため、僧侶の参考にと思い、短歌を嗜んでいた母に因み、「慈祥院詠眞壽徳清大姉」という戒名まで作っておいた。参考までに言えば、父の戒名は「真覚院頴範儀道清居士」である。危篤状態にあった母は、長期の認知症と高齢のため、脳が委縮していたのが幸いし、脳浮腫による脳死を免れ、植物状態で生きながらえる事になった。1ヶ月後、容体が安定し、搬送された救急病院から現在の介護型病院に移されたが、その際、兄と私は、母の資産を保護する為、母に成年後見人を付けることにした。弁護士の成年後見人が確定し、弟は、実家に居候の身となり、自活できるまで、母の貯蓄から毎月7万の食費を支給されることになった。これで一安心と思っていたが、最近、新たな問題が発生した。私の住まいから母の入院先の病院までは、車で片道1時間半程かかるが、遠方にいる兄の代わりに、私が病院との窓口となり、毎週、妻とともに、1年以上にわたり見舞いに通っていた。一方、弟は、病院が実家の近くにあることもあり、毎日、午前と午後の計6時間以上、婦人専用の大部屋に居る母のベットの側に居座り、看護婦にクレームを付けるなどしていたが、ついに、これが問題となり、先月はじめ、婦長さんとソーシャルワーカーから転院を勧告されたのである。私も、弟が毎日病院の母に会いに来ていることを知らなかった訳ではなく、気になって、見舞に行く度に、婦長さんに、弟が迷惑をかけていないか聞いていたが、弟から口止めをされていたこともあり、婦長さんは遠慮して何も言わなかった様である。母のいる4人部屋には、胃瘻を付けた母と同じような患者さんばかりで、心なしか、皆、痩せて同じような顔つきをしている。かれこれ、1年以上毎週通っているが、意識障害のため表情が無くなる所為か、母の顔が徐々にミイラ化している様な気もする。口を空いていると、ムンク(1863年12月12日~1944年1月23日)の『叫び』に描かれている人物そっくりで、無言の叫びを上げている様にも、見えない手で耳を塞ぎ、声なき声が聞こえない様にしている様にも見える。病室内は特有の臭いが立ち込めており、最近私は、室内に入らず、ドアの窓から覗いて帰ることが多い。そんな処に、弟が毎日6時間以上どうして居れるのか、不思議であったが、母と弟が共依存者の関係にあったと考えると、納得できる気がする、また、そうでも考えない限り、長年の母の認知症の介護から解放された弟が、相変わらず母の傍を離れられない理由が分からないのである、先日、遠路遥々、母の様子を見に訪れた兄を病院に案内した際、母の側にいる弟と出くわし、病室を出てきた兄が私に、冗談まじりに、母子ともに健康だったと言った時は、とても笑う気にはなれなかった。母の意識障害を除けば、確かに母と弟は母子ともに健康ではあるが、どう見ても、健全とは言えないからである。弟が病院スタッフの顰蹙を買い、病院サイドから転院勧告を受けていることについては、母の成年後見人である弁護士に伝え、ソーシャルワーカーと話し合ってもらった結果、転院先を紹介して頂ける事になり、とりあえず、問題の解決の目処は立ったが、弟自身の問題は依然として、未解決のままである。弟は、社会人になってから、亡くなった父に似てアルコール依存症気味になり、適応障害を患い、母との共依存症に陥っている。何とも気の毒な人生であり、私たち一家にとっては、「A skeleton in the closet」 (家庭内の秘密,外聞をはばかる一家の秘密[恥])でもある。同時に,ツタンカーメン王の場合と同じく、「A skeleton in themselves」(生まれながらに負っている遺伝的欠陥)でもあるかも知れない。何故なら、父と母は、母方の従兄妹同士であったからである。
〔04〕(2017.01.09) ~家出を巡るエピソード~
「釈迦(紀元前463年 – 紀元前383年 : 中村元・説)の本名はゴータマ・シッダッタ、またはガウタマ・シッダールタであり、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその7日後に死んだ。シャーキャの都、カピラヴァストゥで、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にも、子供が生まれた、という説もある。当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派など、ヴェーダの権威を認めない異端派が、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時、老人に会い、南門より出る時、病人に会い、西門を出る時、死者に会い、この世には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。長男のラーフラが生まれた後、29歳の時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてより念願の出家を果たした。
アッシジのフランチェスコ(本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、 1182年 7月5日 – 1226年10月3日)は、フランシスコ会 (フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸で従う」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」と共にイタリアの守護聖人となっている。フランチェスコは1181年もしくは1182年に、イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで生まれた。父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーレという裕福な毛織物商、母親はジョアンナもしくはピカという名でフランスの貴族の家の出であるとも伝えられているが、これについての信憑性は薄い。この時期の都市に住む平民として、フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだ。フランチェスコの青年時代は、貧富貴賤を問わず誰に対しても礼儀正しかったが、気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。プロヴァンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを気前よく引き受けていた。当時のヨーロッパは人口と経済が飛躍的に伸長し、それに伴った急速な都市化が進行して、新しい時代の制度が模索されている時期であり、戦乱も絶えなかった。イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立すると共に、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立し、都市間の争いなどと複雑に絡み合っていた。アッシジは皇帝派を後ろ盾とする貴族や騎士階級が治世権を有する都市であったが、1198年から1200年にかけて反乱が起きて平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されている。町を見下ろしていた、ドイツ軍が駐留するための要塞もこのとき破壊された。平民の一員であったフランチェスコも、この内乱に参加していた可能性がある。隣町のペルージャと、そこに逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛けたのが1202年のことである。フランチェスコも戦闘に参加したがアッシジは敗北した。彼はペルージャの牢獄で、捕虜として一年以上を過ごした後に釈放されて、和議が成立したアッシジの町に帰った。ペルージャの捕虜時代であるのか、釈放後なのかは伝記によって異なるが、フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった。友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後、フランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復してまわった。父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に寄進した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて、自分の道を進もうとする息子との間に、確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決し、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」と衣服を父に差し出し、自分にとっての父は「天の父」だけだと言い、親子の縁を切った。」
以上、著名な二人の聖人達の、家出に到る名高いエピソードを、Wikipediaに拠って辿って見た。此の二人に共通して言えるのは、恵まれた環境と生活を捨て、俗世を超越した宗教的世界に、真の生きがいを求めた事である。また、その後の二人の生涯を見る限り、それぞれ、信仰を体現し、人類の精神文化に、不朽の足跡を残している。しかも、此の二人は、活動した当時から人々に慕われ、名も知れ渡っていた。特にフランチェスコに関して言えば、ソクラテスやイエスの末路と比較して、権力と権威が錯綜し、争いが絶えない時代に生き、無事、己の人生を全うしたこと自体、まことに希有な事であると思われる。二人は、自身では殆んど何も書き残して居らず、彼らを敬う周りの人々によって、今日まで、その事蹟が伝えられている。彼らは、歴史上、人々に最も敬愛された聖人達であるが、同時に、彼らほど、人々の悲しみや苦しみを理解し、共感することが出来た者も稀である。厭世感や人間不信に陥った人々にとって、彼らの存在は、大きな慰めと希望であり続けるに違いない。彼らに寄せる人々の思いも、彼らと渾然一体となり、その象徴的存在としての彼らと共に、人々の意識の中に、脈々と生き続けることであろう。
二人の聖人達の話の後、私事で恐縮であるが、幼少より、文学を始めとする書物の世界に、どっぷりと浸かり、世俗における栄達より、真実を求める生き方をすべきである、という作家や芸術家達の誘いに心動かされ、おこがましくも出家前の彼らと同じような問題に、青少年時代に直面していた私にとっても、彼らの存在は、大きな支えであった。しかし、一方で、彼らの生き方は、新たな難題を私に突き付けるものでもあった。西洋思想を理解する為には、ギリシア神話と聖書が必読書であると、よく言われる。たしかに、ギリシア神話の存在無しに、ソクラテスやプラトンの哲学を含め、ギリシア文化は成立し得なかったに違いない。また、ユダヤ思想に端を発する聖書の存在無しに、イエスの誕生はもとより、アウグスティヌスを始めとする教父達や有名・無名の芸術家達による、キリスト教文化の発展も、見られなかったであろう。さらには、キリスト教文化と、その形成にも一役買っているギリシア文化との融合無しに、ルネッサンス文化は、花開かなかったことも確かである。西洋哲学・思想における、ギリシア哲学、なかんずくプラトン哲学とキリスト教神学の影響は絶大であるが、ホワイトヘッド(1861年2月15日 – 1947年12月30日)のように「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」とまで言うのは、明らかに過大評価である。現在、西洋文化圏は、近・現代の急速な、科学・科学技術の発展と低迷する伝統的思想・文化とのギャップに苦しんでいる。フランチェスコの時代には、まだ生きていた信仰が、次第に薄れ、キリスト教を筆頭とする、宗教の権威も弱体化し、もはや、このギャップを解消する力は持っていない。グローバル時代と言われる今日、同様の事は、東洋文化の粋とも言える、インド哲学・仏教についても当て嵌まる。すでに宗教は、その傘下に、科学や科学技術をとどめて置くことは出来なくなっている。釈迦やフランチェスコの時代には、真実を求め、出家するという道があったが、今やその選択肢は失われて久しい。私に突き付けられた難題とは、まさに、この事であった。書物とともに豊かな自然に囲まれて幼少時代を送った私は、自然に救いを求め、自然の中で生きて行こうと考えたこともあり、懇意にしていた、養蜂家の生活に憧れたこともあった。私が親近感を抱いた思想家の多くが、シートン(1860年8月14日 – 1946年10月23日)、ファーブル(1823年12月21日 – 1915年10月11日)、ソロー(1817年7月12日 – 1862年5月6日)、ダーウィン(1809年2月12日 – 1882年4月19日)、などのナチュラリストであったことも原因であったかも知れない。しかし、この選択は、問題から目を逸らし、逃避するだけであることに気付き、断念した。そもそも、肝心の自然自体、文明によって破壊され、逆に援けを必要としているのである。結局、トルストイやルソーのように「自然に帰る」のではなく、諸悪の根源である「人間のもとに止まり」、そのなかで、模索するしかないとの結論に達し、ヴ・ナロード(人民の中へ)ではないが、裸で、世間の人々のなかに飛び込む事を、決意した。その当時、寺山 修司(1935年12月10日 – 1983年5月4日)の『書を捨てよ、町へ出よう』(1871年)という映画が話題になっていたが、私は、丁度そのころ翻訳出版された、フランスの哲学者、ミッシェル・フーコー(1926年10月15日 – 1984年6月25日)の著書『言葉と物、人文科学の考古学』(1974年)を携え、両親に無断で家を出て、東京都台東区北東部に在る、ドヤ街・山谷(さんや)に向かった。
(付記)
余談であるが、日本の現状をみると、家庭が崩壊し、その機能を失っているため、家に居ながらにしてホームレス状態となっている子供たちが増えている。その子供たちにとっては、家出をする家も無いことになる。私の場合、家出をする家があり、まだ、幸せであった。さらに余談であるが、釈迦が創始し、フランチェスコが帰依した、仏教とキリスト教は、東西を代表する宗教であるが、この二つの宗教が命脈を保っているのは、宇宙を視野に入れ、教理を展開しているからである。キリスト教の神は、宇宙の創造主であるが、人間だけの為に存在している訳ではない。キリスト教に関して、この辺りの事情は、聖書のヨブ記にしるされている。神はヒューマニストでは無く、どちらかと言うと、ナチュラリストであり、科学によって、宇宙創造の謎が解明されたあかつきには、神はその役割を終えることになるかも知れない。なお、キリスト教の神は父なる神であり、本来、人を罰するのが主たる仕事である。神の僕(しもべ)であるイエスに、神の許可なく、勝手に「許し」という内職をさせようと目論んだ、遠藤周作(1923年3月27日 – 1996年9月29日)の『沈黙』(1966年)は、カソリック教会の禁書となっている。対・キリスト教徒、対・異教徒を問わず、神が厳しさを欠いていたら、浮き沈みの激しい西洋社会にあって、その権威は、とっくの昔に失墜していたことであろう。
〔05〕(2017.01.13) ~『孤児の唄』再考~
「覚書」末尾に掲載した『孤児の唄』は、40年程前、アルチュール・ランボー(1854年10月20日 – 1891年11月10日)の「詩人は預言者でなければならない」という教示に従い、当時、40年先である今日の、若者達の心象風景を予想して書いた詩である。此処で再掲して、日本の現状と照合して見たい。
『孤児の唄』
俺達の尻に 火を点けたのは誰だ
またぞろ 運命の悪戯なのか
この平和な午後の巷を 俺達は
一体何処へ駆られていくのか
幽霊船に行く先を訊ねてみな
風に聞けって言うだろう
遣りて婆の 時の歩みは忍び足だ
流行り唄に染まった 俺達の耳には聴こえない
気付いたときは手遅れで とうの昔に
親の脛は 掏られていた
恋人達の想い出を 幾ら焚いた処で
冬を越すには 足りないだろう
継母みたいな警官に
どんなに優しく訊かれても
舌が縺れて答えられない
何故 ここに こうしているのか
精々 煙草を吹かすのが
精一杯の意思表示だ
それにしても口に苦い Peace の味だ
ビルの向こうで 陽が沈む
失くした帽子は 見つからない
夕べに神が甦る 奇蹟なんかも 起らない
陽気に群れ騒ぐ灯り達の
何処で今宵は 夜を明かそうか
詩中の「失くした帽子」は、森村誠一の『人間の証明』(1975年、『野生時代』掲載)、に挿入され話題になった、「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?ええ、夏、薄水から霧積へゆくみちで、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ・・・」という、有名な、西條八十の詩、『ぼくの帽子』を踏まえたフレーズである。さて、現在、日本は、高齢化・少子化社会となっており、2年前に公表された、3年前の人口推計結果によると、年少人口(0~14歳)は、1639万人で、前年に比べ、15万7千人の減少となっており、生産年齢人口(15~64歳)は、7901万人で、前年に比べ、116万5千人の減少となり、35年ぶりに、8000万人を下回っている。一方、65歳以上の人口は、3189万8千人で、前年に比べ、110万5千人の増加となっている。晩婚化が出生率の低下を招き、同時に、婚姻率も低下しており、少子化という悪循環から抜け出せない状況である。因みに、男女共に、パートナーのいない者も増えており、この冬を、独りで越さなければならない者も少なくない。この種の悪循環は、日本の現状が、経済的にも、社会的にも、不安定で、加えて、先行きも、不透明であることにより、齎されたものであると考えられる。しかも、この状況を抜け出す、指針も方策も見当たらない。まさに「日本丸」の行き先は、世界情勢の風まかせである。仮想世界に浸かっている、寄る辺のない若者達の知らぬ間に、時代の荒波が刻々と迫ってきている。「家貧しくして、孝子顕わる(明心宝鑑)」のを待ちたいが、雲行きが怪しくなってきており、今や、時間も、あまりない。核家族化した日本では、家出しなくても、何れ、親元を離れ、家を出て、自立しなければならない。特に男の子は、社会人となり、自立することを求められるが、最近、社会人になっても、物心両面で、自立できずにいる若者が増えている。「親は無くとも、子は育つ(浄瑠璃、双蝶々曲輪日記)」と昔、日本では言われたものであるが、今日の、世知辛い世の中では、「親は有っても、子は育たなく」なってしまっている様である。また、「三つ子の魂、百まで」とも、よく言われるが、近頃は、社会に出てから、隠れた性癖が露見するケースが多いように見える。我が弟の場合も、大学在学中までは、別に、これと言った問題は起こさなかったが、就職して、社会に出てから、隠れていた欠陥が、表に出て来たようである。この様な状況は、何も、日本に限ったことではなく、世界各地で、それぞれの地域の、発展状況と文化特性に見合った形で、何らかの、社会的齟齬をきたしている様に思われる。「続・覚書」の〔09〕~人類と環境~、や「続々・覚書」の〔14〕~人類の進化~で、文明の淘汰圧が与える、人類への影響について、触れておいたが、人間が「時代の子」であることを考え、近・現代における急激な文明の発展による、社会変化の現状から見て、人類の多くが、適応不全に陥っている様に思われる。「続・覚書」、〔24〕~男と女~で指摘しておいた、男になれない男の子、女になれない女の子の問題も、このような状況から派生しているのかも知れない。「宇宙船地球号」は、何処に向かって進んで行こうとしているのであろうか。「宇宙船地球号(Spaceship Earth)」という言葉は、20世紀アメリカの建築家・思想家、バックミンスター・フラー(1895年7月12日 – 1983年7月1日)によって有名になった。彼は1963年、『宇宙船地球号操縦マニュアル』を著し、宇宙的な視点から地球の経済や哲学を説き、地球の歴史とともに蓄えられてきた有限な化石資源を燃やし消費し続けることの愚を諫めている。これらの資源は自動車で言えばバッテリーのようなものであり、メイン・エンジンのセルフ・スターターを始動させるために蓄えておかねばならない、メイン・エンジンとは風力や水力、あるいは太陽などから得られる放射エネルギーなどの巨大なエネルギーのことであり、これらのエネルギーだけで社会や経済は維持できると主張し、化石燃料と原子力だけで開発を行うことは、まるでセルフ・スターターとバッテリーだけで自動車を走らせるようなものだと述べた。彼は人類が石油やウランといった資源に手を付けることなく、地球外から得るエネルギーだけで生活することが可能であるのに、現存する経済や政治のシステムでは、実現不可能であると述べ、変革の必要性を強調している。今日の、異常な社会に於いては、適応に成功している「勝組」も、適応に失敗している「負組」も、等しく、時代の犠牲者である。この様な視点から見れば、我が弟も(母も)、時代の犠牲者であるとも言え、逆に、私が無事、家出をできた幸運も、時代が、たまたま良かった御陰である、と言えるかも知れない。
〔06〕(2017.01.22) ~Pax Familia~
人類の歴史上、比較的平和な時期が継続し、社会が安定し、人々の暮らしが平穏であった時代は、Pax ・・・と呼ばれている。最も代表的なのは、Pax Romanaである。パクス・ロマーナとは、「ローマの平和」を意味し、ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和を指す語であり、パクスとはローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボン(1737年5月8日- 1794年1月16日)が『ローマ帝国衰亡史』のなかで五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と評し、「パクス・ロマーナ」というラテン語の造語で表現してから広まった。ギボンは五賢帝の時代をそう表したが、一般的には、アウグストゥスが帝政(プリンキパトゥス)を確立したキリスト紀元前27年から、五賢帝時代の終わりであるキリスト紀元180年まで、を指すようになった。
振り返ってみると、私が幼少時代を送った頃は、まだ、世の中が、文明の急激な変化の波に晒されておらず、私が育った敗戦間も無い日本の、文明から隔絶した田舎では、とりわけ穏かに、日々が過ぎていった。私の両親、兄弟にとっても、平穏な暮らしが続いた時期で、まさにPax Familiaといってよい。一家が平和な生活を過ごした、想い出の地を、私も兄も、結婚を意識した相手と共に、母も、父の死後、弟を伴い、訪れている。以下、この地での、私の幼年時代を想い返して見たい。父は、理想主義者でロマンチストで、ディレッタントでもあった。会津藩出身者であったことから、文武両道を志し、文理両刀を理想としていた。青少年期、宮沢賢治の生き方に共鳴し、斉藤茂吉、寺田寅彦、森鴎外、等に傾倒していた。姉の夫が農林省の技官だったり、その弟が、大学教授で、品種改良の研究者だったこともあり、北大予科から、農学部獣医学科を卒業し、農林省の役人となった。予科から大学時代を通じ、北大柔道部に所属していた。なお、卒業から入省までの間に、敗戦間近の太平洋戦争に出征している。父は、旧日本陸軍によって建設・運行され、大戦中にタイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた鉄道、(英国人捕虜から「死の鉄道」と恐れられた)泰緬鉄道の建設に従事し、兵站を担当していた。マラリアに罹るなど、九死に一生を得て、戦後、何とか無事帰還した。農林省入省後は、技官として、試験牧場で、家畜の品種改良の研究に従事した。以前から、恋愛関係にあった、父と母は、終戦後、間もなく結婚した。高等女学校を卒業した母の実家は、会津藩の落人の家系で、青森県下北半島の素封家であり、二人は、従兄妹同士であった。母には、将来を嘱望されていた兄が2人いたが、戦死し、実家は、弟が継ぐことになった。父は、北海道、福島、長野、と試験牧場を転勤した。長野時代には、私の8歳年下である弟も生まれ、在任期間が最も長かった。私は福島で生まれたが、物心ついてから、小学校低学年まで、長野県佐久市の牧場で育った。両親と兄弟の一家ともども、この地で、約10年間、比較的穏やかな月日を送り、まさにPax Familiaの時期であった。通称、佐久市・長野牧場は、元々は、「長野種馬所」が、終戦後、1946年に、「長野種畜牧場」と改名され、父が赴任した頃は、種馬の他、ジャージー種の牛、山羊、兎、牧草の、品種改良・育成がおこなわれていた。現在は、2009年から、「独立行政法人、家畜改良センター茨城牧場長野支場」となり、山羊・兎の系統育成、優良飼料作物の繁殖、飼料作物種子の品質検査、等に、従事している。浅間山を望む、風光明媚なところで、桜の古木が林立し、花見の名所でもあり、今も、市民の憩いの場となっているようである。牧場には、農林省の役人と、牧場職員、家畜の世話をする牧夫が働いており、それぞれ、住む地域が分かれていた。私たち一家が暮らしていた官舎は、土手で仕切られた、600坪程の敷地に、家屋と納屋と畑があった。畑では、野菜や果物を作っており、近所の農家の人が手伝いに来てくれていた。「パトス」と名ずけられたボーダーコリーを飼い、何種類かの小動物も飼育していた。当時は、まだ、ガスはなく、薪を燃やして、煮焚きし、風呂を沸かし、薪ストーブで暖をとっていた。当初は、水道も引かれておらず、井戸水を使っていた。兄と私は、父の薪割りや、井戸水を運ぶ手伝いをし、ローラ・インガルス・ワイルダー(1867年2月7日 – 1957年2月10日)の『大草原の小さな家』のような生活であった。若く、理想に燃えていた父母は、このような不便な暮らしをものともせず、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。私たち幼い兄弟も何の違和感も覚えず、自然のなかの生活に溶け込んでいた。父母は、教育熱心で、厳格であった。優等生であった兄に比べ、悪童であった私は、よく、叱られていた。一度、夜、父から家の外に出されたことがあった。私は犬を連れて納屋に行き寝ていて、父が抱きかかえて家に入れ、布団に寝かせてくれたのに、気付かなかった。町の保育園に3年行き、隣接する小学校にも3年通ったが、保育園でも、小学校でも、我が強く、問題児であった私は、教室から出されることも多かった。そんな時は、運動場で、泥まんじゅうを作ったり、遊具で暇をつぶし、休み時間になると、皆を従えて、戦争ごっこなどをして過ごしていた。父と母は、度々、保育園や小学校から呼び出しをうけ、私の素行に関し、苦言を呈された。小学校の3年生の頃、両親が一緒に呼ばれ、余程のことをしでかしたに違いないと出向いたところ、知能テストで、私が、長野県で、テストが始まって以来の高得点であったため、信州大学の教育学部から、しばらく、調査させてほしいとの申し出があり、両親の了解を得たいと言われ、二人とも、何かの間違いではないかと、半信半疑だったそうである。その後、長野県の作文コンクールで、一等をとったときは、両親は、まんざらでもなかったようで、父の同僚の奥さん・寿々子さんが、志賀直哉(1883年2月20日 – 1971年10月21日)の三女で、たまたま夏に、志賀直哉が遊びに来た際、私を連れて、作文を見てもらいに行ったことがあった。事前に私は『清兵衛と瓢箪』を読まされていたため、「その後、清兵衛はどうなったのか」と聞いたところ、志賀直哉は「私も知りたいが分からない。人はどうなるかではなく、どう生きるかが大事だ。」と言ったのを覚えている。学究肌の父は、戦争で失った時間を取り戻そうとしているかのように、勉学と研究に没頭していた。父の書斎には、ヨーゼフ・カール・シュティーラー(1781年11月1日 - 1858年4月9日) による 、最も有名なベートーヴェン(1,820年・50歳)の肖像画の複製が掛けてあり、壁の本棚には、東京の老舗洋書店のカバーが掛かった原書が並んでいた。父の死後、蔵書を整理していて、当時購入された、ノーバート・ウィーナー(1894年11月26日 – 1964年3月18日)著『サイバネティックス』の原書を見出し、父の先見の明を再認識したことがあった。家族用の本棚も居間に在って、岩波・子どもの本、新美南吉全集、宮沢賢治全集、少年少女世界文学全集、少年美術館、鴎外全集、寺田寅彦全集、などが置かれていた。当時、父は、俸給のほとんどを、本代につぎ込んでおり、盆暮れには、東京の書店から、中元と歳暮が送られて来ていた。生活費は、母の実家からの仕送りで賄っていたようである。毎週土曜には、後輩たちを自宅に集め、勉強会、食事会、を催していた。子煩悩な父は、毎晩のように、眠りに就く前の兄の枕元で、「岩波・子どもの本」や宮沢賢治の童話を読んで聞かせていて、隣で寝ていた私も、知らぬ間に、岩波・子どもの本や賢治の童話をあらかた覚えてしまっていた。「岩波・子どもの本」の童話では、『ちびくろ・さんぼ』(1953年12月)、『ちいさいおうち』(1954年4月)、『百まいのきもの』(1954年9月)、『ひとまねこざる』(1954年12月)、などが、父の独特の語り口と共に、今も、私の耳底に残っている。また、私の脳裏に焼き付いている、最初期の父の姿は、「続・覚書」〔29〕に載せた『点景』という詩に写されている。
『点景』
暑気に潤う蝉の声
間近に霞む雲の峰
か広き母の背を叩き
馬に乗せろとせがむ我
我が目交に唯ひとつ
涼しく鞭の音を残し
跑の響きと遠ざかる
父の影こそ眩しけれ
彼方に影の消ゆる頃
其の方と無く駈け行きて
鋭く母の呼ぶ声に
佇み四方を見渡せば
暑気に潤う蝉の声
間近に霞む雲の峰
家に在った「少年少女世界文学全集」は、創元社により、1954年(昭和29年)・55年(昭和30年)・56年(昭和31年)の3年間にわたって出版されたもので、訳者は村岡花子、吉田健一、川端康成、河盛好蔵、岸田国士、阿部知二、高橋健二、山室静、金田一京助、三好達治、中野好夫など、錚々たる著作家たちであった。 阿部知二 川端康成 高橋健二 坪田譲治 豊島与志雄 米川正夫 により、責任編集されており、第Ⅰ期50巻、第Ⅱ期18巻の68冊セットとなっている。学校や公共の図書館では、必備図書となっていたようであるが、一般家庭で、所持していたのは稀であった。父は、発売直後に、当時、各巻380円もした全セットを予約購入している。都市勤労者の平均月収が3万円程であった時代に、子供達の本に多額の出費をした、父の見識と価値判断に敬服するとともに、今更ながら感謝の思いを新にしている。私も兄も、情操の基礎は、この全集の御蔭で培われたと言って過言ではない。そのほか、家には、岩波書店が刊行した「少年美術館」の豪華一冊本などもあった。私は、小学校2年生頃、この画集の、ボッティチェッリ(1445年3月1日? – 1510年5月17日)の『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)やルノアール(1841年2月25日 – 1919年12月3日)の『浴女』(1892年)によって、女性の肉体美に目覚めた。同級生の女の子の母親が、ルノアールの画に描かれた、好みの女性の顔立ちに似ていたため、その女の子と仲良くし、母が弟の出産のため、入院していることを理由に、その子の母親の同情を買い、夕飯を食べさせてもらったり、一緒に風呂に入れてもらうことが出来た。念願であった、女の子の母親の裸身を目にすることが叶い、愉悦のひと時を味わったことは、忘れられない記憶として残っている。そのあと、しばらく気になっていたのは、同級生の女の子の、のっぺらぼうな身体が、どうして、あの母親のような、ふくよかで、美しい姿に、変身していくのかということと、私が勃起していたことに、女の子の母親が気付いたのではないかということであった。
下図、左;ボッティチエリ『ヴィーナスの誕生』、右;ルノアール『浴女』
兄と私は、週一度、ヴァイオリンの個人レッスンも受けていた。今振り返ると、敗戦後まもない日本では、破格の、恵まれた教育環境で育てられたことになるが、私は父母の、浮世離れした、理想主義的な生き方と、家庭環境とを、窮屈にも感じており、貧しい家庭の同級生の子らの、自由奔放な暮らしを羨ましく感じ、孤児にあこがれ、孤児が主人公の物語を愛読した。バーネット『小公子』、マロ『家なき子』、シュピリ『アルプスの山の少女-ハイジ-』、コッローディ『ピノッキオ』、デイッケンズ『オリヴァ・トゥイスト』、マーク・トゥェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』、ウェブスター『あしながおじさん』、等であるが、これらは皆、少年少女世界文学全集に収められていた。この頃、兄は、ジュール・ベルヌに夢中で、『十五少年漂流記』を我流にアレンジしては、私に冒険譚を話して聞かせてくれていた。優等生で、努力家の二歳年上の兄とは、たまに、近所の川に釣りに行ったのを覚えているが、一緒に遊んだ記憶は、あまりない。また、夏休みに、牧場で過ごした思い出も、ほとんどない。夏休みになると、母は、私たちを、下北半島の海辺の母の実家に連れて行き、預けて帰って行った。母の実家の海辺の町は、街道沿いに商店が散在し、向かいの鍛冶屋、駄菓子と玩具屋、パチンコ屋、町はずれの橋のたもとの二軒の映画館などがあった。家の裏は、すぐ海で、防波堤沿いに、帆立や魚の干物が干してあった。親から離れ、母の実家で、私は、待望の自由を満喫した。朝食が済むと私は一人、町に繰り出し、夕飯時に、ネエヤが呼びに来るまで、ほっつき歩いていた。コースは大体決まっていて、先ず、向かいの鍛冶屋の店先に座り込み、息の合った、鍛冶屋の兄弟の仕事ぶりに、しばし見入っていた。兄弟は三代目で、先日、久しぶりに墓参に行った際も、鍛冶屋は健在であった。今は、兄の方の子供たちが、引継いでいるとのことであった。初代は、会津藩の落人で、刀鍛冶であったともいわれる。昔も今も変わらぬ鍛冶屋の様子は、小学校唱歌の『村の鍛冶屋』(作詞者・作曲者ともに不詳)の歌詞さながらであった
『村の鍛冶屋』
しばしも休まず槌うつ響き
飛びちる火花よ はしる湯玉
ふいごの風さえ息をもつがず
仕事にせい出す村のかじ屋
あるじは名高い働きものよ
早起き早寝のやまい知らず
永年きたえたじまんの腕で
うち出す鋤鍬 心こもる
鍛冶屋に見飽きると駄菓子と玩具屋を覗き、気に入ったものがあると「付け」で買った。「付け」は、夕方私を迎えに来る、ネエヤが払ってくれることになっていた。そのあとは、はす向かいにあったパチンコ屋に行き、時間を潰した。パチンコ玉も「付け」で貰って遊んだ。最後は、開店時間を見計らい、町はずれの映画館に向かった。映画館は二軒あり、それぞれ、和物と洋物にわかれて上映していた。私はいつも、和物を二,三回観てから洋物も二,三回観ることにしていた。両方の映画館とも、何故か、フリーパスで入らせて貰っていた。映画を観おわり、夕刻も間近になると、海岸をぶらぶらし、おなかが空くと、干してある帆立をしゃぶり、蟹などを捕まえて遊んでいた。祖父は、私に目をかけ、注意するでもなく、好きなようにさせておいてくれた。檜葉林の山林地主であった祖父は、ときどき、弁当を持って、父から譲られ、祖父以外の者には懐かない、ボーダー・コリーの雄犬の「ジュピター」を連れ、森のようすを見に出かけた。祖父になついていた私は、よく一緒に付いて行った。道中、祖父から私は、度々、豊かな海を守るために、森林がいかに役立っているかという話を聞かされた。祖父の家には、土間があり、囲炉裏があって、たまに、マタギが、きのこ等の山の幸や、とれた獲物をもって、訪ねて来て、祖父と酒を酌み交わし、山の話をして、帰って行った。祖父には申し訳ないが、私は、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』に出てくる、小十郎と荒物屋の主人のやりとりを思い浮かべたりしながら、下北弁訛りの二人の会話に興味深く耳を傾けていた。信州の夏休みより、下北の夏休みは短く、私たち兄弟が実家に滞在中に、町の小学校の授業が始まっていた。学校に文房具や教材を卸していた祖父は、町の小学校にも顔が利き、私たち兄弟に、特別に授業を聴講できるよう計ってくれた。信州の夏休みが終わる頃になると、祖父は、私たちを伴い、浅虫温泉で一泊し、東京へと向かった。上野で母と合流し、皆で日本橋の百貨店で買物をするのが、おきまりのコースであった。母は妙にハイカラで、いつも私たち兄弟に変わった装いをさせるのが好きだった。実家に行く時は私たち兄弟に、ベレー帽を被らせ、ジャケットを着せ、蝶ネクタイをしめさせ、ハイソックスに革靴を履かせていた。このような出で立ちは、都会的な兄はともかく、田舎丸出しの悪童の私には、全く不似合いで、猿が洋服を着ているようなものであったが、母は、めげることなく、自分の好みを押し通した。後に、兄が4、5年生になると、母は、兄に旅費を渡し、兄弟二人だけで、下北の実家に行かせるようになった。向こうで必要な、着替えや、学習道具は、あらかじめ、チッキ(鉄道小荷物輸送)で、送って置いてくれた。私は、列車が動き出し、母が見えなくなると、兄の制止を振り切り、さっさと、リュックサックの底に隠し持って来た、普段着とズック靴に着替えた。兄が六年生、私が4年生になったばかりの時、父の本省転勤にともない、私たち一家は、東京の山の手に引っ越した。母と兄は、東京の暮らしにすぐ順応したが、不器用な父と私は、なかなか都会の生活に馴染めなかった。その所為もあって、私は益々、本の世界にのめり込んでいったが、父は、官僚組織の中で、仕事の上でも勝手が違い、色々と苦労が絶えなかったようである。笑顔が減って、険しい顔つきになっていく父を見ているのは辛かったが、私もまた、憂鬱な日々を過ごしていた。父は、仕事で帰りが遅くなることが多く、だんだん深酒をするようになり、酔うとよく、北大、恵迪寮の寮歌『都ぞ弥生』や三高寮歌『琵琶湖周航の歌』などを風呂で歌っていた。しかし、不思議と、軍歌は一切、口ずさまなかった。
〔07〕(2017.01.24) ~本の世界(文学から哲学へ)~
東京・山の手、の家は、父の後輩が紹介してくれた一軒家の借家で、70坪程の敷地に建っていたが、牧場では、その7,8倍大きな敷地の、倍以上広い家屋に暮らしていたため、窮屈に感じた。隣家と軒を接し、家を出ると直ぐ道路であり、道路には人通りが多く、人々は、唇を露出し、話し声が絶えなかった。信州の田舎では(下北の実家でも)、家の外で、それほど人に遇わず、人々は口を閉じ、寡黙であった。東京では、日が暮れても、月明かりと星のまたたき、を目にすることは少なく、朝起きて、鳥の囀りを聴くことも稀であった。信州訛りが抜けず、東京弁の会話をマスターするのに、手間取っていた私は、転校先の小学校の級友達とあまり話をせず、また、裕福な家庭の、上品な子供達が多かったため、ガキ大将の活躍の場も無く、出来るだけ目立たぬように、孤立していた。勉強熱心な兄は、都会の生活にも、東京弁にも直ぐに適応し、進学塾に通い、あいかわらず、優等生で、通っていた。そんな日々が続いた、或る日、学校で、「お話の時間」という授業があり、順番に、知っている物語を、クラスで発表することになっていて、私の番が、巡ってきた。クラスの取り澄ました雰囲気に、反発を抱いていた私は、わざと、以下に紹介する、少年少女文学全集の日本編で読んだ、『屁っぴり嫁ご』という民話を選んだ
むか~し、むかし、ある村に、おっかあと息子がなかよう住んでおった。
その息子が嫁ごをもらうことになってな。
この嫁ごは、たいそうな働き者でな。その上、なかなかやさしい嫁ごでな。
息子だけでなく、おっかあもそれはそれは気に入っとった。
ところがじゃ、十日たち、二十日たつうちに、この嫁ごが急に元気がのうなってきた。
おっかあが、嫁ごに尋ねた。
「これこれ、嫁ごや、おめえ、どこぞ体の具合でも悪いんじゃねえかい。」
「おっかあ、おら、屁がひりてえ。」
嫁ごが言うには、嫁入りしてからずうっと、屁がひりたくてひりたくてなんなかったんだと。
「そんな、屁くらい誰でもするわな。遠慮せずに出したらええ。」
「そんじゃあ、おっかさん、どこぞへつかまっとっておくれ。」
そう言うと嫁ごは、勢いよくすそをまくった。
「ブォ~~~~~~ッ!」
なんと、嫁ごの屁のすごいこと。
その勢いで、おっかあは、向かいの大根畑まで飛ばされてしもうた。
「あっ、おっかあ、どうしたんじゃ。」
これが嫁ごの屁のせいじゃとわかると、息子は怒り出した。
「ごげな嫁、おいとくわけにはいかん。さっさと出て行ってもらうだ。」
こうして、嫁ごは、荷物をまとめて実家に帰ることになったそうな。
「ちょっとそこまで送ってくるわ。」
息子も嫁ごについて出て行った。二人が峠の道にさしかかったとき、
旅の反物売りが、柿の実を取ろうとしておった。じゃが、なかなか手が届かない。
「おらなら、屁ひとつで柿の実落とせるでよう。」
「なにい、そんなことができたら、この反物全部やらあ。」
嫁ごは柿の木におしりを向けたかと思うと一発。柿の実は一つ残らず落ちてしもうた。
嫁ごを追って、息子は走り出した。
「こげな宝女房、どうして里へなんか帰せるものか。おらと一緒に、また家に戻ってけれ。」
それから、この家では、庭に「屁屋」というものをこしらえて
嫁ごが屁をこきたくなると、ここでやらせたそうな。
この話は、大受けし、クラスは笑いの渦となったが、最後の4行は、担任の女性の先生に、途中で止められ、話終えることが出来なかった。授業時間終了後、幾人かが、話の続きを聞きに来たため、終りまで話してやった。この一件以来、いつも何人かが、休み時間になると、私のところに、「お話」を聞きに来るようになった。私は、本で読んだ噺や自分で創った話を、語り聞かせるのが日課となった。さいわい、話の種は尽きることなく、この日課は、5年生の半ばに、両親が家を建てた、南多摩の小学校に転校するまで続いた。東京・多摩地区の小学校でも、多摩弁に慣れるのに、多少、とまどったが、東京弁のとき程ではなかった。東京の山の手で、信州弁で喋った際は、コンプレックスを感じたが、多摩で、東京弁で話すときは、幾分か、優越感を覚えた。授業も、生徒のレベルも、山の手に比べ、多少、劣る気がしたが、学校にも、学業にも、左程、興味を持てなかった私には、全く、気にならなかった。私は、東京に引っ越して来た時以来、小学校卒業までに、「少年少女世界文学全集」を全巻読破しようと密かに誓いを立て、毎日欠かさず、読み耽っていた。夏休みには、相変わらず、兄と二人で蒸気列車に乗って母の実家に行っていた。私も、この時ばかりは、本から離れて、日々、野外活動に明け暮れた。上野と青森を結ぶ、東北本線は、1960年当時は、全線、蒸気列車で運行されており、電化は、仙台までが1961年3月1日、盛岡までが1965年10月1日、に完了し、青森まで全線電化されたのは1968年8月22日、である。山の手の小学校に転校して以来、私は、すっかり、「ガキ大将」から足を洗っていたが、南多摩の小学校の同級生に、担任の教師も一目置いていた、ガタイが立派な「ガキ大将」がいて、新参者の私とも仲良くしてくれた。成績は悪かったが、孤高を持し、つるまず、弱い者いじめもしなかった。一度、彼の粗末な家に遊びに行った際、彼が、片親である母親や姉に対し、素直で、行儀がよく、妙に感心したことがあった。今時の、不良少年・少女が、徒党を組んでいじめに走り、家庭内暴力を振るったりしているのとは大きな違いで、まさに「ガキ大将」今昔と言ったところである。彼とは小学校卒業まで同じ学級で、生徒たちは、敬して遠ざかっている者もいれば、他のガキ大将からの庇護を求めて、擦り寄って来る者もいた。担任は、彼を懐柔し、取り込もうとしており、彼も、だんだん大人しくなり、徐々に、本来の輝きを失っていった。私は、腕っ節の強さだけでは、通用しない一般社会に出て、去勢されていく彼の行く末を思い、胸が痛んだ。1961年、岩波書店から「少年少女・文学全集」の発売が開始され、直ちに、父は購入し、1963年に、全30巻の配本が完了した。おかげで、私の読書生活は、さらに忙しくなったが、小学校卒業までに、創元社、岩波書店、両方の児童文学全集を何とか読み終えることが出来た。父は、仕事で、多忙を極めており、私たち兄弟と共に過ごす時間は殆んど無くなっていたが、中央公論社の「世界の文学」「日本の文学」「世界の歴史」「日本の歴史」、新潮社の「日本詩人全集」、河出書房新社の「世界の美術」などが出版される都度、次々と、子供達に買い与え、私が高校を卒業する頃には、本棚の重みで、両親が買い替えて間もない新築の家の、二階の子供部屋の床がへこむ程であった。今、振り返って見ると、小学校4年生から、高校を卒業するまで、私は、本に囲まれた環境のなかで、読書漬の生活を送っており、世の中の動きに頓着せず、流行にも、無関心であった。この頃、1960年から1970年にかけて、日本の社会が、急激に変化しつつあったことを考えると、今更ながら、不可解であるが、何故、そうだったのかは、いまだによく分からない。ここで、参考までに、以下に、この10年間の出来事と日本社会の変化について、かいつまんで、列挙して見よう。
1959年 週刊少年サンデー、週刊少年マガジン、発刊
1959年04月 皇太子・明仁親王、正田美智子さんと結婚
1960年 (都市勤労者世帯の平均月収;40,895円)
1959年―1960年 安保闘争
1960年01月 日米安全保障条約に署名(発効、1960年06月23日)
民主社会党結党
1960年06月 日米安全保障条約・日米地位協定、発効
1960年07月 池田勇人内閣(自由民主党)、誕生
1960年09月 カラーテレビ放送、開始
1960年10月 浅沼稲次郎(日本社会党)、暗殺される
1960年12月 第2次池田内閣、発足
「国民所得倍増計画」閣議決定
1960年―1975年 ベトナム戦争
1961年04月 ソビエト、有人宇宙船「ボストークⅠ号」打ち上げ
1962年10月 キューバ危機
1962年12月 首都高速道路、開業
1963年01月 アニメ、鉄腕アトム、フジテレビで放送開始
1963年07月 名神高速道路、開業
1963年08月 部分的核実験禁止条約
1964年~ 第二・水俣病、発生(水俣病、発生は1956年~)
1964年10月 東海道新幹線、開業
東京オリンピック、開催(アジア初)
カラーテレビが普及し始める
1964年12月 佐藤栄作内閣(自由民主党)、誕生
1965年 朝永振一郎、ノーベル物理学賞、受賞
1965年06月 日韓基本条約(日韓請求権、並びに経済強力協定)
1966年 ビートルズ来日
(日本の自家用車保有台数;2,289,665台)
1966年―1977年 文化大革命
1967年08月 公害対策基本法
1968年 川端康成、ノーベル文学賞、受賞
国産ラジカセ(アイワ製)が発売される
1068年04月 東名高速道路、開業
1968年06月 大気汚染防止法、騒音規制法
小笠原諸島、アメリカから返還される
1968年07月 核拡散防止条約(NPT)米露英仏中、以外の核保有禁止
日本電信電話公社、ポケットベル・サービスを開始
1969年 インターネットの前身・ARPANETがバケット通信に成功
1969年01月 東大安田講堂事件
1969年07月 アポロ11号、月面着陸に成功
1970年 (都市勤労者世帯の平均月収;115,379円)
日米安全保障条約、自動延長
1970年02月 日本初の人工衛星・おおすみ、打ち上げ
1970年03月〜09月 日本万国博覧会(大阪万博、アジア初)
1970年03月 よど号ハイジャック事件
1970年11月 三島事件
(日本の自家用車保有台数;7,270,573台)
1945年(昭和20年)8月15日正午に、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の玉音放送により、終戦を迎えた日本は、1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和会議で平和条約を締結するまで、GHQの管理下に置かれた。GHQによる、「民主化」政策の洗礼を経て、1950年から1955年に渡り、直接、間接の朝鮮特需の恩恵を受け、1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書には、戦後10年にして早くも、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことが表明され、《もはや「戦後」ではない》と宣言されている。(なお、この言葉の初出は、中野好夫が『文藝春秋』1956年2月号に発表した「もはや『戦後』ではない」である。)その後、日本は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次・鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次・田中角栄内閣)までの約19年間におよぶ、高度経済成長の時代を迎える。私が小学校4年から、高校卒業後まで、(山の手から南多摩への一家の転居を挟み)、東京で過ごした時期は、この時代と重なっている。それから、半世紀が経過した現在、当時、感じていた違和感の正体が、少しは明らかになったように思われる。先ず、指摘しておきたいのは、復興後の高度成長が、自然発生的に現出した訳ではなく、政府の政策によって計画的に行われ、国民も、こぞって、これに追随したため、実現したことである。とりわけ、1960年から1964年にかけて、総理大臣を務め、「国民所得倍増政策」を掲げ、その達成に向け、主導的役割を果たした、池田勇人の功績は、良し悪しはともかく、絶大であった。「所得倍増政策」の旗の下、エコノミック・アニマルと化した日本人は、物質的豊かさを求めて邁進し、まるで、敗戦の屈辱を晴らすかのように、経済競争で欧米に肩を並べようと凌ぎを削っていた。いま思うと、この頃が、日本人の意識、価値観の、ターニング・ポイントであったように思われる。進学熱の高まりと共に、高等学校が増設され、受験競争も過熱化していった。テレビの普及と共に、サブカルチャーやフォ―クソングを始めとする大衆文化が隆盛を極め、宴会や祭りの日々が続いた。いま、老人たちは、「祭りのあと」の思いを、味わっているのかも知れない。もっとも、このような状況は、日本だけに限ったことではなく、大戦後の、科学技術の進歩による急激な文明の発展と低迷する文化の狭間で、世界規模で、人々の価値観やライフスタイルの変貌が見られた時代でもあった。世界各国で、また日本でも、人々は戦後、経済復興と物質的豊かさを達成したが、文化の振興と精神的豊かさを、等閑(なおざり)にしてきたように思われる。いまは、世界中がある意味、「祭りのあと」の状態なのかもしれないが、「あとの祭り」にならないうちに、等閑(なおざり)にしてきた事、糺すべき事に、気付き、目を向けるべきであろう。
南多摩の小学校を卒業した私は、兄が通っていた公立中学に入学した。兄は3年生になっており、依然として、優等生ぶりを発揮し、入学以来、学年トップの座を守り続け、3年に進級すると、生徒会長を務め、生徒達の憧れの存在であり、教師達からも一目置かれていた。中学生になると、生徒達の意識に、受験の影が付き纏っており、皆、成績の良し悪しに敏感だった。周りから、優秀な兄の弟として見られることに、嫌気がさしていた私は、あいかわらず読書に没頭し、学校と学業に背を向け、同級生達が話題にしていた流行にも無関心であった。信州時代、理想に燃えていた父母も、東京で、社会変化を目の当たりにし、徐々に、現実的になっていった。学閥の支配する、官僚組織の中で、辛酸を嘗めていた父は、兄が、東大法科に進学し、官僚になることを期待していたようである。私に対しては、親戚に医者が多かったことから、医者にでもなってくれれば良いと思っていたらしい。家の中でも、成績の良い兄と比較されているのを感じ、憂鬱な気分であったが、持ち前の反発心から、受験勉強に身を入れようとはしなかった。父は、相変わらず、文学全集や歴史全集が出版される都度、買い求めており、皮肉にも、このことが、却って、私の学習意欲を殺ぐ結果ともなっていた。中学入学と同時に、中央公論社の「世界の文学」54巻(1963-1967)をはじめ、同じく「日本の文学」「世界の歴史」、河出書房新社の「世界の美術」(1963-1966)など、次々と我家の蔵書は増えて行った。最悪だったのは、高校受験直前の、1964年11月から1965年10月にかけて、中央公論社から、谷崎潤一郎の『新々訳・源氏物語』が、配本され、私は、受験勉強そっちのけで読み耽り、受験科目の多い、男女共学の公立進学校に落ち、滑り止めに受けた、受験科目の少ない、私立の、男子校の進学校に行く羽目になってしまったことである。中学でちょっと気になっていた女の子がいて、その子が合格し、私は落ちてしまったため、さすがの私も落ち込み、多少、谷崎・源氏に現(うつつ)を抜かしていたことを後悔した。この女の子とは、2年生の林間学校の際、親しくなり、高校を卒業し、予備校に通うようになった時、生け花を習っていた彼女と、ときおり、新宿駅で遇うようになり、いっとき、付き合ったが、私の家出と共に、それきりになってしまった。彼女との想い出は、その頃作った1篇の詩となって残っている。少々、気恥ずかしいが、中学時代の、甘酸っぱい記憶の一齣として御紹介しよう。
『再会の夜・NOCTURNE』
あなたは憶えているだろうか
更けゆく夜の 闇を焦がす焚火が
友等の顔を輝かせていたのを
山の生活を惜しむ歌声が
林間の涼気を震わせて 響いていたのを
あなたはもう 忘れてしまったろうか
友等から離れ 寄り添っていた私たちの上に
白樺が 優しく影を落としていたのを
互いの手を弄びながら 囁くように
言葉少なに語りあったのを
そして皆が寝屋に帰ったあと
麓の小さな湖の
岸辺の古びた一の上で
夜明けまで二人で過ごしたのを
あなたは想い出さないだろうか
月の明るい晩で
樹々はくっきりと に翳を映していた
夢に怯える鳥の羽音と ときおり
魚が水面を叩く音が聴こえてくる他は
辺りは ひっそりと閑まりかえっていた
あゝ こうしてあなたを抱いていると
夜気に身をわせていた
あの夜のあなたの面影が
懐かしく甦ってくるのだが
そして今も私たちは
接吻さえできず ただじっと胸をあわせていた
十五の夏のあのときと
変わらないようにも 想えるのだが・・・
ゴッホ(1853年3月30日 – 1890年7月29日)の『アルルの跳ね橋』(1888年3月)は、私の好きな絵で、この絵と、ゴッホの『種まく人』(1888年11月)を見る度に甦る、中学時代の苦い経験がある。それは、美術の授業の版画制作の時間での出来事であった。かねてから惹かれていたゴッホの『アルルの跳ね橋』を真似て、私が版画に彫っていると、見回ってきた美術の教師が、「何だ、『ゴッホの跳ね橋』じゃないか、俺が分からないとでも思っているのか」と言うので、「そんなこと思っていませんが、ゴッホがミレーの構図を気に入って描いた『種まく人』はどうなんですか」と答えると、「生意気なこと言うな、もう版画は提出しなくていい」と、怒って去って行ってしまった。私は以後、美術の授業は出来る限り、サボることにしたが、おかげで、成績は、散々であった。
下図、左;ゴッホ『アルルの跳ね橋』、右;ゴッホ『種まく人』
中学時代に、特筆すべきことは、信州時代から我家の書庫にあった、旧仮名使いの、森鴎外(1862年2月17日 – 1922年7月9日)の「鴎外全集」(1955年、岩波書店)を、ようやく、読み終えた事である。とりわけ、アンデルセン(1805年4月2日 – 1875年8月4日)著『即興詩人』の翻訳に嵌り、5,6回読み返したのを覚えている。また、ネルー(1889年11月14日 – 1964年5月27)が獄中で執筆した、『父が子に語る世界歴史』(1954年・日本評論新社)も印象に残っている。さらに、家にはなかったが、自分で見つけて、何度か再読した本に、以下のようなものがあった。シートン『森のロルフ』(1960年・角川文庫)、ハドソン『緑の館』(1937年・岩波文庫)、ヴェーデキント『春のめざめ』(1955年・河出文庫)、ヤコブセン『ニイルス・リイネ』(1951年・新潮文庫)、アクセル・ムンテ『サン・ミケ―レ物語』(1965年5月・紀伊國屋書店)、などである。放課後や、授業をサボッて、近くの公立図書館に行き、家に置かれていない、柴田錬三郎(1917年3月26日 – 1978年6月30日)や山田風太郎(1922年1月4日 – 2001年7月28日)の、軟派の時代小説を密かに読んでいたことも懐かしい思い出である。父の弟が、総理府の役人をしており、日本学術会議の世話をしていた縁で、高校受験を間近に控えた、中学卒業間際、前年、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士(1906年3月31日 – 1979年7月8日)に、たまたま、会わせて頂いたことがあった。博士は、肋骨を怪我したため、ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同受賞した、ノーベル物理学賞授賞式には出られなかったが、ノーベル財団に飾られる、歴代受賞者の肖像写真の撮り直しのため、総理府を訪れていた。以前送った写真が、胸ポケットにペンを指していたため、クレームが付き、撮り直すことになったようである。お会いした際、博士は私に、「なぜ、インドで世界的・数学者や物理学者が輩出しているか分りますか」と言い、「それは、国が貧しいからです。貧しくても、紙とペンがあれば、数学や理論物理学の研究はできます。日本は、まだ、欧米に比べ、学術研究の環境整備は遅れていますが、工夫次第で、やれることは沢山あります。哲学・思想の分野などでも、世界で活躍できる人材が育ってくれることを願っています。」と話された。後年、フリーマン・ダイソン(1923年12月15日 - )が、1943年に朝永博士が発表した、超多時間理論の論文を読んだときの感想を、回想録で次のように述べているのを知り、この時の、博士の言葉を思い出した。
「戦争の荒廃と混乱のさなかにある日本で、国際的には完全に孤立した状態にありながら、朝永は何とか理論物理研究集団を維持し、ある意味では世界のどこよりも進んだ活動を行っていた。誰の助けも借りず独力で、シュウィンガーより5年も前に、コロンビア実験の助けもないところで、新しい量子電気力学の礎を築いたのである。・・・吾々には深淵からの声のように響いた。」
なお、朝永博士の父は、京都学派の著名な哲学者で、京都帝国大学教授の朝永三十郎である。裏に博士のサインが書かれた、没になった写真を頂き、私は額に入れて、机の前に飾っていた。
ここまで、読書遍歴を中心に、中学時代までを振り返り、あらためて、父の文学趣味と本道楽の多大な恩恵に、私が浴していたことを再認識すると同時に、父が、本質的に、ロマンチストであったことを再確認させられた。今思うと、中学時代まで、文学漬の日々を過ごせたことは、なんと幸せであったことかと思い、感慨無量である。高校に入学した頃、父が買い求めた、新潮社の「日本詩人全集」(1967年)を読み、私は、自分でも詩作をするようになった。また、学校の帰りに立ち寄っていた、新宿の書店で、哲学書や思想書を見つけて来ては、読むようにもなり、大学ノートに、読書感想やその時々の考えを、アフォリズム形式で、書き記した。パスカルの『パンセ』、モンテーニュの『エセー』、ニーチェの『人間的な、あまりにも人間的な』、等を読み、触発された所為であると思われる。この頃から、父があまり関心を示さなかった、哲学・思想の世界に、徐々に私の興味は移って行った。
2015年(平成27年)5月28日付で、日本学術会議、哲学委員会、哲学・倫理・宗教教育分科会から、未来を見すえた、高校公民科倫理教育の創生、―<考える「倫理」>の実現に向けて―、という審議結果が公表された。その柱は、
(1)〈知識中心の「倫理」〉教育を〈考える「倫理」〉教育に転換する
(2)〈考える「倫理」〉教育の実現に向けて環境を整備する
の2点である。この様な提言がなされたことは、高校公民科倫理教育が、形骸化していることを物語るものであり、日本社会全般が倫理教育を疎かにしている証左ともなっている。朝永振一郎博士は、1963年から1969年まで、日本学術会議の会長を務めておられたが、朝永博士が、この提言を目にしたとしたら、どう思われるであろうか。審議結果には、委員達の苦渋の跡が伺われるが、倫理教育の低迷は、委員達のみに責任がある訳ではなく、日本社会全体が、考えるべき問題であり、高校教育を改善すれば済む問題ではない。私が高校に入学した当時から、倫理社会や政治経済の授業は、生徒たちから疎んじられていた。受験に不可欠ではない、これらの科目は、軽視され、真剣に取り組む者は殆んどいなかった。哲学・思想に目覚め、人類の精神世界を探求しようと志していた私は、学校や世間の風潮と逆行していたようである。その頃、学生運動が、安保闘争やベトナム反戦運動の影響で盛り上がっており、マルクス主義に入れ込む者がいたり、文化大革命が起こると、毛沢東語録が流行ったりしていたが、私が関心を寄せていた、哲学・思想とは、本質的に相容れないものに思われたのである。私が求めていたのは、主義や特定の思想では無く、人類が往古より現在に至るまで抱えている、様々な問題に対処する抜本的な智慧であった。高校入学まで、これといった才能も得意な学科もなかった私が、哲学・思想に関心を持ったのも不思議であるが、「世界の文学」を読んで、児童文学に熱中していた頃の、幸せな気分を味わえなくなったことも、原因かも知れない。「世界の文学」には、人間の苦悩や不安が描かれている作品が多く見られ、その拠って来たる所以を知りたいと思い始めたのである。その際、世界各国の児童文学に親しんでいた為、私は、ことさら日本や東洋を意識することを免れ、幸運であった。世界共通の問題であると、受け止めていた私は、朝永博士の父君が所属していた、京都学派の哲学者達が試みた、西洋哲学と東洋思想の融合などという、不毛な努力をしなくて済んだからである。私には、西洋哲学、東洋思想、を含めた、人類の精神世界全体が、齟齬をきたしている様に思われたからである。通時的にも、共時的にも、広大な精神世界の探索に当たっては、スタンスとパースペクテイブが重要であることに気付いた。第一に、人類も宇宙・地球という環境に存在する生き物である以上、人間を特別視する癖(へき)を脱し、良きに付け悪しきに付け、ヒュ―マニズムに陥らず、ナチュラリストの視点で考察することにした。その際、価値判断と好悪の感情を交えないことも、不可欠であり、全てを除外せず、ありのままの姿を捉えなければならない。あたかも、地球外知的生命体が地球人を観察するかの如くに、と言ったらよいだろうか。そのためには、最新の科学に対する理解が必要であることも、痛感した。宇宙観、世界観のうえで、既存の哲学と科学が競合した場合は、迷わず科学的観方を採用したのは勿論である。同時に、真偽定かではない、宗教的信念は、除外するのではなく、括弧に入れて置くことにした。また、人為的体系構築のための哲学や、政治的目的をもった思想には、深入りしないよう肝に銘じた。次に、最小限の水先案内人を、こればかりは自身の直感に従って、選定した。高校在学中に、ある程度の確信と目途を付けることを目指していた私は、闇雲に進んで、時間を無駄にする訳にはいかず、致し方ない措置であった。私は、科学的知見を得る為に、必要とされる、数学と語学の修得に取り組むとともに、信頼できそうな、同時代に近い、文学者・哲学者・思想家・科学者達を書店で探し求めた。以下は、そのリストである。
セルマ・ラーゲルレーヴ(1858年11月20日 – 1940年3月16日)
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『ニルスのふしぎな旅』(1906年・1907年)の著者であり、女性初・スウェーデン人初のノーベル文学賞受賞者(1909年)として名高い女性作家。
エーリッヒ・ケストナー(1899年2月23日 – 1974年7月29日)
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ドイツの詩人・作家。『エーミールと探偵たち』(1929年)
ライナー・マリア・リルケ(1875年12月4日 – 1926年12月29日)
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オーストリアの詩人、作家。『マルテの手記』(1910年)(1929年)
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『ドゥイノの悲歌』(1923年)、『オルフォイスへのソネット』(1923年)
マクシム・ゴーリキー( 1868年3月28日 – 1936年6月18日)
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ロシアの作家、1902年、代表作である『どん底』を発表。第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。1919年、レーニンはゴーリキーに宛てた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。1921年、結核の療養のためイタリアのソレントに移り住んだ。アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、ゴーリキーのロシアへの帰還は、イタリアでの暮らしに困ってのことだった。1928年以降、何度かソビエト連邦を訪れるようになり、1932年にはスターリンの個人的な求めに応じる形をとり、ロシアに帰った。
アーサー・ランサム(1884年1月18日 – 1967年6月3日)
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イギリスの児童文学作家、ジャーナリスト。『ツバメ号とアマゾン号』シリ―ズで知られる。 カーネギー賞の第1回受賞者(1937年)(1929年)
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『ドゥイノの悲歌』(1923年)、『オルフォイスへのソネット』(1923年)
ウィスタン・ヒュー・オーデン( 1907年2月21日 – 1973年9月29日)
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イギリス出身でアメリカに移住した詩人。深瀬基寛訳『オーデン詩集』(1955年)
ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895年5月12日 – 1986年2月17日)
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インド生まれの宗教的哲人、教育者。『生の全体性』 大野純一、聖真一郎、共訳
ソーヴール・アントワーヌ・カンドウ(1897年5月29日 – 1955年9月28日)
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カトリック司祭。近現代に日本に在住したカトリック神父の中では、一般の日本人にもっともよく知られた存在だった。日本を第二の祖国として愛した。
カール・ヤスパース(1883年2月23日 – 1969年2月26日)
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ドイツの哲学者、精神科医であり、実存主義哲学の代表的論者の一人である。
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『精神病理学総論』(1913年)、『哲学』(1932年)などの著書が有名。
マルティン・ブーバー(1878年2月8日 – 1965年6月13日)
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オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者、1923年『我と汝』を上梓。
ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883年5月9日 – 1955年10月18日)
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スペインの哲学者。主著に『ドン・キホーテをめぐる思索 』(1914年)、
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『大衆の反逆』(1929年)などがある。『傍観者』(1973年)
ウィリアム・ジェームズ(1842年1月11日 – 1910年8月26日)
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アメリカの哲学者、心理学者。『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳1957年)
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『宗教的経験の諸相』(桝田啓三郎訳1969年)、『多元的宇宙』(吉田夏彦訳)
アンドレ・マルロー(1901年11月3日 – 1976年11月23日)
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フランスの作家、冒険家、政治家。ド・ゴール政権で長く文化相を務めた。
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代表作に『王道』や『人間の条件』がある。『文化の擁護』(小松清編訳 1935年)
ハンナ・アーレント(1906年10月14日 – 1975年12月4日)
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ドイツ出身の哲学者、思想家。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。『全体主義の起源 (1・2・3)』(大島通義・大島かおり・大久保和郎訳1972-74年)、『人間の条件』(志水速雄訳1973年)
カール・ライムント・ポパー(1902年7月28日 – 1994年9月17日)
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オーストリア出身、イギリスの哲学者。純粋な科学的言説の必要条件としての反証可能性を提唱した。また、「開かれた社会」で、全体主義を積極的に批判した。
マックス・ヴェーバー(1864年4月21日 – 1920年6月14日)
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ドイツの社会学者・経済学者。ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。そうした研究のスタートが記念碑的な論文である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年-1905年)である。
カール・グスタフ・ユング(1875年7月26日 – 1961年6月6日)
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スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学を創始した。
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C.Gユング『現在と未来 ユングの文明論』(松代洋一編訳、1996年)
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C.G ユング『創造する無意識 ユングの文芸論』(松代洋一編訳、1996年)
グレゴリー・ベイトソン(1904年5月9日 – 1980年7月4日)
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アメリカ合衆国の文化人類学・精神医学などの研究者。
佐藤良明訳『精神と自然――生きた世界の認識論』(1982年)
レイチェル・ルイーズ・カーソン(1907年5月27日 – 1964年4月14日)
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アメリカ合衆国のペンシルベニア州に生まれ、1960年代に環境問題を告発した生物学者。アメリカ内務省魚類野生生物局の水産生物学者として自然科学を研究した。農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げた著書『沈黙の春』(Silent Spring)は、アメリカにおいて半年間で50万部も売り上げ、後のアースディや1972年の国連人間環境会議のきっかけとなり、人類史上において、環境問題そのものに人々の目を向けさせ、環境保護運動の始まりとなった。
リチャード・バックミンスター・フラー(1895年7月12日 – 1983年7月1日)
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アメリカの思想家、デザイナー、構造家、建築家、発明家、詩人。
フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に認められている貨幣ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものであり、その為に必要とされる衣・食・住・エネルギーを、より効率的に実現するためのノウハウの体系である、テクノロジーそれ自体が「富」の本質であるとした。「自分の時間をより有効な探査的な投資に解放すれば、それは自分の富を増やすことになる」この言葉にも彼の独特の富の概念が現れている。
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1960年『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』
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1963年『宇宙船地球号操縦マニュアル』
フリーマン・ジョン・ダイソン(1923年12月15日 – )
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イギリス・バークシャー生まれのアメリカ合衆国の理論物理学者、宇宙物理学者。
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『宇宙をかき乱すべきか ダイソン自伝』( 鎮目恭夫訳、1982年7月)
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『核兵器と人間』 (伏見康治ほか共訳、1986年11月)
アイザイア・バーリン( 1909年6月6日 – 1997年11月5日)
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イギリスの哲学者。オックスフォード大学教授。当時ロシア帝国の支配下だったラトビア・リガ出身のユダヤ人。彼の有名なエッセイである『自由論』では、自由という概念を積極的自由(positive liberty)と消極的自由(negative liberty)に分け、自由という概念における議論に多大なる影響を及ぼした。『自由論』(全2巻, 1971年 1979年)
高木 貞治(1875年(明治8年)4月21日 – 1960年(昭和35年)2月28日)
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日本の数学者。東京帝国大学教授。第1回フィールズ賞選考委員。
『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』など多くの数学教科書を著した。
特に『解析概論』は解析学入門の名著として知られ、第一版の刊行後50年以上経ても版を重ねて広く読まれている。
ライアル・ワトソン(1939年4月12日 – 2008年6月25日)
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南アフリカ生まれのイギリスの植物学者・動物学者・生物学者・人類学者・動物行動学者。ニューサイエンスに類する書籍を多く上梓、中でも『スーパーネイチュア』は有名。
スティーヴン・ウィリアム・ホーキング( 1942年1月8日 – )
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イギリスの理論物理学者。一般相対性理論が破綻する特異点の存在を証明した特異点定理をロジャー・ペンローズと共に発表した。一般相対性理論と量子力学を結びつけた量子重力論を提示している。この帰結として、量子効果によってブラックホールから粒子が逃げ出すというホーキング放射の存在を予想している。タイムトラベルが不可能であるとする「時間順序保護仮説」を提唱し、過去に行くことを許容する閉じた時間線が存在するためには場のエネルギーが無限大でなくてはならないとしている。スティーヴン・ホーキング; 林一訳 『ホーキング、宇宙を語る』( 1989年)
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スティーヴン・ホーキング; ロジャー・ペンローズ; 林一訳 『ホーキングペンローズが語る時空の本質』 (1997年)
ニコラース・ティンバーゲン(1907年4月15日 – 1988年12月21日)
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著名なオランダ人の動物行動学者で、鳥類学者。ティンバーゲンの研究は、一部は当時のアメリカ心理学界で有力であった行動主義への反発として行われた。ティンバーゲンは動物の行動が環境刺激への単なる反応ではなく、より複雑な動物の内面の情動に起因すると考え、行動の生理的、現象的な側面だけでなく、進化的な側面の研究の重要性を強調した。それに関連して示した生物学の4領域(ティンバーゲンの4つのなぜとも呼ばれる)は行動生態学など後の行動生物学分野の重要なフレームワークとなっている。
ジョセフ・ユージン・スティグリッツ(1943年2月9日 – )
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アメリカの経済学者、コロンビア大学教授。
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(2002年)
ポール・アンソニー・サミュエルソン(1915年5月15日 – 2009年12月13日)
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アメリカの経済学者。著書『経済学(Economics: An Introductory Analysis)』(初版は1948年出版)において、「不完全雇用時にはケインズ主義的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する」という新古典派総合を主張し、新古典派ミクロ経済学とケインズ主義マクロ経済学の関係性についての見解を示した。なお、本書は経済学の教科書として全世界で一千万部を超えるベストセラーとなっている。1954年に発表した論文「公共支出の純粋理論」(『レビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティスティクス』所収)において、公共財を初めて厳密に定義し、公共財の最適供給条件である「サミュエルソン条件」を導出した。
リチャード・フィリップス・ファインマン(1918年5月11日 – 1988年2月15日)
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アメリカ合衆国出身の物理学者。
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坪井忠二訳『ファインマン物理学 I 力学』( 1986年)
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富山小太郎訳『ファインマン物理学 II 光・熱・波動』 (1986年)
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宮島龍興訳『ファインマン物理学 III 電磁気学』 (1986年)
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戸田盛和訳『ファインマン物理学 IV 電磁波と物性〔増補版〕』 (2002年)
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砂川重信訳『ファインマン物理学 V 量子力学』 (1986年)
ライナス・カール・ポーリング( 1901年2月28日 – 1994年8月19日)
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アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者。イギリスのニューサイエンティスト誌による「史上偉大な20人の科学者」で、アルベルト・アインシュタインと共に選ばれた唯一の20世紀の科学者である。ネイチャー誌のミレニアム・エッセイの著者であるGautam R. Desirajuは、ポーリングをガリレオ、ニュートン、アインシュタインに続くこの1000年で最も偉大な思想家、思弁家の一人であると述べている。ポーリングは多様な分野に興味を持っていたことでも有名であり、量子力学、無機化学、有機化学、タンパク質構造、分子生物学、医学などを研究した。彼が大きな業績を残したのは、特にこれらの分野の境界にあたる部分である。彼の化学結合の研究は現代量子化学の端緒を開き、混成や電気陰性度などは、今日の一般化学の教科書にも登場する重要な概念となっている。彼の原子価結合法は酸素の常磁性や有機金属錯体の色など分子の一部の性質を説明出来ず、後にロバート・マリケンの分子軌道理論に座を奪われたが、ポーリングの原子価結合法の長所はその単純性にあり、現代でも根強く使用されている。
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『一般化学』 (関集三・千原秀昭・桐山良一訳、上下、1974年)
朝永 振一郎(1906年(明治39年)3月31日 – 1979年(昭和54年)7月8日)
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日本の物理学者。朝永は最も基本的な原理「場の量子論」の「空間(超多時間理論)」「変換演算子」を見出し、場の量子論を完成させた。場の量子論の20年来の課題の解決(相対論的に共変な場の量子論、相互作用を切り出す変換)を齎したものである。当時、この問題と無限発散の問題で、場の量子論は、物理の根本原理と見做されず、新たな原理確立が試みられていた状況にあった。朝永は歴史のネジを場の量子論成立時期である20年前に巻き戻し、場の量子論を確立した。この後も、場の量子論を乗り越える試みは、ハイゼンベルグや湯川が試みるが失敗した。朝永が確立した場の量子論は、超弦論を含む全ての理論の基礎にある。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年7月12日 – 1862年5月6日)
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アメリカ合衆国の作家・思想家・詩人・博物学者。ウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2ヶ月間送る。代表作『ウォールデン 森の生活』
齊藤 秀三郎(1866年2月16日(慶応2年1月2日)- 1929年(昭和4年)11月9日)
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明治・大正期を代表する英語学者・教育者。斎藤は多くの教科書を執筆し日本の学校英語を形成したが、特筆すべきは辞書・文法書の編纂である。代表的なものとして、文法書『Practical English Grammar』(1898年-1899年、当初は、4巻本、後、1巻本)や前置詞の網羅的研究である『Monograph on Prepositions』、そして、辞典『熟語本位英和中辞典』(1915年)、『携帯英和辞典』(1925年4月)、『斎藤和英大辞典』(1928年6月)などがある(この他未完であるが『斎藤英和大辞典』が原稿復刻版として存在する。原稿は 「H 」 の項まで)。
クルト・ゲーデル(1906年4月28日 – 1978年1月14日)
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オーストリア・ハンガリー二重帝国(現チェコ)のブルノ生まれの数学者・論理学者である。業績には、完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説に関する研究が知られる。クルト・ゲーデル 『数学基礎論 撰出公理及び一般連続仮説の集合論公理との無矛盾性』 (近藤洋逸訳、1946年4月)
カール・ヤーコプ・クリストフ・ブルクハルト(1818年5月25日 – 1897年8月8日)
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スイスの歴史家、文化史家。卑俗なもの、や打算を軽蔑していたので、統治の技術や制度には興味を持たなかった。ブルクハルトはヘーゲルを嫌悪し、歴史哲学には関心がなく、体系を造る者ではなく、あまりにも個性的であったので学派も形成しない。
『ギリシア文化史』(1897年)、『世界史的諸考察』(1905年)
アダム・スミス(1723年6月5日(洗礼日) – 1790年7月17日)
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イギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者である。スコットランド生まれ。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』「経済学の父」と呼ばれる。『道徳情操論』によれば、人間は他者の視線を意識し、他者に「同感(sympathy)」を感じたり、他者から「同感」を得られるように行動する。この「同感」という感情を基にし、人は具体的な誰かの視線ではなく、「公平な観察者(impartial spectator)」の視線を意識するようになる。「公平な観察者」の視線から見て問題がないよう人々は行動し、他者の行動の適宜性を判断することにより、社会がある種の秩序としてまとまっていることが述べられる。このように社会は「同感」を基にして成り立っているため、「慈善(beneficence)」をはじめとした相互の愛情がなくとも成り立ちうると論じた。こうした論考のため、アダム・スミスは道徳感覚学派(モラルセンス学派)の1人に数えられたりもする。また、富裕な人々は、大地が全住民に平等に分配されていた場合と、ほぼ同一の生活必需品の分配を、「見えざる手」に導かれて行なう、とも述べている。
以上、思い出すままに(36人程)書き出して見たが、半数は科学者達である。話は、少し逸れるが、ルターがドイツ語に訳したことで、「聖書」が、民衆に普及し、近代ドイツ語の発展を齎し、「聖書」を盾にすることで、宗教改革も成功裏に終わったが、長かった中世の時代に、人々が「聖書」の内容をよく分からないまま、信仰し続けていたことにも驚かされる。当時、書物は、ラテン語かギリシャ語で書かれており、ラテン語抜きに、教養を身に付けることは、不可能に近かった。現代、私たちは、科学と科学技術によって発達した文明の恩恵に浴しているが、科学と科学技術に関して、正しく理解している訳ではない。戦争中、科学や科学技術が凶器に変貌することを、身を以て体験したはずであるが、皆、喉元過ぎて、忘れてしまっている様である。科学の書物は、もはや、ラテン語では書かれていないが、よく言われるように、実は、数学という言葉で書かれており、それも、いまや、高等数学で書かれているものが、殆んどである。科学の力を借りて、精神界に踏み入るには、科学の、本質を理解し、その力を、正しく用いねばならない。数学と語学の素養が必要とされるゆえんである。ところで、先ほどの、哲学委員会の高校公民倫理教育への提言に、公民科「倫理」教育の問題点として次のような記述が見られる。『学習指導要領には「代表的な先哲の言説等を精選すること」が言われているにもかかわらず、思想史などの知識伝達に偏った授業が行われており、「倫理」とは単に思想家や思想についての知識を習得する科目であるといった認識が流布するに至っている。こうした事態をもたらした原因の第一は、広汎な学習内容を網羅的に扱った教科書にある。平成21年度のある教科書についてみると、取りあげられる人名は283名、うち約60%の169人が太字扱いである。現学習指導要領のもとの平成26年度版においては293 人と増加している。昭和54年度(「倫理・社会」の時期)の同じ出版社の教科書の掲載人数が98人であるから、3倍以上の増加である。2単位の授業では明らかに過大な数であり、先哲の思想の効率的、網羅的な解説に追われざるをえない。』また、上記の問題に対する、具体的改革内容として、以下のような案が出されている。『現行の教科書ではおおよそ300も挙がっている哲学者・思想家・宗教家等の数を、おおよそ100程度にまで抑えること。100という数字は、思想史・哲学史を背景にした根本概念の習得にかける時間を1とした場合、哲学対話にかける時間数はその倍の2と想定されること、および2単位科目の年間最大授業時間が70時間程度であることを勘案した数字である。』また、他教科・科目との連携についてと題し、『2014年6月の中央教育審議会答申案によれば、「達成度テスト」の「発展」レベルにおいて、教科の枠組みにとらわれない「総合型」や、複数の教科・科目にまたがって出題する「合教科・科目型」の問題の出題が検討されている。この方針を受けて、関連科目が連携する動きが学校現場において進むことが予想され、望ましい連携のあり方を模索することが今後必要になると見込まれる。』と言い、地歴・公民科他分野、国語科、道徳教育、等との連携、が必要であることを説いている。問題点として、他に、教員の数の不足と質の低下も挙げられている。これらの「提言」は、25人程の国、公、私立の大学教授と数人の役人によって纏められたものである。何とも牧歌的で、危機感のかけらもないレポートであり、目糞,鼻糞を嗤うが如きもので、論評のしようのないものである。あの頃、私が感じていた切迫感とは、雲泥の差である。なぜ、減らしてなおも、哲学者・思想家・宗教家等の数を100人もノミネートしなければならないのか?なぜ、科学との連携をしないのか?不可解なことだらけであるが、「意識の壁」に阻まれて、真実が見えなくなっている彼らに、何を言っても無駄であろう。さて、哲学、思想、宗教の探索の際、用心しなければならないことが、2,3あるので、アドバイスしておきたい。まず、何か特定の思想・哲学に拠り、思考の節約をし、安堵するようなことがあってはならない。次に、哲学や思想に不用意に近づかないことである。扱われている問題を、事前に自分なりに考えて、どんなに著名な哲学者の言うことであっても、決して、鵜呑みにしてはならない。最後に、思想や宗教に科学的見解を持ち込む場合には、牛の角を矯めて牛を殺すようなことをしてはならない。思想や宗教倫理は、人間と同じで、全て正しいなどと云うことは、あり得ないので、良い所だけ参考にすればよい。その際、マルクス主義を、自身の哲学に取り入れようとして、ミイラ取りがミイラになってしまった、サルトルのような例もあるので、注意が必要である。余談であるが、政治家が支持者に支えられているように、宗教は人々の信仰にその存在価値を負っている。児童文学の作品に、しばしば、子供たちが、無邪気な真剣さで、神様に祈っているシーンが散見されるが、当の神様がそのような「無垢な祈り」に値するかどうかは別として、そのような日々の祈りの存在こそが、信仰と宗教が活きている証なのである。したがって、どんなに、伽藍が立派であっても、特定の日に、どんなに人々が集まったとしても、活きた信仰が伴わなければ、その宗教が、健在であるとは、言えないのである。さらに言わせてもらえば、偽善者として生きていることも忘れている、最近の大人たちはともかく、科学の洗礼を受けて育った子供たちが、「無垢な信仰」を失くしていないか、心配である。科学が神にとって代わり、崇められるような世の中には、努努(ゆめゆめ)成って欲しくない。如何に曖昧模糊とした存在であっても、まだ今迄の神の方が、余っ程、益しである。
私が通っていた私立高校は、校則がゆるやかで、柔道か剣道は必修であったが、クラブ活動は、自由参加であった。出席についても、うるさくなく、私は、落第しない程度にサボリ、テストだけは、欠かさず、受けるようにしていた。精神世界探求のための準備の一環として、数学、英語、物理、化学などを、高木貞治、齋藤秀三郎、朝永振一郎、ライナス・ポーリング、等に私淑して学び始めていたため、これ等の教科の成績は、見る間に上昇した。ただ、通信簿の評価は、欠席が多かったため、必ずしも、テストの成績と比例しなかった。それでも、親がいちいち呼び出されることは無かったため、とりあえず、平和な日々が続いた。この頃は、買い求めた本を読むことに没頭し、よく徹夜し、よく遅刻した。「詩作」「思索ノート」「探求」もそれなりの成果が上がっていた。詩は、投稿していた詩誌に、度々、掲載されるようになっていたが、自分では、それ程、詩の才能があるとは、思っていなかった。「探求」に関しては、どうやら、意識の問題が鍵であると、気付きはじめていた。私は、自身の課題を、「意識の考古学と意識の考現学」と名付け、意識研究に的を絞りつつあった。科学の世界でも、宇宙論と意識論は、最後のフロンティアであると言われていた。兄は、父の期待通り、東大法科に進み、卒業後、大蔵省にも内定したが、どういう訳か、大手の製鉄会社に就職してしまった。私は、父の望み通り、医者になるポーズをとり、誤魔化していた。病人相手の仕事は、気が進まなかったが、精神科にでも行って、お茶を濁しておけばいいと気楽に考えていた。実際、当時の精神医学は発展途上で、専門書を読んでも、あまり、ピンとこなかったのである。ユングの「集合意識」にも援けられ、「意識の考古学と意識の考現学」は、精神世界の探求に有効であることを、確信しつつあったが、「意識の壁」や「意識」の違いが、なぜ生じるのか、明確にできず、すっきりしないままであった。最近の大脳生理学の知見では、意識障害と感情障害の関連性が注目されており、感情と意識はセットで発動すると説く学説も現れている。私も、「意識は感情を伴い、発現し、感情の質が意識の質を左右する」という仮説を立て、現在、その定式化を試みているところである。話が、先走り過ぎたようなので、高校時代に戻そう。2年に進級したとき、新聞部にいる友人から、先輩の3年生が、受験で退部し、手薄なので、手伝ってくれと言ってきたので、学校新聞作りを始めた。結局、新聞部は、彼と私しかいなくなり、私が記事を殆んど一人で書くようになった。彼は、写真撮影と雑用を担当した。新聞は、ブランケット判8ページの月刊で、締め切り日は、いい加減であったが、学校生活は、記事の取材等で、途端に忙しくなった。新聞部に入って活動した事は、私に、思わぬ恩恵をもたらした。先ず、学校に、部室という、私の個室が出来た事である。私は、授業をサボったり、放課後遅くまで残って、部室で昼寝をしたり、読書に耽ったりしていた。その上、取材で、各クラブの担当の先生と会う機会が増え、校長とも面識が出来、授業の欠席や遅刻を、多少、大目に見て貰えた。記事は、何人かで書いているように見えるよう、文章をいろいろ変えて書いていた。他校の有名女子高と新聞の交換をしたり、学校新聞コンクールで注目されたりして、2年の終わり頃には、私は高校・学校新聞界のちょっとしたカリスマ編集長になっていた。他校の、特に女子高の新聞部との 交流も徐々に盛んになり、新聞部の部室では、男子校にも拘わらず、ときおり、若い娘たちの姿が見られ、話し声が聞こえていた。相方は、お茶を入れたり、写真を撮ったり、意見交換の録音をしたりで忙しかった。こちらから、相手の高校を訪ねる機会もあったが、面倒なので、すべて、相棒に任せていた。彼は、そんなことにかまけていたせいか、テストで、赤点を喰らい、2年に留年する羽目に、なってしまった。3年になっても、私は、新聞部にそのまま残っていたが、他校・女子高との交流を目玉に、新入部員を勧誘したところ、20人以上集まり、10人位残ったため、彼らに、徐々に新聞作りを引継いでいった。その頃、私の意識研究は佳境を迎えており、相変わらず、本屋通いと試行錯誤に忙しく、せっかく、女の子達と交流する機会があっても、彼女達と付き合うことは、あまりなかった。数少ない経験の一端を伺わせる詩を、章末に載せて、御笑覧に供することにする。私が大学入試を控えた、1969年1月18日,19日に、東大安田講堂事件が起き、突然、東大の入試が中止となった。そのせいもあって、高校卒業後、東大合格者数・全国一を誇る予備校に通うことになり、私の活動の幅も多少、広がり、その片鱗は、『再会の夜に・NOCTURNE 』の詩に、見ることが出来る。この5年後に、私は、家を出て、親元を離れることになるが、精神的には、既に、親離れが済んでいたように思われる。一生、卒業の見込のない、(ゴーリキーが命名した)「世の中」という「私の大学」、に進学する時期も、間近に迫っていたが、怖いもの知らずの私は、期待と好奇心で一杯であった。不思議なことに、この頃から、私の関心は、本から人に移っていった。いままでの話の主人公は「本」であったが、今後は「人」就中「女性たち」が主人公の物語になっていくことを予告し、一旦ここで筆を擱くことにする。
『打ち明けて言えば』
彼女の胸は
本当に小さかったんですが
色々なもので
胸をふくらませていました
あんまり沢山あるので
それが 何と何と何なのか
自分で分からなかったほどです
でも 私には分っていました
打ち明けて言えば
私は彼女を愛していましたから
それが 何と何と何なのか
教えましょうか 内緒で
それはですね つまり
女の子を造っているもの 全部です
そういえば 彼女は
顔立ちといい
身体つきといい
ムンクの『思春期』の少女 そっくりでした
ムンクの絵では見えませんが
背中の下の方に
小さな ほくろが付いていました
下図、ムンク、左『思春期』、中『アモルとプシュケー』、右『叫び』
〔08〕(2017.02,01) ~追記、哲人達の遺産~
「本の世界」を離れるに当り、前章の「水先案内人」のリストに載せていない哲人達と、その遺産に触れると共に、「精神世界」を探求した結果、得られた、若干の知見を併せて披露しておきたい。
上田 敏(1874年(明治7年)10月30日 – 1916年(大正5年)7月9日)
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文学者、評論家、啓蒙家、翻訳家。多くの外国語に通じて名訳を残した。小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)。
坪内 逍遥(1859年6月22日(安政6年5月22日)- 1935年(昭和10年)
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小説家、評論家、翻訳家、劇作家。1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。
二葉亭 四迷(1864年4月4日(元治元年2月28日) – 1909年(明治42年)5月10日)
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小説家、翻訳家。写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多く手懸け、ツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』は特に有名で、自然主義作家へ大きな影響を与えた。
森 鷗外(1862年2月17日(文久2年1月19日) – 1922年(大正11年)7月9日)
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明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。外国文学などの翻訳を始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動を続けた。
中村 元(1912年(大正元年)11月28日 – 1999年(平成11年)10月10日)
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インド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。在家出身。主たる専門領域であるインド哲学・仏教思想にとどまらず、西洋哲学にも幅広い知識を持ち、思想における東洋と西洋の超克(あるいは融合)を目指していた。外国語訳された著書も多数ある。
ラファエル・フォン・ケーベル(1848年1月15日 – 1923年6月14日)
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ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者、音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。ドイツ人の父とロシア人の母のもとニジニ・ノヴゴロドに生まれる。6歳よりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテインに師事し1872年に卒業した。しかし内気さ故に演奏家の道を断念し、ドイツのイェーナ大学で博物学を学ぶが、のち哲学に転じ、ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た後、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学で音楽史と音楽美学を講じた。その後、友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書に回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいた、と記している。東京音楽学校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。瀧廉太郎のピアノ演奏に深い影響を与え、瀧のドイツ留学時には自らライプツィヒ音楽院あての推薦状を書いている。室内楽奏者としては、当初、ルドルフ・ディットリヒのヴァイオリンとの合奏が最高水準と言われたが、ディットリヒの帰国後、1899(明治31)年に、横浜でアウグスト・ユンケルのヴァイオリンを聴いて彼を東京音楽学校に推挙する。ユンケルはベルリン・フィルやシカゴ交響楽団の要職を歴任するも、風来坊的な性格から長続きせず、来日した際、ケーベルに認められて日本楽壇を指導し、太平洋戦争中に生涯を終えるまで日本に永住した。ケーベルとユンケルの合奏も当時の日本で、最先端のクラシック音楽であった。1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否したが、1914年になって退職し、ミュンヘンに戻る計画を立てていた。しかし横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にあるが、ロシア正教からカトリックに改宗して生涯を終えた。
上記5人の日本人に共通するのは、翻訳を通じての、日本文化への貢献である。上田敏は、西欧諸国の著名な詩人達の作品を流麗な日本語に訳して紹介した。坪内逍遥はシェイクスピアを、二葉亭四迷はツルゲーネフを、森鴎外はゲーテやアンデルセンを、中村元はサンスクリット原典から数々の仏典を、翻訳出版し、日本語と日本文化の発展に、多大な寄与をしており、私自身も、彼らの労作に接し、表現力と思考力を涵養することができた。翻って、「少年少女世界文学全集」の訳者達にも、同様の恩恵を受けていたといえよう。ルターの「聖書」のドイツ語訳が、ドイツ語の発展をもたらしたように、翻訳によって、言語文化が豊かになることは、歴史が実証しており、言語のみならず、様々な民族の文化交流が、双方の文化の発展に必要不可欠であることは、ヨーロッパ文化の成り立ちをみれば、明らかである。アメリカの目覚ましい躍進も、豊かな国土のお陰であるよりは、多民族国家であり、多文化国家であったからであると思われる。もちろん、文化交流は、人種交流同様、様々な軋轢も生むが、これを乗り越えることで、さらなる文化レベルに、ステップ・アップすることが、可能となる。現在、イギリスがEUを離脱したり、アメリカが移民を制限しようとしたり、時代と、逆行する事態が起きているが、試行錯誤は人類の歴史に付きものであり、いずれ、正否は、これもまた歴史が、明らかにするはずである。インド哲学はかって、世界的にもトップレベルで、エリアーデなど、インド哲学からインスピレーションを得たヨーロッパの思想家も多いが、これは、もともとインドが多民族国家で、それぞれの文化を排除せず、融合・統合した結 果、達成されたものである。私が見るところ、インドが世界的数学者・理論物 理学者を輩出しているのも、(インドが貧しいからであると言う、朝永博士の持論にたいして、僭越であるが)インド哲学の伝統的土壌があったからではないかと思われる。自然も文化も、多様性こそが進化の源泉である、というのが、私の持論である。司馬遼太郎は「文明はたれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの、をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない」と述べているが、大きな間違いで、ローカルな多様な文化の土壌から、世界文化は花開いてきたのである。空海が日本人の精神的拠り所として「真言密教」を根付かせる事が出来たのも、「八百万の神々」をも取り込む度量があったればこそである。日本人ではないが、教育者として、日本で哲学教育・音楽教育に献身し、優秀な人材を育てた、「ケーベル先生」の呼び名で親しまれている、ラファエル・フォン・ケーベル博士を、今日、忘れられかけていることを考慮し、少し詳しく載せておいた。次に、西欧の哲学・思想・文化に貢献した、私が忘れえぬ哲人達を御紹介しよう。
アレクサンドリアのエウクレイデス(古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēs、ラテン語: Euclīdēs、英語: Euclid(ユークリッド)、紀元前3世紀? – 不明)
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古代ギリシアの数学者、天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。『原論』は、20世紀初め頃まで、数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。原論では平面・立体幾何学、整数論、無理数論などの当時の数学が公理的方法によって組み立てられているが、これは古代ギリシア数学の輝かしい成果として評価されている。完全数とメルセンヌ数の関係、素数が無限に存在すること、因数分解についてのユークリッドの補題(ここから素因数分解の一意性についての算術の基本定理が導かれる)、2つの数の最大公約数を捜すユークリッドの互除法なども含まれる。『原論』にある幾何学体系は長い間、単に「幾何学」と呼ばれ、唯一の幾何学だとみなされていた。今日ではこれを「ユークリッド幾何学」と呼び、19世紀に発見されたいわゆる「非ユークリッド幾何学」と区別する。
アウレリウス・アウグスティヌス(354年11月13日 – 430年8月28日)
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古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。アウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった。アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。したがって政治秩序は相対的に見られているが、アウグスティヌスがいわゆるニヒリズムや政治的相対主義に陥らないのは、政治秩序の彼岸に絶対的な神の摂理が存在し、現実世界に共通善を実現するための視座が、そこに存在するからである。だからこそ基本的に「神の国」とは異質な「地の国」の混入した「現実の」教会は、それでもなお魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表する存在たりえるのである。ここに倫理的目標実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができ、古典古代の政治思想との断絶を生む起因となった。一方で『告白』に見られるような個人主義に傾いた信仰と、『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。アウグスティヌスの思想として、特に後世に大きな影響を与えたのは、人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものと見做し、神の恩寵なしには善を為し得ないと考えた。このようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌス自身の悔悟と、原罪を否定し、人間の意志の力を強調した、ペラギウスとの論争があった(ペラギウス論争といわれる一連の論争は、西方教会における原罪理解の明確化に貢献している)。
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矢内原忠雄 『アウグスチヌス 告白』 みすず書房〈土曜学校講義 1〉(1970年)
サドル・アッ=ディーン・シーラーズィー、通称モッラー・サドラー (1572年–1640年)
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イランのシーア派イスラーム哲学者、神学者、ウラマー(知識人)。17世紀イランの文化的ルネサンスを主導した。イスラーム哲学・ユダヤ哲学・東洋哲学を研究している、オリヴァー・リーマン『イスラム哲学への扉』によれば、モッラー・サドラーは、最近の四世紀間では最も重要で影響力のある哲学者である、と言えるという。超越論的神智学は、17世紀にモッラー・サドラーが起こしたイスラーム哲学の学派である。彼の哲学と存在論のイスラーム哲学における重要性は、後のマルティン・ハイデッガーの哲学の、20世紀西洋哲学における重要性と比肩されるとされる。モッラー・サドラーは、イスラーム哲学において、「真実の本性を扱ううえでの新しい哲学的識見」に基づき、「本質主義から実存主義への大転換」を成し遂げた。これは西洋哲学で同様の事が起こる、数世紀前のことである。「本質は実存に先立つ」という考えは、シャハブッディーン・スフラワルディーと彼の学派・照明学派どころではなく、イブン・スィーナーと彼の学派アヴィケニズムにまで遡る。対する「実存は本質に先立つ」という考えは、イブン・ルシュドやモッラー・サドラーの著書中で、これまでの考えに対する応答として、発展させられており、実存主義の鍵となる根本的な概念である。「実存は本質に先立ち、そして本質があるためには実存が先立って存在しなければならないので、実存は原理である。」 これは、モッラー・サドラーの超越論的神智学の中核に据えられた主張でもある。
ブレーズ・パスカル(1623年6月19日 – 1662年8月19日)
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フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆者)、思想家、数学者、キリスト教神学者である。
1656年 – 1657年、『プロヴァンシアル』を発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、キリスト教を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『パンセ』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に、大きな影響を与え続けることになった。神の存在について確率論を応用しながら論理学的に思考実験を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られている、パスカルの思想の多くが記述されている。ルネ・デカルト流の哲学については、理性に関係する特定の分野での、それなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。また、「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」とする有名な記述も残している。それはパンセの断章番号4の部分である。
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『幾何学、繊細』
「真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。言いかえれば、規則などない判断の道徳は、精神の道徳をばかにする。なぜなら、学問が精神に属しているように、判断こそ直感に属しているからである。繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」
(パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、11頁。)
上述のようなパスカルの態度は、19世紀に登場する哲学者フリードリヒ・ニーチェ以後の哲学史において、現代哲学の流れにある「反基礎付け主義」を基調とする、いわゆる「反哲学の哲学」の先駆であると言われることがある。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる。パスカルは、自身が実験物理学者としての側面を持っているため、個別的な事例への観察から、帰納的な思弁を行う哲学者であり、その結果、「パスカルの賭け」などを含めて実存主義的な思索を残した。同時に、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。これは、当時(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者ルネ・デカルトが、「明晰判断」を重視する演繹的な証明によって、普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対照的である。
バールーフ・デ・スピノザ(1632年11月24日 – 1677年2月21日)
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オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強い影響を与え、思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑によって求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』(1677年)までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念、(自然とは人や物も含めたすべてのことである)、に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の存在を否定する徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。一元的汎神論や能産的自然という思想は、後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザの思想を取り入れており(唯一の実体という思想を、絶対的な主体へと発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する、無世界論(Akosmismus)であると評している。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ、実践の哲学』などの研究書を刊行している。代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しており、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書として、これ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した、人間的話法の所産であるとしている。キリスト教について、スピノザは、キリストの復活は、信者達に対してのみ、その把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したもの、と解している。また徳の報酬は、徳そのものである、とする立場からは、道徳律は、律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず、神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属としてではなく、人間を自由にするものとして、遵守・履行することを推奨している。また神を、その正義の行使と隣人愛によって尊敬する、という意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している。 カール・ポパーは、スピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作『エチカ』や『デカルトの哲学原理』は、いずれも本質主義的な定義に満ち溢れ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、仮になんらかの問題がそこにあったとしても問題回避的なものだ」と批判した。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。
セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日 – 1855年11月11日)
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デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な現実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界で、どのような可能性や理想を追求しようと、<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質がある、という見方を示したことが画期的であった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844年10月15日 – 1900年8月25日)
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ドイツの哲学者、古典文献学者。現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。ニーチェはソクラテス以前の哲学者を含めたギリシア哲学、アルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で、西洋文明を革新的に解釈し、実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされている。先行の哲学者マックス・シュティルナーとの間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)が見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を、逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志、などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観を指す。これは、生存することの不快や苦悩を、来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であったとしても、絶望せず、無限に繰り返される生を生き抜く、という超人思想につながる概念である。彼は、ソクラテス以前のギリシアに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自体の探求に切り替えた。自己と社会、世界と超越者との関係について考察し、人間は理性的存在ではなく、キリスト教的弱者にあっては、恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、そこに戯れ遊ぶ人間を超人とした。すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から、人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることが出来ず、流転する価値、その時々の生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない、悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は、全て、力への意志へと向けられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志による、すべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。
ヴィクトール・エミール・フランクル(1905年3月26日 – 1997年9月2日)
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オーストリアの精神科医、心理学者。1905年にウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任する。「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが、脳外科医としての手腕もすぐれていた。1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺志望患者部門の責任者を務めていたが、ナチスによる1938年のドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することが禁じられ、任を解かれた。1941年12月に結婚したが、その9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した。フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放された。その後1946年にウィーンの神経科病院に招聘され、1971年まで勤務した。1947年に再婚している。強制収容所での体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上にわたって読み継がれている。発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという。また、読売新聞による2000年の「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、翻訳ドキュメント部門第3位になった。よく誤解されるが、フランクルのロゴセラピーは、収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点で、すでにその理論はほぼ完成されており、はからずも収容所体験が理論の正当性を検証することとなった。極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。学会出席関連などで、たびたび日本にも訪れていた。
なお、『夜と霧』の原文のタイトルは『trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager 』(Kösel-Verlag, München 1977) 、日本語訳すると『それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する』で、日本語題『夜と霧』は夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩したものである。
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『夜と霧』 霜山徳爾訳(初版1956年)、みすず書房
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『死と愛』 霜山徳爾訳(初版1957年)、みすず書房
以上、観方によっては、関連性のある、8人の哲人達を挙げてみたが、多少コメントを付け加えておきたい。エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』は、古代ギリシャの精神文化の結晶と称すべきもので、同じ文化遺産でも、古代エジプトのピラミッドの様に、歳月の風化を被ることなく、2千年以上経た現在も、衰えぬ輝きを維持している。余談であるが、『原論』と比較されることの多い『プリンキピア』(1687年)によって、一世を風靡した、ニュートン力学は、現代の物理学の視点では、「巨視的なスケールで、かつ光速よりも十分遅い速さの運動を扱う際の、無矛盾・完結的な近似理論」と理解され、特殊相対性理論は、物体の速さが光速よりも十分遅い条件下では、ニュートン力学で十分近似され、量子力学の結果は、対象物体の質量を大きくした極限では、ニュートン力学の運動方程式の解と一致する、とされている。また、「ニュートンの万有引力理論は、重力が弱い場合の、一般相対性理論の近似である。」とも言われる。『プリンキピア』の表現形式は、ユークリッド『原論』に倣った作図を用いて幾何学的証明を積み上げる方式を採っている。この表現の中には、エルンスト・マッハが指摘したように、十分に論理的とは言えない点も含まれており、その後の時代の多くの人々によって整理しなおされ、別の説明方法も与えられている。 今日的な「ニュートン力学」の解説は『プリンキピア』とは様相が異なったものとなっており、大学などで「ニュートン力学」と呼ばれている体系は、多くの人々によって改良された、相対論以前の古典力学の体系と見なすのが適切である。一方、19世紀に発見された、非ユークリッド幾何学は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称である。非ユークリッド幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を、一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(殊に球面幾何学)が知られている。ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。大雑把に言えば「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。ここで、大事なことは、楕円・放物・双曲の各幾何学は、互いに他を否定する存在ではなく、いわば並行して存在しうる幾何学であるということである。各幾何は、それぞれ他の幾何の中に(少なくとも局所的には)モデルを持ち、したがって互いに他の体系の正当性を保証することになるからである。つまり、ユークリッド幾何学が無矛盾な体系であれば他の幾何学もやはり無矛盾だというわけである。ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論 』(1829年)において、「虚・幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、『空間論』を出版した。『空間論』では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年『ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明』において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないことを証明した。解説が長くなったが、要するに、「ユークリッド幾何学」は、今もって健在であり、「非ユークリッド幾何学」に否定された訳でも、凌駕された訳でもないことを、了解していただければ幸いである。ジョバンニ・ジローラモ・サッケーリは、1773年、論文『あらゆる汚点から清められたユークリッド』において、鋭角仮定・直角仮定・鈍角仮定という互いに背反かつ何れかは成立するような仮定を設定し、直角仮定から平行線公準を導けることを示した。同論文の定理 9 および定理 15 により、各仮定をより分かりやすく言い換えるなら次の通りである。
鋭角仮定; 三角形の内角の和は 2 直角よりも小さい
直角仮定; 三角形の内角の和は 2 直角に等しい
鈍角仮定; 三角形の内角の和は 2 直角よりも大きい
サッケーリは、鈍角仮定および鋭角仮定は矛盾を生じると主張したが、その証明に於いてはやはり平行線公準に依存する命題を使ってしまっており、証明としては正しくなかった。しかしながら、上の 3 つの分類はその後の非ユークリッド幾何学の構築に大きな役割を果たした。またヨハン・ハインリッヒ・ランベルトも1766年執筆の論文『平行線の理論』に於いて同様の主張をしている(この論文は1786年に発見された)。カール・フリードリヒ・ガウス(1777年4月30日 – 1855年2月23日)は、1824年11月8日付の手紙で、鋭角仮定のもとで整合的な幾何学が成立する可能性を示唆し、そこにはある定数があってこれが大きいほど通常の幾何学に近づくと述べた。ガウスの言うある定数とは、現代の言葉で言えば空間の曲率
k に対し、-(1/
k)のことである。ガウス個人は非ユークリッド幾何の存在を確信していたと見られるが、宗教論争に巻き込まれる事を恐れ公表していない。アウグスティヌスの功績により、(新)プラトン主義を取り込んでいた、カトリック教会は、ユークリッド幾何学をも、管理下に置いていたようである。
合理主義者にして、高貴な精神を持ち、純粋で妥協を嫌う、スピノザは、ニュートン同様、『原論』の厳密な論述に魅せられ、倫理を主題とした主著『エチカ』を、幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)によって、著している。スピノザは神の実在を否定する無神論者ではなかったが、神から実体とカリスマ性を剥奪し、イエスの受肉・復活に対しても、額面通り受け取らず、神をプラトンのイデ―の如き理念的存在と化し、理神論・汎神論的主張を述べた為、時の教会から、無神論者のレッテルを貼られた。決定論者、本質主義者として、プラトンに対してと同様、スピノザに対しても、ポパーは手厳しく、批判を加えている。アウグステイヌスは、プラトンから多くを学び、「神の国」と「地の国」という、ダブル・スタンダードを設けることで、国家と教会の権威・権力の棲み分けを図ったが、個人主義的信仰と教会の世俗的側面を擁護した為、のちに、宗教改革勢力から、既存の教会に対する、批判の糸口を与えた事は、否めない。『告白』は、397年から翌年に至るまでに書かれた自伝で、彼の青年時代の罪深い生活からキリスト教へのめざめを辿っている。西欧において最初期に書かれていた自伝にはよく見られる内容であり、その後中世までおよそ1000年に亙ってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼす雛形となった。『告白』はまた、アウグスティヌスの思考の深化を在りのままに記録したものであり、4世紀から5世紀において一人の人間が残した記録のなかでは最も完成されたものであると評価されている。私も、高校卒業後まもなく、矢内原忠雄の訳で読み、大聖人の赤裸々で、素直な、語り口に感銘を受けたのを、記憶している。サドラ―、パスカル、キルケゴール、ニーチェ、フランクルを一緒に紹介したのには意味がある。サドラ―はイスラム教徒、パスカル、キルケゴールはキリスト教徒、ニーチエはアンチ・キリスト教徒、フランクルはユダヤ教徒、と、それぞれ、立場・信仰を異にするが、実存主義的感性の持ち主であることにおいて、共通しており、神に共感するにせよ、反発するにせよ、神、宗教、倫理の問題と真剣に対峙した哲人達である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、は共に、エルサレムを聖地とし、アブラハムの宗教と云われ、精神的血族関係にある。エルサレムは、地中海から内陸部に入った標高800メートルの小高い丘の上に位置し、ユダヤ人が住む西エルサレムとアラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。西部についてはエルサレム地区に位置する一方で、東部についてはパレスチナ自治政府も領有を主張し、エルサレム県に含まれるとともにパレスチナ独立後の首都と規定している。エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、アブラハムの宗教全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。
ユダヤ教にとっては、エルサレムはその信仰を集めていたエルサレム神殿が 置かれていた聖地であり、ユダ王国の首都であった場所でもある。現在でも幾 つかの神聖とされる場所が残っている。中でも嘆きの壁は有名で、これは70年にローマ帝国がエルサレム神殿を破壊したときに外壁の一部が残されたものである。
キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが教えを述べ、そして処刑され、埋葬され、復活したとされる場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ教会が建っている。ゼカリヤ書12章では「地のすべての国々はエルサレムに集まって来る」とある。
イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。コーランは、メディナに居住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承はムハンマドの死後間もなく、早い時期からすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所には、ウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスクが建設され、聖なる場所と見なされている。しかし、エルサレムは、メッカ及びメディナと同格の聖地ではない。なぜならメッカとメディナは、「禁域」とされ、異教徒の立ち入りや、樹木の伐採や狩猟などが禁止されているからである。一方、エルサレムは、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とならなかった。第2代のカリフであるウマルの時代に征服されたのちも、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な、国際的な宗教都市であり続けたのである。
エルサレムの現状を見ると、聖書に記されている、有名な「イエスの嘆き」が、今も、聞こえて来るような気がしてならない。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがヒナを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言う時まで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。 (マタイ23:37~39)
最後に、神とはいかなる存在であるのか、信仰と宗教は何故、未だに、存続し続けているのか、哲人達の足跡を辿った末得た、現時点での私の見解を述べ、「精神世界」を巡る旅を終わることにしよう。神とは、最大公約数としての人類の集合無意識・集合意識が創り出した、象徴的存在である。最大公約数としての人類の集合無意識・集合意識は時代と共に変化し、神の属性も、相応に変化を余儀なくされる。イエスに代表される、最小公倍数としての人間は、このような変化に、コミットし、一定の影響を与える場合も、逆に、利用される場合もある。人々が、道徳的に、あるいは、功利的に必要とする限り、神への信仰は、存続し、随って、宗教も生きながらえることになる。将来、神に変わるものが現れるとしても、人類が『善悪の彼岸』(ニーチェ)ではなく、「善悪の此岸」に属する存在である限り、何ものかが、善悪の判断を取り仕切る役割を、担わざるを得ないであろう。人類にとって、神は「必要悪」ならぬ「必要善」なのだろうか。願わくは、そうであったと思いたいし、そうであって欲しいと願って止まない。何れにせよ、すべては、我々人類の選択に委ねられている。
〔09〕(2017.02.25) ~日日是好日~
「日日是好日」(にちにちこれこうにち)は、唐末の禅僧、雲門文偃の言葉とされ、『碧巌録』第六則に公案として収められている。『碧巌録』第六則の記述は以下の通りである。「挙。雲門垂語云。十五日已前不問汝、十五日已後道将一句来。自代云。日日是好日。」この公案の意味と解釈は種々説かれており、その味得は、各人の力量に委ねられている。長年、生業としていた職を辞し、早、一年以上経過した私も、この公案と向き合い、味到すべく 、引退後の日々を送っている。4年程前、脳梗塞で入院し、半月後、奇蹟的に職場復帰を果たしてから、私は、引退に向けた準備に取り掛かった。当時、都内で1店を30年に亙り、川崎で2店を約10年、計3店の新聞販売店を、UPLIFT (アップ・リフト) という法人名で 経営していた私は、その後、3年がかりで都内の店から順次、後進に譲り、一昨年の暮、ほぼ計画通り、職責を全うし、引退する事が出来た。この間、長年の盟友とも言うべき、二人の新聞社・販売担当重役の理解と協力が得られたことも幸運であった。先日(2月21日)、新聞社が所有する球団の株主総会と取締役会で、球団社長となっていた一人が退任し、もう一人がその後任に就任した報に接し、感慨もひとしおであった。直後、二人と電話で話し、二人ともさばさばした様子で安心したが、二人が抜けた後の、新聞社・販売部門の行く末を考えると、多少、複雑な思いを感じずにいられなかった。結局のところ、時代の大きな流れに、人力では抗しがたいことを認めるより仕方が無いのかも知れない。一昨年末、私の店を引継、その後1年間面倒を見て、名実共に独立させた後進達を始め、販売部門に携わっている社員達の、今後の武運長久を、唯々(ただただ)、祈るばかりである。
〔10〕(2017.03.03) ~「檸檬」讃歌~
家出をする一年程前から、『意識の考古学と意識の考現学』の表題で、これまでの精神世界探求の成果を纏め始め、同時に、『玩具箱』と題し、それまでに作った100余りの詩から50程選び、処女詩集の原稿作りに着手し、それぞれ、大学ノートに書き進めていた。作業の合間に、気分転換のため、近くの梅林に出かけ、鳥の鳴き声に耳を傾け、林の木を眺めていたが、いつしかこれが、日々の日課となっていた。そんなある日、突如、意識が覚醒する体験をした。感覚も鋭敏になり、周囲の世界を感知する五感と第六感が、まるでカメラのピントが合った時のように、はっきりと意識された。この出来事により、私は、世界認識に於ける、意識の決定的役割を確信するに到り、同時に、この体験の信憑性を実社会で確認する決意を固めた。また、今後、活動する際の、指針と自戒として、自らに十戒を課した。以下に「覚書」に載せたものを再掲して置く。
- 一、 世俗的成功を望まぬこと。
- 二、 世の中の価値観や評価に惑わされぬこと。
- 三、 中途半端な同情心から人に近づかぬこと。
- 四、 自身の欲望を満たすために他人を利用しないこと。
- 五、 批判や非難をすることに時間と労力を費やさぬこと。
- 六、 人は死すべき存在であることを、片時も忘れぬこと。
- 七、 現実を直視し、非現実の世界に救いや逃げ場を求めぬこと。
- 八、 人間が自然から生まれ、自然の一部であることを認識すること。
- 九、 人の本質は変わらず、人の世には、解決困難な問題があることを肝に銘じること。
- 十、 この世で生きる為には、妥協せざるを得ないことを自覚し、どうしても譲れないこと以外はこだわらず妥協すること。
上記の体験は、一大転機となり、私に、家出をし、世の中に出る覚悟を決めさせることになったが、比較するのも憚られるが、空海が、19歳で山岳修行に入り、一沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かり、室戸岬の御厨人窟で開悟した事とこの体験は、私には、同様の意義を持つものと感得された。空海は24歳の時「聾瞽指帰」を著しているが、私が『意識の考古学と意識の考現学』の骨子を書き記したのも24歳の時である。空海は、開悟した時点で、すでに、自らの思想に確信を持っており、この後、30歳で中国に渡ったのは、この確信を当時の日本社会に於いて、検証し、実践する為の方途を求めたものであったと思えてならない。なお、空海の生き方と一見眞逆な生き方の、十カ条の格律は、現在に到るまで、私の処世訓となっている。書き終えた大学ノート2冊と、読み掛けの本・ミッシェル・フーコー著「知の考古学」を携え、私は家を出たが、別にこれと言った悲壮感も無く、むしろ、今後の体験への期待感で、胸をはずませていた。両親が心配することを懸念し、机の引き出しに、以下の様な、置き手紙を入れておいた。
「突然、断りも無く、家を出、御両親の御期待に背くことを、御赦しください。これから世の中で、自分の生き方を試して見る積りです。皆様に御迷惑をお掛けしないことを御約束します。これまでの、御恩に感謝し、皆様の御健勝と御多幸を御祈り致します。また、御会いする時まで、暫しの御別れの御挨拶を申し上げます。無断でお借りした、当座の小遣いは出来るだけ早く、現金書留にて、御返し致しますので、御容赦ください。」
私は、世の中の最下層から出発することを志し、山谷に向かったが、ちょっと寄り道をすることになってしまった。その顛末をこの後、お話しするつもりである。余談であるが、功成り名を遂げた男も、自分自身の存在価値に確信を持てないため、有りの儘の自分を認め、理解し、関心を抱いてくれる相手を秘かに渇望してやまないようである。その相手が、若くて魅力的な女性であれば、それに越したことは無い。しかし、有りの儘の自分を認め、理解し、関心を抱いてくれているかどうかを、確認するすべは無く、ここから、様々な悲喜劇が生じることになる。閑話休題。当初、山谷に向かう予定であったが、その界隈に、住込みの新聞配達の口でもあればと、試しに探して見たものの、身元保証なしで雇ってくれる所が見つからず、もたもたしている内に、夜になってしまった。鴬谷駅の辺りをぶらぶらしていて、「キャバレー・スター東京」のネオンサインを目にし、後学の為にちょっと入って見た所、フロアーで繰り広げられていたのが、上述の悲喜劇であった。キャバレー発祥の地はフランスで、シャンソンを聴かせる小さなキャバレー「シャンソニエ」から始まり、フレンチカンカンなどの大規模なショーを観せる、有名な「ムーランルージュ」(赤い風車)などの豪華キャバレーへと発展し、第一次・第二次世界大戦にかけて、ドイツやオーストリアでも一世を風靡した。「ムーランルージュ」は、第二次世界大戦中にパリがドイツの占領下に置かれた際も、多くのドイツ軍将兵で賑わった。キャバレーは、日本でも、昭和の一時期、隆盛を極めたが、1971年のドルショック、続く1973年のオイルショックの影響で、ネオンサインの自粛や関連する諸般の事情から客足が遠退き、次々と廃業へ追い込まれていった。その後1976年頃から、ディスコの台頭により、キャバレーの存続自体が難しくなり、さらに追い討ちをかけるかの如く、1980年代半ばからはキャバクラなどの新たな業態に押され、キャバレーは次第に劣勢になっていった。私が、「スター東京」を訪れたのは、キャバレーの衰退期で、客層もノスタルジックな雰囲気を楽しむ年配者が殆どであった。当時、20代前半の私は、年恰好と言い、風体と言い、目立ったようである。ボーイに案内され、店のコーナーの薄暗い一角に腰を下ろすと、やがて、30前後のベテランとおぼしき女性が向いの席に着いた。「始めまして、レモンです。」と挨拶して、「檸檬」と書いた名刺を渡された。ゆったりした、感じの良い、エキゾチックな感じの美人であった。飲み物は水割りを注文し、彼女にも勧め、渡された名刺の裏に、自分の姓名と年齢を書き、読み仮名を振って渡した。暫く私の姓名を見てから、私を名前で呼び、とてもいい名前だと褒めてくれた。自分で付けた訳ではないが、名前を褒められたのは、始めてで、悪い気はしなかった。後で、知ったが、彼女は、独習し、独自の考えを取り入れ、趣味で姓名判断を行っていた。概略の説明をして貰ったこともあったが、細かな法則は、覚える気も無く、覚えられなかった。何でも、新字派の桑野燿齊による「桑野式内画法」をベースにしたもので、総画数や、苗字や名前の画数を規則に従って足したり引いたりしたものが、大方、奇数は吉数で、偶数は凶数だということぐらいしか記憶にない。1時間の料金が幾らか気になっていたので、訊くと、思いのほか安かったので安心し、彼女にお金を渡し、支払いを頼み、ほっとして、酔いも回ったせいか、話がはずんだ。私が、今晩泊るところを探して居り、どこか、この近くで、安く泊まれる旅館かホテルを知っていたら教えて欲しいと言うと、店の人に聞いて、後で教えてあげるから、近くの喫茶店で時間を潰して待っているようにとの返事で、その日は、早番なので、11時過ぎには帰れるとのことであった。喫茶店でカレーを食べ、「檸檬」との待ち合わせまで2時間程あったため、読み掛けの本を開き読んでいたが、いつの間にか、居眠りをしてしまったようで、店を終えて来た彼女に起してもらった。コーヒーを注文すると、彼女は、私のボストンバックに眼を遣り、何が入っているのか聞いた。私は、当座の着替えと小間物であると答えた。ちょっと間を置いてから、彼女は、あなた、もしかして、家出少年?と訊いたので、私は、家出成年だと訂正した。彼女は笑って、何故、家出したのかと尋ね、多少酔っていた私は、内なる声を聴いたのだと答え、「人間到る処青山有り」を信条とし、これから、住込みの仕事を見つけ、見聞を広げ、自分を試し、鍛える積りでいると話した。あなた変ってるわね、と言い、彼女は暫く黙っていたが、今夜はもう遅いし、この辺りに適当なホテルも無いから、うちに泊ってはどうか、よかったら仕事が見つかるまで居て貰ってもよいと言った。予期せぬ申し出に面喰い、どうしたものか暫く考え込んでいると、じゃあ、行きましょうと言って彼女が席を立ったので、でも、いきなり他人を泊めたりして、迷惑では・・・と言うと、微笑みながら、色々話したし、もう他人とは思っていないと言い、喫茶店を出て、通りがかったタクシーに私を押し込んだ。彼女は駅から車で7,8分のマンションの9階に住んでいた。2LDKの住いは、整理整頓されており、ダブルベッドが置かれた寝室には、マリー・ローランサンの複製画が掛かっていた。リビングにはアンティークのビスクドールが飾られ、本棚には、スペイン滞在中、ローランサンと親密な仲であったと言われる、堀口大学の詩集や、カザノヴァの「我が生涯の物語」、アガサ・クリスティの推理小説、趣味の姓名判断の本などが置かれていた。彼女は、ジャズが好きで、よく、マイルス・デイヴィスのレコードを掛けていた。私は思わぬ展開に戸惑い、家出をした決意に、水を差されるのではと、多少の不安を覚えていた。彼女は、そんな私を、珍しい生き物でも目にするかのように、観察していたようであった。翌日から私は、彼女が購読していた新聞の、新聞販売店の求人欄を見て、彼女の電話を借り、身元を明かさず住み込みで働かせてくれる店を探したが、なかなか見つからなかった。2週間ほど経った頃、鴬谷駅近辺を歩いていて見つけた新聞販売店に飛び込みで頼み、受け入れて貰えることになった。「灯台もと暗し」と言ったところである。今にして思うと、彼女との出会いは、私に、掛け替えの無い経験を齎してくれたことは確かで、それまで、大人の女性と生活を共にしたことの無い私に、女性に対する認識を深め、女性に対する免疫をつけさせてくれた。彼女はまた、アングル(1780年8月29日 – 1867年1月14日)の『ヴィーナスの誕生』に描かれた女性似のしなやかな身体とおおらかな心で、私を抱(いだ)き、人から愛されるということがどういうことであるか、を教えてくれた。
ドミニク・アングル『ヴィーナスの誕生』 マリー・ローランサン『縦笛』
中学、高校時代、本の世界に入り浸り、同級生達が、異性に目覚め、恋愛の真似事に現(うつつ)を抜かしていたのを尻目に、ストイックに過ごしていた私は、「檸檬」に逢うまで、貧弱な女性経験しかなく、人類の半分を占める女性に関しては、書物から得た知識のみで、正直、不明な点が多かった。彼女の豊富な経験に基づく智慧は、その後の私の人生の大きな援けともなった。彼女の見解では、大概の男は、多かれ少なかれマザコンで、ベッドを共にすると、つまらなくなってしまう者が大半であるとのことであった。これはと思う男に巡り会ったことも、ほとんど無いそうである。女は子宮で考えると言われるが、本当なのかと訊ねると、好きな男と出会うと、胸のときめきより、子宮がうずくのを感じるとのことであった。また、生理的な相性があり、これを理性でコントロールするのは難しく、男女共に、お互いの生理的な相性が良いことは、稀であるとも言っていた。また、気持ちが離れても、セックスはできるが、キスはしたくなくなるらしい。彼女がカザノヴァの自伝を読んでいたので、ドンファンとして有名な彼についての評価を求めると、彼は自己中の好色家と違い、奉仕の精神に富んでおり、女性に尽くすタイプで、まめで、どちらかというと、女性的で、現実的な精神の持ち主であると応えた。生涯変わらぬ相思相愛などは夢物語であると達観しているように見受けられた為、結婚して家庭を持つ気は無いのか、恐る恐る聞いて見た所、独りでいる方が気楽でよいとのことで、キャバレー勤めもかれこれ10年近くになったので、そろそろ、小さなスナックでも始めようかと考えていると言っていた。私が女性の扱いに不慣れであることを気にしていると、気持ちが籠っていれば、それでよいのだと諭してくれた。身元を確認せずに、住み込みで雇ってくれるところが見つかったため、私は、敢えて行き先を告げず、感謝の言葉を添え、書き上げた2冊のノートを残し、彼女が仕事に出かけた後、私も彼女の家を後にした。その後、つぎつぎに様々な人々と出会ったせいか、当初は、彼女と暮らした2週間余りが、2年程にも思われ、感謝の気持ちを抱いていたにも拘らず、不思議と、彼女を懐かしむことは無かった。私が、彼女の言う生理的相性を、それほど強く感じなかった為かも知れない。詩集『玩具箱・抄』の『血脈』及び『男と女・CHANSON』は、「檸檬」への讃歌である。この四年後に、私は生理的相性がぴったりで、合歓綢繆(ごうかん‐ちゅうびゅう)を共にした女性と出会い、半年以上に亙り一緒に暮らしたが、今から振り返ると、ほんの半月ほどに感じられるから不思議である。ここまで書き進めて来て、ふと、いつもの心配が脳裏を掠めた。賭け事のスリルに夢中になり、意中の女性との情事の達成を無上の歓びとする、世の男性同様、私もまたドンファンの如く情事を求めているのではないかという、あらぬ疑いを掛けられているのではないかとの懸念である。うら若き女性達に囲まれた、なに不自由のない暮らしを捨て、ブッダが出家したのは、真理の発見に、何ものにも勝る歓びを見出したからである。今回もまた、比較するのを憚られるが、私も精神界を探求し、新たな発見をすることに何ものにも代えがたい歓びを味わっていた。この5年ぐらい後に、新聞販売店の店主となり、取引先である新聞社の販売部門の人々と関わりを持ったが、何故か、私は、プレイボーイであると誤解され、若い女子社員達は、私と話すだけで子供が出来ると脅かされていたようである。このような思い過ごしを糺すため、度々私は、「私が女好きなのでは無く、女性が私を好きなのだ」、と力説したが賛同は得られなかった。この点に関しても、「檸檬」は、ちゃんと理解してくれた数少ない、ひとりであり、「相手を正しく理解することこそ、真の愛である」ことを教えてくれたのも、また、彼女であった。
〔11〕(2017.03.07) ~「少年愛」の哲学~
「少年愛」としては、古代ギリシアの「少年愛(パイデラスティアpaiderastia )」が著名であるが、これは、当時の代表的なポリスであるアテナイでは、暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに較べ、より戦士社会として厳格な文化や制度を持っていたスパルタにおいては、「少年愛」は男性市民(国民皆兵制のスパルタでは、それは戦士であることを意味した)にとって、律法化された義務でさえあった。
プラトン(紀元前427年 – 紀元前347年)は、「徳(アレテー)」について語っているが、アレテーは、これを持つ優れた男性が、未熟な男性を肉体的・精神的に鍛えることで、若い男性を優れた戦士として、また知性に満ち、高い倫理観を持つ市民として、育て上げることで、次の世代へと伝達されるとされた。アレテーを若い男性、すなわち、青少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。
古典ギリシアの「少年愛」においては、愛される少年に求められる資質は、戦士としての倫理性であり、精神的な卓越性であった。要するに、少年愛の相手である少年に望まれる資質は、「善(アガトン)」であった。ソクラテス(紀元前469年頃 – 紀元前399年4月27日)は、数多くの青少年を口説き落す達人であったので、「痺れエイ」との綽名を持っていたが、彼が、当時の美青年の代表と目されていた、アルキビアデスを籠絡した言葉(殺し文句)は、「人々は、君の肉体の美しさを賛美する。だが僕は、君の外見の美しさではなく、君の魂、つまり君自身の本質を愛している」というものであり、ソクラテスは、美青年達をナンパしながら、自身の哲学を説いていたようであり、「少年愛」の哲学と命名したい程である。
古代ギリシアの文化制度であった「少年愛」は、地域、時代の変遷とともに、それぞれ大なり小なり姿を変え、近代に到るまで、命脈を保ってきた。古代ローマに於いては、ハドリアヌス帝(76年1月24日 – 138年7月10日)と、後に皇帝マルクス・アウレリウス(121年4月26日 – 180年3月17日)となる少年マルクスの事例が有名であり、中世カトリック社会では、司祭や修道士のあいだで存続し、ルネッサンス期のダ・ヴィンチ(1452年4月15日 – 1519年5月2日)は、美少年の弟子を擁しており、イスラム社会でも、ペルシャのオマル・ハイヤーム(1048年5月18日? – 1131年12月4日?)は、『ルバイヤート』のなかで美少年を賛美している。日本では、室町幕府・第三代将軍・足利義満(1358年9月25日‐1408年5月31日)と、その寵愛を受けた能楽師・世阿弥(1363年? 8月8日‐1443年9月1日?)の関係や、戦国時代の織田信長(1534年6月23日‐1582年6月21日)と、前田利家(1539年1月15日‐1599年4月27日)の関係が、よく知られている。なお、プラトンやソクラテスの「少年愛」は、さすがに、プラトニックなものであったようである。
今回、御紹介するのは、古代ギリシアから2千年以上経過した現代に生きる私が、まさか経験する事になるとは夢にも思わなかった、プラトニックな「少年愛」に纏わる話である。家を出た当初、山谷のドヤ街を目指していたが、予定を変更して、新聞販売店に住込みで働くことにした。世間の「実地見聞」を目指していた私にとって、新聞販売店の方が、従業員の「人種」・年齢層がバラエティーに富んでおり、仕事柄、巷の人々との交流も容易であると考えた為であるが、この目論見は見事に的中した。
今から40年以上前の当時、新聞業界は、売上増の最中(さなか)で、日本も高度成長期であったせいか、我が世の春を謳歌していた。その頃は、電車に乗ると、新聞を広げている乗客を、多数、目にしたが、現在は、スマホを見る者ばかりで、今昔の感を禁じ得ない。手許の日本新聞協会が発表した資料では、2001年の、日本全国の販売店数は、21、864店で、従業員総数は、464,827人である。これが、2016年には、販売店数が16,731店、従業員総数が317,016人に減少している。この数字から類推すると、40年程前は、少なく見積もって、販売店数で2万5千店以上、従業員総数で50万人以上であったものと思われる。因みに、一般紙、スポーツ紙の合計発行部数は、2001年が53,680,753部(一般紙47,559,052部、スポーツ紙6,121,701部)、2016年が43,276,147部(一般紙39,821,106部、スポーツ紙3,455,041部)であり、実に、1千万部の減である。往時と比べ、新聞販売店業務は、休日が増え、労務環境は多少改善され、折込機械やパソコンの導入により、作業効率も幾らか良くなったものの、発行本社と販売店の特殊な関係に起因する、旧態依然とした体質は、今もって、変わっていない。日本全国津々浦々に張り巡らされた、新聞の宅配網は、世界に冠たる、日本の文化遺産であると言ってもよいが、これを、いつまで維持できるかは、不明である。以前、50代前半だった頃、日本全国の新聞販売店で組織する、日本新聞販売協会の役員に出向していた際、各新聞社の販売幹部と会う度に、宅配網の付加価値を増やすよう説いて回ったが、徒労であった。また、公取と再販問題で話し合った際、新聞社と販売店の取引契約を、適正化するよう具申したが、真剣に取り上げられることも無かった。再販売価格維持の独禁法除外を認める制度は、規制緩和と自由化を求める、アメリカの圧力を受け、公正取引委員会が制度の見直しに着手することになったが、アメリカは、また、日本における、政・官・財の癒着をトライアングルとして問題視し、これに、マスコミも同調し、スクエアーとなっているのではないかと危惧していた。私には、官に政・財・マスコミが取り込まれていた明治維新以来の悪弊を、未だに引き摺っているように思えてならない。新聞社が、製作と販売部門が同じ会社となっているのも、そもそも問題で、当時すでに、「新聞はインテリが作って、ヤクザが売っている」と、揶揄されていたが、このままでは、何れ、腐敗した販売の体質が製作にも悪影響を及ぼし、「社会の木鐸・公器」とは程遠い、「インテリ・ヤクザが作り、チンピラ・ヤクザが売る」ものに成り下がってしまうと、何度か私は、発行本社に警鐘を鳴らしていたが、現状は、まさにそうなりつつあるようである。また、新聞販売業界の「獅子身中の虫」とも言うべき、拡張団や拡張員も、いまだに、排除できないままである。
世の中に出て、初めて、働いた新聞販売店は、身元確認もしない、かなり、大雑把な店であった。店主は暇そうで、何処に居て、何をやっているのか、あまり姿を見かけず、自由な時間があり、好きなだけ本を読めそうで、私には、羨ましい限りであった。従業員は14,5人程で、半数が専従社員で、残りの半数が新聞奨学生、その内、予備校生が1人、あとは専門学校生であった。学生は外の民間アパートに住まわせ、専従社員には、店の2階の、3畳程度に仕切られた部屋をあてがっていた。専従社員は、年齢、「人種」が様々で、山谷から流れて来た者、新聞店を渡り歩いている者、大学を中退して来た者、田舎から出て来た者、私の様に家出して来た者、等々、それこそバラエテイーに富んでいた。変わったところでは、台湾から出稼ぎに来ていた者も、短期間だが、いたことがある。また、出入りも、激しい様であった。新聞販売店は、今も、「人種」 の坩堝であり、従業員が定着しない職種であることに変わりは無く、典型的労働集約型産業である為、労務管理をきちんとやると、結構大変であるが、様々な「人種」を相手にせねばならず、対応力が問われ、私にとっては、恰好の職場のように思われた。
入店した私に、担当区域の順路を案内してくれたのは、左手、二の腕の半分から先が無い、小柄な中年の専従社員であった。「親父(おやじ)」と呼ばれていた店主は、彼を「手ん棒」と名付けていた。彼は不自由な身体で、巧みに、自転車を操り、肩や顎を使い、器用に折込や配達業務をこなしていた。彼は、何故か私を邪険にし、まともに教えようとしなかった。私は、教えて貰うのを断念し、順路帳をもとに、一軒一軒たどり、何とか自力で配達できるようになった。彼の仕打ちについては、誰にも言わず、黙っていて、逆に、折込業務が遅れがちな彼を、手助けしてやった。学生たちが、規定の休日が貰えず、私に、解決策を相談してきたため、学生達に、休みを取る学生の区域を少しずつ分担して余分に配達させ、その分の手当てを、「親父」と交渉して出して貰うことにした。新聞店の朝は早く、午前2時には、新聞が店に届き、配達の準備が始まった。朝刊の配達が終わると、店の食堂で、用意された朝食を食べ、専従社員は、ひと寝入りして、昼前から夕刊配達時間まで営業に出かけた。夕刊が終わると、翌日の折込を準備し、また、集金や営業に出て、仕事が終わるのは夜8時頃であった。仕事が終わると、2階の宿舎にある、ちょっとしたホールで、よく酒盛りが始まった。私は、皆の愚痴や、与太話に付き合った。店の隣に銭湯があり、2階の屋根の上から、銭湯の天窓越しに、女湯の脱衣所を覗くことができ、私も確かめてみたが、うっすらと湯気が立ち込め、余計、色気を引き立たせていた。しばらく皆で楽しんでいたようであるが、ある時、酒を飲んで、覗いていた者が、2階の屋根から落ち、足の骨を折って救急車で運ばれてから、2階の屋根に登ることは、残念ながら、禁止となった。そうこうするうちに、私は、徐々に、専従社員と学生達から、信頼されるようになっていった。店には、ボクサー崩れの、「フランケンシュタインの怪物」のような顔をした、30絡みの店長格の専従社員がいて、昼前に起きたあと、いつも、その時々の流行歌、それも顔に似つかない、荒井由実の『卒業写真』や太田裕美の『木綿のハンカチーフ』など、のレコードを大音量で掛けていた。ある夜、私が寝ていると、酒に酔った彼が、部屋のドアーのガラスをぶち破り、押し入ってきて、生意気だと、いちゃもんを付けて来た。しょうがなく、2階の階段から突き落とすと、動けなくなったので、手を貸して、彼の部屋に寝かしつけた。それ以来、彼は、おとなしくなり、逆に、酔って街のチンピラと喧嘩すると、私に加勢を求めてきたりした。半年ぐらい経ったとき、彼と居酒屋で飲んでいると、彼は、おまえの御蔭で、店の従業員が落ち着いている。こんなことは、この店始まって以来で、「親父」も喜んでいると、打ち明けてくれた。台湾から出稼ぎに来ていたのは、30過ぎの妻帯者で、是非、家に来てくれというので、彼のアパートに行き、台湾料理を御馳走になった。彼は、息子3人を台北の母親に預け、夫婦で、日本に来ていた。台湾では、駐留米軍に、北京語を教えていたそうで、日本語を私に習いたいとのことであった。間もなく彼は、店を辞めたが、私は、その後も、英語を介し、日本語を彼に教え、色々と、相談に乗る仲になった。彼ら夫婦は、日本の自然が好きで、夕刊の無い、暇な日曜日を利用して、彼の運転する車で、あちこちの山に、連れて行ってもらった。また、日本語を教える代わりに、李白(701年 – 762年10月22日)や杜甫(712年- 770年)の詩を、北京語で音読して貰った。私と同時期に入店した、専従社員の一人で、高校卒業後、沖縄の金武町から来た19歳の少年と、学生従業員で、九州の福岡から来た同じく19歳の少年が、私に懐いており、私も目を掛けていた。特に、沖縄の少年は、専従社員扱いだった為、始終、公私に亙り、行動を共にし、二人は、兄弟の様であったが、彼に対して私は、秘かに、プラトニックな「少年愛」を覚えていた。翌年の2月に、配達区域にあった、別の新聞社の販売店の店主から、墨田区の向島に、新たな店を持つので、店長をやってくれないかとの誘いを受け、店を移った際も、彼は、私に付いて来た為、彼とは2年以上共に過ごすことになった。彼は、古代ギリシアのアテネにおける「少年愛」の対象として望まれる資質「善(アガトン)」の持主であり、何よりも、容姿がドナテッロ(1386年頃 – 1466年12月13日)の『ダヴィデ像』に生き写しの美少年であった。彼のせいか、その2年余りの間、私は、女性達の誘いには目もくれず、不犯を通した。九州の福岡から来た少年は、同じ販売店の新聞奨学生の、同じ専門学校の同級生と、これまた同じクラスの女の子を巡って、三角関係になり、私の所に、ときに涙ぐみながら、恋愛相談にきていた。私のアドバイスが功を奏したのか、彼女との付き合いは、上手くいったようであるが、時々、授業終了後、アパートで、彼女と寝過し、夕刊の時間に遅刻した為、私が配達途中に起こしに行った。或る時、何時ものように起こしに行くと、彼が行き違いで出た後で、彼女が、裸で出て来た。パンティ―が見つからないので、一緒に探してほしいと言われ、探していると、私に抱きついてきたので、配達途中だからと言い、退散した。彼女は、クラナッハ(1472年10月4日 - 1553年10月16日)の『ヴィーナス』似のコケティッシュな少女で、多少の心残りはあったが、誘惑に乗らなかったのは、九州の彼への義理立てより、沖縄の少年に対する罪の意識が強かった様に思われる。彼女の父親は、金属製・時計バンド製作の下請け工場を営んでおり、彼女も工場の仕事を手伝っていて、誤って、旋盤で右手の小指を第一関節から切り落としてしまい、義指を付けていた。また、何の因果か、九州の彼も卒業後、彼女の父親の工場に勤め、同じように旋盤で、右手の小指の先を切り落としてしまった。しかも、彼女が親の勧めに従い、父親の知り合いの工場主の息子と結婚した為、彼の恋は、日の目を見ずに終わった。私は、運送会社を創り、彼に、トラック持ち込みの、家具屋の請負配送を世話した。沖縄の少年にも新聞店から足を洗わせ、同じ様に、瀬戸物屋の請負仕事をさせた。私が店長の傍ら、運送会社を始めたのは、向島店に移ってからであるが、その頃の話は、次章に譲り、ここでは、最初の店での、沖縄の彼や、他の人々との忘れられないエピソードを御紹介したい。ほぼ毎日、昼前に私は彼と共に営業に出ると、まず喫茶店で腹ごしらえをするのが日課で、その際、プラトンの顰(ひそみ)に倣(なら)い、彼に「徳(アレテ―)」を説いていたのは、言うまでも無い。彼もまた、その汚れなき、澄んだ瞳を輝かせ、熱心に私の話に、耳を傾けていた。夜、仕事が終わると、彼と一緒に隣の銭湯に行き、彼の美しい姿態を堪能するのが、私の秘かな愉しみであった。同時期に、事情は定かでは無いが、鳥取大学を休学して来ていた、私より、ひとつ年上の同僚が居て、彼もまた、沖縄の少年に気があったようで、私は彼にとって、ちょっとした恋敵だったようである。当時、休日の翌日の朝刊が休みである、休刊日が、盆と正月、年2回あり、お盆の休刊日に、私を恋敵と目(もく)していた彼と、沖縄の少年と私の3人で、彼に誘われ、奈良に、1泊2日の寺巡りの旅行に行ったことがあった。彼は、『古寺巡礼』や『風土』の著者である、和辻哲郎(1889年3月1日 – 1960年12月26日)に傾倒していたようで、熱心に「和辻哲学」を語っていた。格安料金で、客を男女に分けて大部屋に寝泊りさせる、古寺巡礼者向けの老舗旅館に泊まり、この時、見学した寺々の名は忘れたが、蚊に喰われ、大変であったことは覚えている。その際、私は宿帳にうっかり実家の住所を記載してしまい。宿屋から翌年の正月に、年賀状が実家に届き、これが発端となり、向島店に移って間もなく私は、父に探し当てられてしまうことになったが、この事に関しては、後で改めて述べることにする。
ドナテッロ『ダヴィデ像』 クラナッハ『ヴィーナス』
当時、渥美清(1928年3月10日-1996年8月4日)主演の「男はつらいよ」シリーズが、10作を超えて、なお人気を博していたが、「寅さん」のように、飄々とし、方々の新聞店を渡り歩いている、40代前半の、専従社員が居て、私と沖縄の少年と気が合い、よく、居酒屋に飲みに行っていた。彼には、5歳年上の姉がいて、湯河原で、芸者置屋をやっており、彼にとって、「寅さん」の「さくら」の様な存在であり、源氏名を「小春」といった。彼は、正月の休刊日に、私と沖縄の少年を、「小春」姉さんの家に、遊びに連れて行ってくれた。元旦の午後、3人で予告なく、お邪魔したにも拘らず、姉さんは、気持ちよく歓待してくれた。抱えていた7,8人の芸者さん達と、お得意さんである旅館への挨拶回りを済ませ、浴衣に着替え、くつろぎ、一同、酒盛りをしている最中であった。我々は、勧められて、風呂に入り、宴会の仲間入りをした。日頃、おじさん達の相手をしている、芸者達には、若い男が新鮮に映ったようで、皆、はしゃいでいたが、二十歳(はたち)間近で、まだ童貞であった沖縄の少年にとっては、酔って、裾をはだけ、色気をむんむんさせた芸者達は、刺激が強過ぎたと見え、間もなく酔っぱらってダウンしてしまった。彼を布団に寝かせた後も、酒盛りは深夜まで続き、まるで、ハレムにいるような心地がした。芸者達の幾人かは、そのまま、帰らず泊っていった為、その夜は、皆で、雑魚寝状態であった。往時の湯河原は、まだ活気があり、温泉街は、人々が闊歩していた。その頃、まさか40年後、湯河原で毎週末を過ごすことになるとは、夢にも思わなかったが、同時に、これ程まで、閑散とした温泉街になることも予想していなかった。なお、湯河原には、この前年にも1度、前章で紹介した「檸檬」に、彼女の愛車だった、ホンダS800の黄色いオープンカーで、伊豆半島のドライブに連れて行ってもらった際、立ち寄ったことがあった。また、その帰り道、真鶴から根府川に抜ける旧道沿いに、「シルク・ロード」というラブ・ホテルがあり、彼女と熱い夜を過ごしたことがあったが、昨年、一時、休業し、潰れたのかと思い、半年ほど経って見に行ったら、「フォレスト」の名で、また、ラブ・ホテルが開業されていた。私と沖縄の少年が行きつけの喫茶店は、インダストリアル・デザインの仕事をしている旦那の奥さんが、パート1人を雇って切り盛りしていた。土日も休まず、営業しており、福島の親戚の従妹で、証券会社の社長秘書をしている、見るからに清楚な女性が手伝いに来ていた。暫く経って知ったが、奥さんの旦那が、ある仏教の宗派の、在家信徒の教団の会員で、奥さんも、従妹も、加入しており、家族ぐるみ熱心に活動していた。奥さんの従妹が私に興味を持ち、旦那から教団への加入を、持ちかけられたりしたが、この話も、長くなりそうなので、次の章にまわすことにする。クリスマスイブの晩、喫茶店を貸し切り、店の学生達を招き、食事会を催したことがあった。皆、喜んでくれたが、私は、そのために「親父」に前借し、返済が大変であった。お金がなくなると、近所のパン屋でコッペパンを買って食べ、凌いでいた。パン屋の寮に居た、静岡出身の、売り子の女性に、時々、飲みに誘われたが、私は、沖縄の少年の手前、自重していた。或る夜、新聞屋の店先に彼女がやってきて、呼び出しを受け、沖縄の少年と一緒に会って見ると、寮で、痴情絡みの問題に巻き込まれ、帰れないので、今晩、泊めて欲しいとのことであった。私の所も、せまい寮なので無理だと言うと、鴬谷駅界隈にある、ラブ・ホテルに、一緒に泊りに行って欲しいと頼まれたが、沖縄の少年と相談し、私が「親父」から1万円前借し、彼女に、その金で静岡に帰る様に説得し、引き取ってもらった。このときも、沖縄の彼が、ブレーキの役割を果たしてくれたように思われる。日頃、彼の営業を助けたり、遊びに連れまわして、私は、彼の面倒を見ている気になっていたが、『ピノッキオ』に出て来て、ピノッキオの良心の役割を努める、ジミー・クリケットという名の、コオロギのように、逆に彼が、誘惑に満ちたこの時期に、私を護って呉れていたのかも知れない。私がよく行っていた居酒屋は「お多福」という名の店で、かつて、やくざの親分の、愛人だった女性が、ママさんだった。キップの良いママで、お金の持ち合わせの無いときも、付けで飲み食いさせてくれた。たまに、愛人をしていた、ヤクザの親分が顔を出していた。それらしい様子が全く見えなかったので、私が知らずに、気軽に話していると、店長格の「フランケンシュタイン」が、その正体を教えてくれた。私は、ヤクザの親分とも気が合い、たまに、マージャンに付き合った。レートが幾らか分からなかったが、私が負けると親分が払ってくれ、勝つと小遣い銭をくれた。親分は、マージャン仲間に、私を紹介し、こいつは、腹が据わっていて、賢いから、うちの幹部にしたいくらいだが、「お多福」のママとの約束があって、駄目なのだと言っていた。また、「覚醒剤が在る限りヤクザは無くならない、人類は核(核兵器)と薬(覚醒剤)で亡びる」というのが「親分」の持論であった。ある時、マージャンをしていて、隣の卓が煩かったので、「親分」が注意すると、隣の卓の、堅気では無さそうな男が、「親分」に絡んで来た。マージャン屋の支配人が私に目配せし、裏口から、立ち去るよう促すと、間もなく、ドタドタ若い衆が入ってきて、絡んでいた男をはじめ、隣の卓の者達を、バットの様な棒で、ぼこぼこにした。去り際に、後頭部を殴られた男の、右の眼球が飛び出すのを、私は目撃した。
店の「親父」にも、たまに誘われ、クラブ兼・喫茶店の様な店で、お茶を飲んだ。「親父」は下戸で、専ら、色事に入れ込んでおり、その方面の話ばかりしていた。仕事の出来そうな専従社員をたらしこむため、知り合いの、吉原で店をやっている同業者から仕入れた、ソープランドの割引券を渡していた。また、出入りしている拡張団の団長が、愛人にやらせている、いかがわしいスナックに、毎晩のように通っていた。後日、私はそのスナックが、未成年の女の子に売春を強要したかどで、警察の手入れを受け、団長と「親父」が警察に摑まり、団長も店主も、辞めさせられたことを知った。「親父」はその後、新聞店をやっている兄を頼って、大阪に行き、「フランケンシュタイン」も付いて行ったようであった。「親父」には、小太りで、働き者の奥さんと、大学生で、無愛想な息子と、帽子のデザインを勉強中で、専門学校に通っている娘がいたが、事件を知り、奥さんの事を思うと、気の毒になった。奥さんは、よく食材の買い出しに私を付き合わせ、靴下や下着、シャツなどを買ってくれた。また、日曜に、娘と映画でも見に行くようにと勧められ、何度か、娘と出かけたこともあった。無口な女の子で、私をどう思っていたのかは、いまだに、よく分からないが、沖縄の少年の存在の有無に拘わらず、私がまったく彼女に興味を持っていなかったのは、確かである。
〔12〕(2017.03.11) ~宗教人からの誘い~
青年期、意識の覚醒を経験して以来、今日に到るまで、私は無神論者であり、無宗教主義者である。しかし、誤解の無いように、いそいで付け加えると、反神論者でも、反宗教論者でもない。神や信仰の問題には、ブッダの「無記」に近い姿勢を、保持している。以下に、宗教に関する私見を述べるが、詳述すると、きりが無いので、骨子のみとさせていただく。古来人類は、自らの出自や自然現象、人間社会の解決困難な問題や、脈々と受け継がれて来た風習や掟を、神話に託して、子々孫々に言い伝え、受け継ぎ、生きる拠り所として来た。人類の意識進化と文明の発達に伴い、神話は徐々に宗教へと姿を変え、主役の座も、神々から人間に移行していく。ギリシャ神話におけるヘーラクレースや、聖書におけるイエス・キリストなど「神の子」の出現は、この間の事情を、象徴的に示すものと思われる。人民(とりわけ、下層階級の人民)の救済を志して興った宗教も、国家宗教となり、人民統治の手段と化し、やがて、宗教改革運動を惹起することになる。カソリックに対する、エラスムス(1466年10月27日 - 1536年7月12日)を始めとする、人文主義者の批判は、穏健なものであったが、ルター(1483年11月10日 – 1546年2月18日)による、免罪符販売に対するカソリック教会批判を機に、宗教改革は次第に先鋭化し、ドイツ・農民戦争、フランス・ユグノー戦争などの宗教戦争を招く事になる。人々の平和を旨とする宗教が争いの元になるというのも皮肉な結果であるが、現代のイスラム原理主義によるテロも、もとを糺せば、イスラム教内部の宗派の対立に、端を発している。両者に共通するのは、宗教的信条を原因とする対立であるというより、実態は、貧富の格差による階層間の争いである点である。では、宗教は「必要悪」であるかというと、モラルの維持に果たしている役割を思えば、ニーチェのように一概に否定すべきでは無く、善を悪から衛る橋頭保の役割を担ってきた功績を勘案し、今のところ「必要善」とでも称しておいた方がよさそうである。なお、モラルの起源に関しては、いまだ不明であるとされているが、オランダの心理学者、動物行動学者で、『チンパンジーの政治学』の著者、フランス・ドゥ・ヴァール(1948年10月29日 -)は、人間の道徳的な行動や、その基盤をなす「公正さ」の概念の起源が、ゾウやサル・類人猿などの行動にも見いだせると主張しており、道徳の起源を説明するのに宗教は必要ないと述べている。また、宗教の変遷は、人類の意識変化を映す鏡であり、西欧における、人間中心主義への移行は、宗教の変化にも端的に現れている。私は、人文主義者・ユマニスト、なかでも、その達成とも言うべき、『エセー』の著者、モンテーニュ(1533年2月28日 – 1592年9月13日)に見られる、寛容の精神は是(ぜ)とするが、啓蒙主義以降のヒューマニズム(人間中心主義)には、与(くみ)しない。なぜなら、不完全で未熟な「人間理性」なるものを信頼する気には、到底なれないからである。第一次・第二次世界大戦は、啓蒙主義の楽観論への決定的・反証である。次に、日本国内の宗教事情に目を移すと、我が国における宗教は、仏教を中心とし、とりわけ、法華思想を軸に展開されて来たといっても過言ではない。現在、日本には、約7万5000の寺院、30万体以上の仏像が存在する。世界最古の木造寺院・法隆寺があり、最古の仏典古文書の写しも日本に存在する。2013年の統計によると、日本では、約8,470万人が仏教徒であるとされる。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを仏教徒と強く意識していない人も多いが、ブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。また、日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属しており、浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占め、大乗仏教系が大半を占めていると言われている。なお、1940年の宗教団体法・公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。わが国で、仏教を国策として、正式に導入したのは、聖徳太子である。606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にあり、615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著している 。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国に縁(ゆかり)の深い経典として一般に認識されてきた。延暦寺は、延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。最澄は、延暦寺で、法華経を基盤とした戒律や、禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義、の確立を目指し、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは、最澄の意志を引き継ぎ、密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖・良忍、浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、日蓮宗の開祖・日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い頃、比叡山・延暦寺で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。延暦寺で重視されていた、法華経は、インドで、釈迦入滅後、紀元後間もなく成立したとされ、沙門のみならず、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを説き、本門(ほんもん)と呼ばれる後半部では、釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という久遠実成(くおんじつじょう)の主張が展開されている。仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではなく、一度(ひとたび)、法華経に縁を結んだ者は、流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いていくものとされ、その生の在り方そのものを指して、仏であると説いている。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そして、この世(娑婆世界)は、久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所であり、“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理想ではなく、確かな実証を伴った真実であると述べ、仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも、大功徳を得るとも説かれている。説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡り、末法愚人を導く法として、上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱(ふしょく)、観世音菩薩等の働きによる法華経信仰者への守護、ならびに莫大な現世利益、などを説くものである。この様な、法華経の考え方を基にした、新仏教諸宗の日本における隆盛が、鎮護国家のみならず、個人の様々な災厄からの守護と現世での安寧を保証する役割を担うものとして、人々に受容された結果、齎されたものであることは、想像に難くない。
前章で、私が行きつけの喫茶店の経営者夫婦と、手伝いに来ていた奥さんの従妹が、仏教の在家信徒の教団に属し、家族ぐるみ、熱心に活動していたことを、お話した。普段、喫茶店は奥さんが切り盛りしていたが、土日は、奥さんの従妹が手伝い、たまに、インダストリアル・デザインを仕事にしている旦那も、手伝いに来ていた。最初は、旦那が私に、宗教団体への加入を勧めていたが、そのうち、従妹に誘われ、地域の座談会などに、時々同行するようになった。従妹は、一途で、芯が強そうな美人で、ほんのり桃色を帯びた蓮の花の莟みのような風情であった。彼女は、教学試験を受け、教学の学習にも熱心であったが、教学を鵜呑みにしている訳では無く、疑問に思う点について、私に意見を求めてきたりした。また、男性の幹部会員に紹介されたこともあり、私は、その男性から教団の印象を聞かれ、宗門に関しては、他の宗門同様、教祖の考えに縛られ、伝統を守ろうとするあまり、時代の変化に取り残されつつあり、在家である教団は、むしろ、宗門との関係を断ち、法華経思想の現代社会における意義を追求し、日本という枠組みを超えた活動を、今後、展開した方が良いのではないかと答えた。彼女は、幹部と私のやり取りを、興味深そうに聞き入っていた。私には彼女が、私か幹部か、どちらかを、もしくは、その両方を、試しているようにも思われた。なお、この後、しばらくして、宗門と教団の関係が拗(こじ)れ、教団の方が宗門から破門されてしまったようである。彼女のアパートの前で、待ち合わせし、一緒に出かけるようにもなり、あるとき、待ち合わせ時間より早めに行って、外で待っていると、中に入って待つように言われた。ワン・ルームのアパートで、簡素なたたずまいの部屋であった。これから着替えるので、向こうを向いている様に言われ、言う通りにしたが、その方向に、丁度、姿見が置かれていて、彼女の下着姿が映り、私は、目の遣り場に困ったが、知ってか、知らずか、彼女は、平気な様子であった。ちらりと見ただけであったが、子供の頃から中学卒業まで、クラシック・バレーを習っていたと云う、彼女の身体つきは、贅肉が無く、引き締まっていた。彼女は、直接、入会を勧めるようなことは無かったが、宗教一般や、彼女が属している教団や宗門に関する、私の考えを聞きたがった。私は、彼女を傷つけないように、あまり批判的なことは言わず、キリスト教と比較した、仏教の人間認識、世界認識の優位性を話したりして、お茶を濁していた。彼女は、はにかみながら、奥さんの旦那から、私との付き合いの進捗状況について、ときどき、聞かれるとも言っていた。私自身も、めずらしく、彼女と、どう付き合ったらよいか迷っていた。また、その当時は、自分の考えに、今ほど確信が持てなかったこともあり、宗教や彼女の信仰に対する私の本心を彼女に表明する為には、彼女と本気で、付き合う覚悟が必要であると思っていた。当時は、プラトニックな恋愛のようにも感じていたが、今にして思うと、ただ、中途半端なだけだったような気がする。何れにせよ、彼女との出会いは私に、日本の仏教や、法華経について、また、宗教的な人々についても、認識を深めさせてくれることになった。ちょうどその頃、私が居た店を管轄する本社の担当社員が、販売店主として独立することを前提に、何人も若手店主を輩出している、都内の有力店への移動を持ちかけてきた。私が引継いだ区域の購読者を半年程で、50軒近く増やしていたため、注目していたようである。同時に、私の配達区域にあった、別の新聞社の系列店の店主からも、墨田区の向島に新しく店をもう1軒出すので、店長をやってくれないかという打診があった。以前、店同士が不仲で、慣例的に行われていた、相互の新聞の交換が行われていなかったため、私はその店に、新聞を購読してくれるよう、営業に行き、店長に門前払いを喰ったことがあったが、どうやら、店主がその時、奥で、そのやり取りの模様を聞いていて、目を付けていたようである。彼女との関係に頭を悩ませていた私は、色々考えた末、彼女の顔を立て、教団に形だけ入会し、店を移動することで、一旦、彼女と遠ざかることにした。私の傍らで、黙って見守っていた、沖縄の少年に、この決意を話すと、彼は、私が無宗教主義者であることを知りつつ、何も言わず、賛成してくれた。また、近々、向島に店長で行く予定であることを告げると、彼も私に付いて行くと言ってくれた。私は、「入会希望カード」を提出し、通常、入会に到るまで、3か月程の審査期間を要することになっていたが、幹部会員の推薦を得て、直ちに、入会を認められた。また、幹部会員達の計らいで、入会に当たっての所信表明(初信表明)を、地域の会館で行うことになった。彼女の嬉しそうな顔を見られたのは、何よりであったが、会館での所信表明を、彼女への「惜別の辞」と思い定めていた私は、一抹の寂しさを禁じ得なかった。所信表明、当日、4階建ての会館は、各階とも満席で、私は4階で話したが、他の階へは、映像とスピーカーの音声が流れる仕組みになっていた。私の前には、幹部会員達とともに、彼女の姿もあった。私の講話は、好評だったようで、涙ぐんで、聞いていた人が、結構いたようである。私は概(おおむ)ね、以下の様な内容の話をした。
「キリスト教は、人間中心主義の弊害を内包しているが、仏教は、生きとし生けるもの全てを含む、自然の一部として人間を捉えており、エコロジーの考えを先取りしている。また、釈迦の人間観は、最先端の脳科学の認識と略(ほぼ)一致し、密教の宇宙観は、現代科学の宇宙論と通じるもがある。会員各位は、境涯の向上を目指して、勤行、並びに会活動を行っているが、境涯とは、経済状態や社会的地位を意味するものではなく、意識のレベルを指すものであり、意識を広げ、意識の質を変えることで、境涯は向上し、それに伴い、世間における境遇も改善される。業とは狭い意識に捉われ、抜け出せないことであり、また、運とは縁のことで、幸運とは、良縁のことであり、良縁は、意識を変えることで、自然に巡ってくるものである。仏道修行は、沙門・在家を問わず、利他行であり、まさか、己の幸せのために勤行や会活動を行っている者はいないであろうが、自己と他己とは、本来分けるべきでは無く、意識を変え、自己に他己を取り込み、自己意識を広げるよう心掛けるべきである。最後に、会活動の為に、会員の人生があるのではなく、個々の会員が有意義な人生を全うする為に、会活動は存在するのであって、会員一人ひとりの成長なしに、会の発展はありえず、仮に表向き会員数が増えたとしても、烏合の衆の集まりであっては、何にもならないので、まずは、自らを鍛錬し、揺るがぬ信念を護持するよう努めるべきである。」
〔13〕(2017.03.12) ~「客家」の友~
「東日本大震災から6年となった11日、台北市内の日本台湾交流協会台北事務所で「追悼感恩会」が開かれ、日台の関係者約80人が犠牲者に黙祷(もくとう)をささげた。震災で台湾からは約200億円に上る義援金が寄付された。」との、ニュースを目にし、昨日で、震災から早くも6年が経過した事を実感した。同時に、私が家出した直後から、交友が続いていた、黄さんという台湾の友人が、突然亡くなったのも、6年前の4月14日であったことを思い起こした。台湾の新北市に住んでいる、77歳になる、(台湾は夫婦別姓であるため)遊さんという奥さんに、久しぶりに電話すると、元気だったので、安心した。明日は、15,6年来の付き合いで、新聞社の相談役を務めている、80歳を過ぎた知友と、拙宅で、囲碁を打つことになっている。この囲碁の付き合いも、かれこれ6,7年程続いている。この畏友と、6年前の5月半ばに、台湾に旅行し、亡くなった黄さんの、奥さんと息子さんに、3泊4日の滞在中、ずっと、面倒を見て貰ったことがあった。彼は、役員引退後、暫く、世界遺産巡りをしていたが、台湾には行ったことが無く、私に連れて行って欲しいと言ってきたので、震災前から、日程を立て、黄さんと連絡し、案内を頼んでいた。行く1か月前に、黄さんに日程確認の電話をすると、奥さんが出て、様子がおかしかったので聞くと、一昨日、夜、寝ている間に、黄さんが息を引き取ったとのことであった、私が、旅行をキャンセルすると云うと、奥さんは、いいからいらっしゃいと言ってきかないので、仏前に線香を上げる方々(かたがた)、行くことにした。黄さんは、私と会うのを楽しみにしていて、友人や息子たちと一緒に、私たちを接待する宴会の準備をしていたとのことであった。我々が松山空港に着くと、黄さんに代わって、息子が運転する車で、奥さんが、いつものように迎えに来ており、さっそく、黄さんの家に向かった。黄さんの住いは、閑静な山の中の、高級住宅地にあり、一帯は、塀で区切られ、門には守衛が常駐していた。家は、地下1階、地上3階で、次男夫婦と一緒に住んでいた。生前、黄さんに、土産は何が良いかと聞くと、日本の歴史小説がいいと答えたので、買っておいた何冊かの本を仏壇に供え、線香を上げると、黄さん宅を後にして、台北のホテルに寄って荷物を下ろし、市内を案内して貰い、その夜は、客家料理のレストランで御馳走になった。そのレストランは、客家人である黄さん夫婦が、よく利用していたのを覚えている。客家人は、華僑の、梅州周辺や陸豊、海豊、周辺出身者で、客家語を話す人々の呼称である。台湾では北中部の桃園県、新竹県、苗栗県などを中心に居住し、ホーロー人(福佬人)に次ぐ大きなエスニック・グループを構成している。そのため、公共の交通機関などでは、国語(北京語)、台湾語(福佬語)に次いで客家語の放送が行われることが普通である。また、台湾では世界で唯一の客家語専門テレビ局、客家電視台があり、ケーブルテレビ網を通してニュースや文化的な番組を始め、ドラマや娯楽番組などの放送を行っている。黄さんの奥さんによると、客家人の女性は、とても、愛情が深いそうで、40年程前、日本で、彼ら夫婦と知り合った頃、彼らに、親戚の客家人の女の子で、性格も頭も良い子がいるから結婚相手にどうかと紹介され、暫く、英語で、文通していたことがあったが、結婚には到らなかった。お互いに、写真の交換などもしていて、とても可愛らしい女の子で、多少、心残りであった。私の女性遍歴を知っている奥さんは、もし、あのとき私が、その女の子と結婚していたら、多分、私は殺されていて、この世には居ないだろうと言っていた。そういえば、黄さんは、夫婦で日本に来た時、すでに、パイプ・カットをさせられていたようであった。話を戻そう。翌日は、故宮博物院などの名所を案内して貰い、台湾料理を御馳走になり、次の日は、陽明山を観光し、皆で、北投温泉の宿泊先である、「加賀屋」で晩餐をした。あくる日の昼に帰国したが、4日間、次男は会社を休み、車を運転し、奥さんがずっと付き添ってくれた。私と奥さんは、空港で、墓参りでの再会を約して別れた。一昨年の4月14日、黄さんの命日に、約束を果たすため、私はカミさんと、台湾に、黄さんの墓参りに行った。前回同様、奥さんは、次男と一緒に、空港まで、迎えに来てくれた。黄さんの自宅の仏前に、「覚書」の私家本を供え、墓参りに向かった。見晴らしの良い、山の上の、宮殿の様な共同墓地に、慣習に則った、供え物一式を手向け、肩の荷を下ろした気分であった。また、黄さん夫婦と日本で過ごした、若かりし日々の記憶が、走馬灯の如く、甦った。家出して、始めて働いた新聞店で、黄さんに出会ったこと。黄さんが退店してからも、彼ら夫婦のマンションに通い、日本語を教え、仕事の面倒を見たこと。日曜日によく、私と沖縄の少年を、車で山にドライブに連れて行ってくれたこと。最初の妻との結婚式に、夫婦で出席してくれたこと。珍しく私が入れ込んでいた女性と、熱海の「ニュー・アカオ」ホテルで、泊り掛けのデートをした時、車で送り迎えしてくれたこと。黄さん夫婦が台湾に帰った後も、黄さんの息子達の結婚式の度に、行き帰りの航空券を送ってきて、招待してくれたこと。私が最初の妻と離婚した後も、彼らは、日本に観光に来る都度、別れた妻や子供達に会いに行き、その様子を、私に知らせてくれたこと。私の知り合いの店主が、仲間と旅行社を通さず、台北に行き、立ち往生し、私に助けを求めてきた際、無償で、面倒を見てくれたこと。等々(などなど)である。華僑は、一旦信頼したら、とことん信儀を貫く、といわれるが、正に彼らと私は、お互いに、陰に陽に支え合い、40年間、変わらぬ友誼を続けてきた。向島店に、店長で移って2年程たった頃、私は、信用金庫に、当座預金口座を開設し、墨田区の新規事業の貸し付け申請をして、黄さんの為に、「エバー・グリーン運送」という有限会社を設立し、新聞社の伝手で、トラック持ち込みの、新聞配送の仕事を請け負った。丁度その当時、九州出身の男の子が、彼女に振られ、彼女の父親の工場を辞めて、就職の相談に来たので、トラックをもう2台増やし、彼と、沖縄の少年にも新聞店から足を洗わせ、家具屋と瀬戸物屋の請負配送をさせた。運送会社は、黄さんに任せ、私は、トラブルが生じた場合だけ、手助けした。今だから言えるが、黄さんは、華人のネットワークから紹介された、日本人名義の免許証とパスポートを所持して使用している模様であったが、私は、気付かぬ振りをしていた。奥さんも、日本人名義のパスポートを使い、華人の友人と、日本の男性に、台湾の若い女性を紹介するビジネスをしていたようである。運送会社は、九州の少年と沖縄の少年がそれぞれ帰郷した、1980年頃まで続けた。景気が上向いていた時期であり、私が全くピンハネしていなかったので、二人とも、マンションに住み、自家用車を持ち、結構な収入を得ていたようである。当時はまだ、日本と台湾の経済格差があり、黄さん夫婦は、その何年後かに、帰国して、台北の不動産に投資し、成功して、左うちわで暮らした。帰国したタイミングもよかったようで、彼らは、私の御蔭であるといい、終生、感謝していた。彼らが帰国して、暫く後に、私が同業者の友人と台北を訪れ、例によって、黄さんの世話になり、同業者の友人が台北の秘密クラブでの宴席をリクエストし、黄さんが、客家の仲間である、秘密クラブのオーナーに頼み、宴席を開いてくれたことがあった。黄さんは、銀行の頭取やゴルフ場のオーナーである、華僑の友人達も招いていた。特別室の広いフロア―に置かれた大きな円卓を囲んで、席に着くと、料理が次々運ばれてきて、20人位ずつ、延べ百人以上の若い女性が、入れ替わり、たちかわり現れ、指名した女性が隣に座り、給仕してくれた。私は遠慮したが、宴会が終わった後、気に入った女性を、ホテルに連れて帰ってもよく、ロールス・ロイスでホテルまで送ってくれる手筈になっていた。黄さんは、我々に宴会代を払わせようとしなかったが、ひとり幾らか聞き、無理やり、受け取らせた。確か当時で、一人当たり、10万位だったような気がする。帰国してからも、黄さん夫婦は、度々、日本に観光に訪れ、必ず、私に会ってから帰った。黄さんの墓参りに、かれこれ一緒になって、30年位になる、2度目のカミさんを連れて行き、仲睦まじくしているのを見て、黄さんの奥さんは、大そう喜んでいたが、日本滞在時、私が、色々な女性と付き合っているのを見て、気を揉(も)んでいた黄さんにも、このところ私が、今のカミさんと、仲良く暮らしている様子を見て貰い、安心させてあげることが出来なかったのが、何よりも心残りである。
〔14〕(2017.03.15) ~INTERMISSION~
先週末から今週の初めにかけて、2つのTV番組を視聴し、どうしても一言、コメントして置きたくなったため、ここで一時、物語を中断させていただくことにした。2つのTV番組の1つは、1982年に公開された映画、『ガンジー』(Gandhi)である。その中で、ガンジー(1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、折に触れ、以下の様に語っている。
「私は失望したとき、歴史全体を通して、いつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ。」
しかし、本当にそうなのであろうか、歴史は、寧ろ逆の結果を証明しているのではないのか。また、ガンジーは、伝記作者ルイ・フィッシャーに次のように述べたという。
「ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差し出したのだ。彼らは崖から海に身投げすべきだった。そうすれば英雄的行為となっただろうに。」
この発言は、もはや、意味不明で、ガンジーの神経を疑わざるをえない。
もうひとつの番組は、NHK教育TVの、こころの時代~宗教、人生~「父を問う―いまと未来を知るために」というタイトルのものであり、作家、辺見庸(1944年9月27日 -)が、自身の著作『1★9★3★7(イクミナ)』をもとに、父親世代の戦争体験について語っている。彼は、地方紙の記者であった父親が、中国での戦争体験を連載した記事で、本当の事(中国の民衆に対し、残虐のかぎりを尽した事)を言わず、触れようとせず、避けており、このような態度は、戦争から生還した日本人男性に共通して見られると批判し、その子供達である世代は、事実を掘り起こし、忘れず、想像力を働かせ、自身の問題として考えなければならない、と述べている。また、このような事態は、同心円のように拡散し、歴史のなかで繰り返されており、アメリカの大統領に就任したドナルド・トランプ(1946年6月14日 -)が、アメリカ自身が発生させた、難民の受け入れを拒否しようとしている事を例に挙げている。彼は、普段は隠れていて表に出ない、人間の暗部に焦点を当て、注視することの重要性を指摘し、過去の過ちを、歴史の汚点として片付けず、例えば、中国人の虐殺の現場に自分が居たとしたら、どうしたか問い直して見ることが大切である、とも述べている。なお、この番組で、私が違和感を覚えたのは、彼は自身の著作をもとに講演も行っており、その際も、番組においても、彼が、野球帽を被り、黒い普段着のジャンパーを着用し、番組の幾つかのシーンでは、(彼の演出であると思われるが)、服を着せた愛犬のチワワを抱いた姿で、登場していることである。
私は、「覚書」〔44〕の『見えない戦争の傷跡』で、父の戦争体験が、戦後の父の人生と、我々、子供世代に何らかの影響を及ぼしているはずであると、指摘しておいた。また、若い頃、ナチスのホロコーストをテーマにした詩を詩誌に投稿し、話題になったことがあったが、『玩具箱』には、思うところがあって、敢えて載せなかった。私が思うに、父達は、黙して語らないが、それだけに、戦争による心の傷を抱いて、その後の人生を送っており、特攻で亡くなった「英霊」同様、戦争の犠牲者であるように、私には思われる。また、「ユダヤ人の謀殺」にしろ、「中国人の虐殺」にせよ、我が事、として想像するだけでは、己の良心の慰めにはなっても、殺された人々の死が浮かばれないことに、変わりはなく、なぜ、人類は、このような、過ちを犯すのか、集合意識としての人類の問題として、俎上に載せ、解明にむけ探求し、その結果を踏まえ、「人間の、人間による、人間のための倫理」を確立することこそが、肝要であると考える。私が、このような問題を思案する時、屡(しばしば)立ち返るのは、カミュ(1913年11月7日 - 1960年1月4日)と、サルトル(1905年6月21日 – 1980年4月15日)の論争である。カミュはその思想的な近さから、実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は、実存主義との関係をはっきり否定していた。『シーシュポスの神話』の中でも、キルケゴール、シェストフ、ヤスパースら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら、最終的に不条理を止揚(アウフヘーベンaufheben)し、理性の放棄へと向かってしまい、「哲学上の自殺」のようなものであると批判している。カミュの「不条理」は、この世界に生きる人間の在り様そのものを表している。人間と世界の存在そのものが、突きつめて考えると、無意味で、不可解であるという自覚である。カミュは、神の存在を否定する訳ではないが、この問題に、神を拘わらせることを避け、あくまでも、人間的次元で、立ち向かおうとする。また、人生が不可解であると云う理由で、華厳の滝に飛び込んだ、藤村操(1886年7月20日- 1903年5月22日)のように、悩んだ末の自殺も、問題の解決から逃避するものとして受け入れない。「反抗的人間」においてカミュは、自己の価値観、信条を拠り所とし、同じような状況に置かれている他者と連帯して、不条理に抗う道を、模索している。カミュは、問題の本質は、人間をこの世界にどう位置づけるか、であることに、気付きかけていた様に思われ、「不条理」を、新たな価値観・倫理観を創造する為の、出発点であると考え、探求の途に就こうとしていたが、残念ながら、不慮の死によって、実現する事なく終わった。カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。その際、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。カミュは同時代に対する、妥協のない証言者であった。また『反抗的人間』では、かなりのページを割いて、革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは、「無垢への郷愁」をともなう反抗から起こった、あらゆる革命が、必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。しかし、革命に必要な政治的暴力を批判する、カミュのこのような態度は、(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった。論争の直接のきっかけは、フランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に、『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルは、カミュの思想を曖昧な態度と見做し、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力を振るっている」として、徹底的に批判している。この論争では、カミュの文章が文学的で、曖昧さを持っていたこともあり、論理の明晰さにおいて、サルトルの方が優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた、革命や党派性の限界を示すものとして、その意義を失っていないばかりか、左翼革命の幻想が潰えた今日、改めて、その価値が見直されている。カミュは、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。受賞後、カミュは、プロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、頻繁に、パリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する車でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァンで、タイヤがパンクし、立ち木に衝突して、事故死した、46歳であった(カミュは即死、ガリマールも手術中に死亡)。イタリアの学者、ジョヴァンニ・カテッリは、2011年、『コリエーレ・デラ・セラ』で自説を展開し、カミュは、KGBによって暗殺されたとしている。これは、カミュが『Franc-Tireurs』紙に、(1957年3月)発表した記事で、ハンガリー動乱(1956年)の制圧に関し、ソ連外相ドミトリー・シェピーロフを非難したことから、シュピーロフがKGBに指令を出したというものである。死後、未完の自伝的小説『最初の人間』が遺稿として残された。カミュの没後、半世紀以上が経過した現在、カミュが生きていたら書いたと思われるような作品は、残念ながら、未だに出現していない。なお、参考までに、『玩具箱・抄』には敢えて載せなかった詩を、章末に添えておく。
『内なるヒトラー』
二次大戦中のことである、ドイツ軍兵舎の一室の寝台の上に、手足を釘付けにされ、猿轡を噛まされて、裸のユダヤ女が横たわっている。
扉の前には、ドイツ兵が二,三十人列を作っている。
彼等は順次、ユダヤ女を犯していく。部屋には監視がいて、それを視ている。
以上は一時、私が取り付かれていた妄想のアウトラインである。
これに、その時の気分によって異なる、数種のヴァリエーションと若干の肉付けが施される。
ユダヤ女は人妻であったり、であったりする。
人妻の場合、時折、夫がそこに連れてこられることもある。
ドイツ兵には大概、善玉がひとり交じる。
彼は犯す振りをして、女の耳許で囁く。
「私たちを許してくれ、皆この気違いじみた戦争のせいなのだ」と。
それを聞いて女は、目に涙を浮かべることもある。
だが大抵は首を横に振り、冷たい眼差しで彼を睨むだけである。
十中八九、善玉のドイツ兵は監視に見つかり処刑される。
ところで、妄想の作者である私は、常にまた登場人物でもあった。
私はユダヤ女を除く総ての人物に扮したが、最も多かったのは善玉のドイツ兵である。
なぜなら悪玉を演じた後に、善玉のドイツ兵にもなったからである。
この妄想から解放されて間もなく、私は或る書物によって、この様な行為が当時、実際に行われていたこと、そして同様のことが、日本兵によっても為されていたことを知った。
これらの事実は奇妙にも、別に私を驚かせなかった。
ただ、驚かせなかったというそのことに、私は慄然としたのであった。
〔15〕(2017.03.17) ~女傑への挽歌~
アルベルト・アインシュタインは「ドストエフスキーは、どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも多くのものを与えてくれる」と語っており、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている。手塚治虫は、「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言しており、村上春樹は、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』と共に、最も好きな作品のひとつとして、『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。私も青春時代、ドストエフスキー(1821年11月11日 – 1881年2月9日)の作品を愛読し、1866年に出版された『罪と罰』は、3度読んだ記憶がある。『罪と罰』は、頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが、「一つの些細な罪悪は百の善行により償われる」「選ばれた非凡な人間は世の中のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、奪った金で善行を施(ほどこ)そうと企て、金貸しの強欲狡猾な老婆の殺害を諮るが、現場に偶然居合わせた、その妹まで殺害してしまい、罪の意識に苛まれ、苦悩した末、どん底の生活を送る娼婦ソーニャの、家族のために尽す自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する、という、主人公の人間性回復を描いた小説である。賭博依存症であったドストエフスキーは、借金返済のため、出版社と無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送り、あまりのスケジュールの過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形を採ったと言われる。速記係であった、アンナ・スニートキナは、ドストエフスキーの2番目の妻となった。私が『罪と罰』の読後に抱いた疑問は、主人公、ラスコーリニコフを苦しめた罪の意識の、その起源は何処にあるのか、という事と、罪の意識を感じない人間はどうなるのか、ということであり、これらの疑問は、未だに、解けずに残っている。
さて、私が『罪と罰』に、触れたのは、この物語に登場する、殺された高利貸の老婆、アリョーナを彷彿とさせる、ユニークな老婦に、店長で入店した、向島の新聞販売店で、出会ったからである。老婦は、名をトミといい、店主の母親で、店番かたがた、賄いをしていた。コンビニなど無い当時、朝が早く、住み込みの従業員を抱える、新聞店では、朝の賄いは、不可欠であった。店主は、30代後半で、母親のトミさんは、60過ぎであった。トミさんは、新橋の玉突き屋の看板娘で、遊びに来ていた、横浜の老舗百貨店の御曹司に見染められ、結婚して、男の子を二人もうけたが、御曹司が戦死したため、手切れ金を貰い、子供を連れて出て、女手一つで新聞店を始め、その傍ら、金貸をした。息子である店主も、副業で金貸をし、仲間の同業者に貸し付け、弟に、回収させていた。トミさんは、男勝りの、チャキチャキの江戸っ子で、口が悪く、煙草を吸い、酒も飲み、賭け事が大好きであった。私はよく、トミさんと、少しでも暇があると、花札でコイコイをしたり、たまに、仕事を終えた夜、店主やトミさん達のマージャンに付き合ったりした。トミさんは、コイコイのとき、スカートをまくり上げ、立て膝をついていたため、私は目のやり場に苦労した。従業員達は、煙たがり、近寄らなかったが、私は、懇意にしていた。トミさんは、よく、いい年をした男がこれだけいても、女房がいないから、こんな年寄りが、賄いをさせられていると、文句を言っていた。トミさんは痩せて、体力が弱っているように見え、早く柏の自宅に帰りたいと、何時もこぼしていた。そんな、トミさんに、同情したからという訳ではないが、後日、私が、向島の、検番の近くで、友人と美容院をやっていた女性と付き合っていて、結婚することが決まり、賄いを交代できたときは、大そう喜んでいた。その後、トミさんは、柏の自宅に戻り、1年経たずに、病死した。後で、分かったのだが、向島の店で賄いをしていた頃、すでに、癌を患っていたようであったが、当時、そのような素振りは、少しも見せなかった。私は、トミさんの葬儀のあと、2ヶ月後に、向島店を退職した。トミさんは、折に触れ、私に、世渡りの智慧を伝授してくれ、私には、祖母のような存在であった。前の新聞店に勤めていた私を、スカウトした、トミさんの息子である店主は、中学卒であったが、商売人としては、天性の才覚を備えていた。キレイ好きで、毎日、北上野の店から、隅田川を越えた向島まで、自転車で通い、よく、店先の掃除をしていた。店内は、いつも、きちんと片付き、店の2階の自分の住いにも、余計なものは、何一つ置かなかった。競馬が好きで、毎週、必ず馬券を買い、自身、地方競馬の馬主でもあったが、入れ込んで、商売に、差し障ることは無かった。女好きでもあり、頻繁に、スナックやクラブを梯子して、玄人の女性を口説いていたが、仕事の活力にしているようであった。新聞社にも、巧みに、取り入り、人脈を持っていた。私も、しばしば、付き合ったが、金払いは、綺麗で、楽しい酒であった。彼は、酔うと、私が、俳優の石濱朗(1935年1月29日 -)に似ているというのが、口癖であった。私は、今も、昔も、芸能界には疎く、石濱朗が何者か分らず、ピンとこなかった。彼は、仕事と商売には、シビアーで、余分な人員を置かず、営業も、従業員で賄っていたため、店長の私の仕事が終わるのは、毎晩、10時過ぎになり、向島店時代、私の平均睡眠時間は、5,6時間しかなく、若かったこともあり、まる3年間、馬車馬のごとく働いた。彼は、世話好きで、人情家で、勧善懲悪の時代劇が大好きで、憎めない人柄で、母親であるトミさんへの義理立てもあったため、私は、続けられたのかも知れない。ただ、部下の人間を見る目が無く、間に立って、私は、随分苦労させられた。ある時期、優男風(やさおとこふう)の20代半ばの青年を信用し、ワゴン車を買って、娘の通学の送り迎えをさせ、自由に車を使わせていたことがあり、その男が、車で、夜な夜な、若い女性を夜道で襲い、強姦していて、警察に捕まったことがあり、これには、さすがに店主も青くなった。また、信頼した店員に裏切られ、金銭的損失を被ったことも、しばしばであった。向島店に入店して、1ヶ月ほど経った、2月の末のある日、私が夕刊の配達を終え、店に戻ると、店主が、訪ねてきた私の父と会って話していた。父は、すぐにでも、私を家に連れ戻したいようであったが、仕事を直ぐ抜けられない事情を説明し、以後、無断で行方(ゆくえ)を晦まさず、連絡先を明らかにし、毎日曜日、実家に顔を出すことを条件に、取敢えず、仕事の目処がつくまで、居させて貰えることになった。父は、例の、奈良の旅館からの年賀状を頼りに、私の行き先を辿り、探し当てたようである。これも、後で母に聞いて知ったことであるが、父は、私が家出したショックで体調を崩し、しばらく、入院していたようである。最初の日曜日に、実家に帰ると、私がめっきり痩せていたのを心配し、私の好物を用意して待っていてくれた。私は、子供の頃から、兄弟3人のうち、他の2人と違い、両親に気に入られておらず、むしろ、疎んじられていると思っていたので、急に、優しくされ、少々面喰ってしまった。漸く親も、私の思いを理解し、自由にさせる気になってくれたかとも思ったが、これは、思い過ごしであることが、じきに判明した。向島で、美容院をやっていた女性と知り合い、結婚の許可を貰いに行くと、大学を出るまで駄目だと、認めて貰えなかった。若かった私は、再び親と断絶し、結婚を強行した。彼女の家族や縁者の手前、結婚式では、新聞社のはからいで、私の家族は、父が重病で入院中のため、出席出来ないことにして貰った。仲人は、店主が販売局の部長に頼んでなって貰ったが、私は、この部長の後押しで、後に、豊島区の椎名町で、始めて店を持つことになる。結婚式には、台湾から日本に来ていた黄さん夫婦、沖縄の少年、私が予備校時代面倒を見て、今は、母校の教授になっている、早稲田の大学院生だった親友、変わったところでは、その頃、新聞が縁で付き合っていた、ゲイの友人、デパートのマネキンをやっており、結婚式でシャンソンを歌ってくれた、そのパートナー、それに、私の縁故者が少ないのを補う為、サクラに成ってくれた販売局社員達、などが出席し、乃木会館で無事行うことが出来た。トミさんは、私の妻との賄いの引継が済むと、別れに際し、向島の料亭で、一席設け、私に、遺言だと言って以下のことを言い残していった。「息子である店主が、2店目を軌道に乗せることが出来たのは、あなたの御蔭であると感謝している。あなたは、人の気持ちを察し、人のために尽くす性質(たち)であるが、これからは、家族を大事にするように。また、人を怨まず、人を妬まずに、生きるのはよいが、自分の将来を考え、もう少し、慾を持つように心掛けた方が良い。」
〔16〕(2017.03.18) ~one of my better halves~
正直に告白すると、私は2度結婚しており、3人の子供がいる。子供は、1度目の妻との間に、男女2人の子供が出来、他に、最初の結婚後、一時付き合った女性が、どうしても私の子供が欲しいと言って、生まれ、認知した男の子が1人おり、2度目の結婚相手である現在の妻との間には、子供はいない。これから、最初の妻との馴れ初めを、簡単に御話しする積りであるが、上述の経緯を踏まえ、この章のタイトルを、「one of my better halves」と、させていただいた。向島店に移り、1年程経った頃、黄さんと、福岡出身の青年のために、運送会社を立ち上げたが、その際、私について来た、沖縄の少年も、青年に成りつつあったことから、彼の生活を安定させる為、新聞店から運送屋に転職させた。プラトニック・ラブの「少年愛」の相手がいなくなったからという訳ではないが、アパートで、新聞を購読して貰っていて、集金の折、お茶や夕食を御馳走になり、親しくなった、最初の妻と、付き合うようになった。彼女は、友達と共同で、検番の近くの美容院を営み、主に、芸者や置屋の女将、料亭の仲居さん達を相手にしていた。そのせいか、私より2歳年上であったが、世慣れていて、世話好きであった。また、宮城県仙台市出身で、小さい頃、両親を失い、子供の無い親戚の大工の棟梁に引き取られ、養女で育ったため、苦労人で、庶民感覚が染みついていた。彼女は、「市井の女」を絵に描いたようで、その方面に疎い私には、新鮮であった。以前、世話になった、「お多福」に連れていき、ママに紹介すると、ママも、結婚に賛同してくれた。トミさんも、様子見かたがたパーマをかけに行き、テキパキして、しっかりした子だと褒めてくれた。彼女と一緒に、お盆の休刊日に、仙台の両親に挨拶に行き、大工の棟梁と聞いていたので、さぞかし、気性の荒い父親かと思っていたら、酒も飲まず、煙草も吸わず、賭け事もせず、まじめで、実直な人物であったので、拍子抜けした。また、板橋で大型トラックの運転手をしていた、彼女の兄にも会いに行ったが、こちらも、家庭的で、柔和な、妹思いの兄であった。ただ、前章で述べたように、私の実家に彼女を連れて行き、結婚を承諾して貰いに行ったが、彼女がどうこうということではなく、大学を出るまで、結婚は許可しないと言われた。世話好きの店主は、母親のトミさんに責付(せつ)かれていたこともあり、彼女の両親と私の実家に、挨拶に行ってくれたが、依然として、私の親の承諾は、得られなかった。若さからか、私は、両親と断絶し、結婚を強行することにした。結婚後、彼女は、美容師を辞め、トミさんから賄いを引継ぎ、店の手伝いをしてくれた。店には、他の従業員も同居しており、私の店長としての仕事も、相変わらず多忙を極め、トミさんの、家庭を大事にするようにという、「遺言」を守らず、およそ、新婚家庭らしからぬ生活に明け暮れていた。辛抱強く、愛想のいい彼女は、健気(けなげ)に仕事をこなし、近所の評判もよかった。第一子の出産を間近に控えていた頃、従業員が、注意を聞こうとせず、部屋に鍵を閉めて出てこないので、ドアのガラスを拳でぶち破った拍子に、手首の血管と神経を切断し、私は、救急車で病院に運ばれ、手術のため、入院するはめになってしまった。そのせいもあり、彼女は、出産のため、実家に帰った。私は手術を終え、早めに、1ヶ月ほどで退院し、職場復帰した。まだ、片腕しか使えず、「手ん棒」の苦労が、身に沁みてわかった。間もなく子供も生まれ、時を同じくして、トミさんが亡くなり、私は、今後の身の振り方を、懇意にしていた仲人の、本社の販売部長に相談した。部長は、実家に帰るとか、何か理由を付け、店を辞めてくれば、後は何とかしてやるとの返事で、しばらく、単身で、本社の直営店の管理の仕事に就き、その後、店をやれるよう手配してくれるとも言われた。私は、妻の実家に、店をやれる目途がつくまで、しばらく、妻子を、預かってくれるように頼んだ。また、その頃、隣のスナックで働いていた、顔見知りの長崎出身の女の子が、私の入院中、よく見舞に訪れ、退院後、彼女のマンションで頻繁に会う様になっていた。私の子供を欲しいと言い、生んだのは彼女である。当時、私はまさに、壇一雄(1912年2月3日 – 1976年1月2日)の、『火宅の人』になりつつあった。私は店主に、1ヶ月後に退店する旨を伝え、家財道具を黄さんに預って貰い、鴬谷に、ワンルーム・マンションを借り、本社から連絡があるまで、長崎出身の彼女と暮らすことにした。彼女は、水商売の夜の仕事をすぐに見つけ、毎晩、働きに出かけ、店が終わる頃、私は、自転車で迎えに行った。何れにせよ、私は、3年に及ぶ、向島での生活に別れを告げ、先行き不透明な、新たな人生の局面と対峙していた。向島に居た頃、仕事の合間に、永井荷風(1879年12月3日 – 1959年4月30日)の、『濹東綺譚』の舞台となった、「玉の井」界隈や、吉行淳之介(1924年4月13日 – 1994年7月26日)の、『原色の街』に描かれた「鳩の街」を、度々訪れたことがあった。当時はまだ、戦災で焼け残った墨田3丁目付近に、昔の面影を残す、銘酒屋造の家屋や色タイルを貼った建物がちらほら散見され、鳩の街商店街の裏の路地には、カフェ風の娼家の名残が見られた。半年後に、私は椎名町駅近くの販売店を引継ぎ、それから5年後に港区の三田に移動して店主を続けることになるが、向島時代から足掛け7年、最初の妻と結婚生活を共にし、2年目には、下の女の子も生まれた。椎名町に店を持ってから、しばらく後、駅前に懇意にしていた本屋があったこともあり、私の若い頃の習慣がぶり返し、再び、本の世界に没頭する日々が始まった。妻はきっと、そんな私に愛想をつかし始めていたに相違ない。
〔17〕(2017.03.20) ~a jewel in a dunghill~
私の好きな、マリリン・モンローの写真を、以下に2つ並べて見た。
マリリン・モンロー(1926年6月1日 - 1962年8月5)は、所謂(いわゆる)、セックス・シンボルとして有名である。モンローは、20代半ばを過ぎた、1954年1月14日、かつて、ニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だった、ジョー・ディマジオと何度目かの結婚をしたが、結婚生活は9か月しか続かず、1955年に離婚した。しかし、ディマジオは離婚後もモンローを一途に愛し、変わらぬ友情で彼女を支え続けた。モンローの晩年、2人は多くの時間を共に過ごし、亡くなる数日前には、再婚の約束をしていたという。また、モンローの葬儀では、ディマジオが、彼女の遺体を前に「愛している」と声をかけ続け、涙を流していたと伝えられている。ディマジオは、死ぬまでモンローに関するコメントを控え、「ある女性誌が、貴方が話してくれたら5万ドル払うと言っているが」と尋ねられた時も、「世の中には金に代えられないものがある、それは愛の思い出だ」と即座に断りの返答をしている。ディマジオは、モンローの死後20年にわたり週3回、彼女の墓に赤いバラ(アメリカン・ビューティー)を送り続けた。なお、有名な、ジョン・F・ケネディとモンローとの関係について言うと、ケネディが、サム・ジアンカーナ等、マフィアと繋がりの深い、フランク・シナトラを介し、モンローと知り合い、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことを利用し、マフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権との、取引に使おうとしていることを憂慮した、FBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバート・ケネディに忠告したことで、2人の交際は終焉を迎えた。しかし、モンローは、交際が終焉を迎えた直後の1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われた、ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティに、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデートゥーユー」を歌い、感極まったケネディ―は、「いつ引退することになっても悔いはない」とまで言ったという。私が、上述の逸話をここで紹介したのは、モンローが、肉体的なセックス・アピールだけで、男心を魅惑していた訳では無いことを、力説したいからである。おそらく、容姿だけで見れば、モンローよりセクシーな女優は、枚挙にいとまがないほど、存在していたはずである。では、モンローの魅力は、どこからくるのか、それは内面からである、というよりむしろ、外見と内面との、絶妙なバランスからである、と言った方がいいかも知れない。モンローの幼少期は、孤児院や、里親をたらい回しにされ、性的虐待やネグレクトを受け、そのせいで、吃音症を患うなど、悲惨な情況であった。このような生い立ちにも拘わらず、モンローは、天性の優しさ、無邪気さ、律義さ、を失わず、健気(けなげ)にも前向きに生きようと努力し続けた。ある意味、肉体は惜しげもなく売ったが、魂は、決して売らなかった。その気品は、顔立ちにも、容姿にも現れ、セクシーな肉体との好対照となっている。ディマジオもケネディも、親しく付き合い、彼女の不思議な魅力に心を奪われたものと思われる。
さて、前置きは、これ位にして、珍しく、私が心を奪われた女性との、出会いと別れについて、お話しするとしよう。実を言えば、彼女のことは、ディマジオ同様、私も、死ぬまで、言わずにおこうと思っていたのであるが、悩んだ末、思い切って、告白することにした。もっとも、私が彼女とのことを話したくなかったのは、ディマジオのように、秘めたる純愛からではなく、別の理由によるものである。当時、私には妻子があり、彼女に求められてのこととはいえ、彼女との間に、子供までもうけており、イスラム教国ではない日本では、明らかに、これは、不倫であり、私の人生における、汚点であると言ってよく、加えて、これまで私は、性的快楽を、精神的快楽に比べ、劣るものと見做していたため、私の信条に悖(もと)ることにもなるからである。これ等について、熟慮を重ねた末、次の様な結論に達し、敢えて、公表することを決断した。先ず、私が性的快楽について、単なる肉体的快楽に過ぎないと、誤解していたことが判明したことである。また、男女が、合歓綢繆(ごうかん‐ちゅうびゅう)の仲となるためには、お互いに、生理的にも、精神的にも、相性がよくなければならないが、その上、タイミングや年齢的な条件も、満たしている必要があり、私にとって幸いであり、合縁奇縁であったのは、彼女が、モンロー同様、内面的にも優れた女性だったため、たまたま、これら全ての条件を満たしていたことであった。私は、今更ながら、彼女の類稀(たぐいまれ)な資質を再認識し、感嘆の思いを新たにしている。彼女との出会いが無かったら、私の「精神界の探求」もある意味、不完全なものになっていたに違いない。彼女は、私にとって、「地上に降りた(最後の)天使」であり、「ミイラ取りがミイラになる」リスクを冒し、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と思い切り、彼女と裸で向き合うことがなかったら、貴重な経験と智見を得ることも出来なかったものと思われる。この章のタイトルを「a jewel in a dunghill」とした所以(ゆえん)である。向島店で、右手首の怪我で、入院し、退院した後、以前から、隣のスナックに勤めていて、顔見知りであった彼女と、妻が出産で仙台の実家に帰っていたこともあり、親しく付き合うようになり、毎日、彼女のアパートで逢うまでになった。彼女は、その頃、二十歳を過ぎたばかりであったが、今まで、どの様に生きてきたのか、なぜ、長崎出身の彼女が、向島にいるのか、私は、知らなかったし、詳しく、訊こうともしなかった。ただ、モンローに似て、幼少時、両親と生き別れ、親戚の家を、転々としていたことは、聞いた覚えがある。また、私の方も、自分のことは、あまり話さなかった気がする。その頃の私は、謂わば、人生の岐路に立っており、親と断絶し、結婚し、子供が出来、良き理解者であった店主の母親である、トミさんが亡くなり、おまけに、手術をした右手も、どこまで回復するか分らず、これからの人生を、模索している最中であった。考えて見ると、彼女にとっては、私と付き合っても何のメリットも無かったはずである。経済的にも余裕は無く、彼女の働いているスナックに、飲みに行くことも無かった。付き合っているうちに彼女の性格の良さに触れ、ますます私は、彼女が愛おしくなった。彼女もまた、私の何処が気に入ったのか分らないが、私に気を許し、付き合ってくれた。向島店を辞め、本社の直営店の管理人を務めるため、妻子を仙台の実家に預かってもらい、黄さんの家の近くの、ワンルーム・マンションを借りると、黙って彼女も付いてきて、鴬谷にある飲み屋の仕事を見つけ、毎晩、働きに行くようになった。私の方は、本社から連絡が有り、次の勤め先が決まるまで、半月ほど暇で、ぶらぶらしていた。熱海のホテル、「ニュー・アカオ」に、黄さんに車で送り迎えして貰い、彼女と泊りがけのデートをしたのも、この時期である。昼間は、2人とも暇であったため、一緒にゴロゴロし、寝て起きては愛し合っていた。その当時は、2人とも若かったせいか、暇さえあれば、飽きもせず、愛し合っていたような気がする。私は、彼女の瑞々しく、しなやかな、心と身体(からだ)に魅了され、不思議な生き物の様な、膣(vagina)に痺れ、填(はま)っていた。彼女は、いつも、パンティ―が見えそうなミニのタイトスカートをはき、モンローを彷彿とさせる、豊かな胸がはみ出しそうな、胸元が開(あ)いた上着を着ていて、彼女と一緒に街を歩くと、男たちの視線が、彼女に向けられているのがわかった。彼女は、仕事先の飲み屋で、気に入った客と知り合うと、気軽にデートし、その模様を、私に報告したりもしていたが、何故か別段、私は嫉妬を覚えなかった。ディマジオと違い、多少負い目もあった私は、彼女の性的おおらかさを許容し、自由にさせていた。その頃、沖縄の青年が、1ヶ月後、運送屋を辞め、故郷(くに)に帰ることにしたと言ってきたので、私は彼女に、帰る前に、未だに童貞である彼と、出来れば、付き合ってやってくれるように頼んだ。彼が帰った後、彼女は私に、彼が、発つ前に何度か付き合い、とても喜んでいた様子であったことを教えてくれた。半月後、私は高田馬場の店を管理することになり、店に泊まり込むことが多くなった。彼女は、午前中、店に来て、暇を見ては、私と愛し合い、午後遅く、直接仕事場に行った。半年後、本社の販売部長の計らいで、豊島区の椎名町駅近くの販売店の店主を務めることになり、店の2階が、店主の住いになっていた為、仙台から妻子を呼び寄せ、黄さんに、大分お腹が大きくなった、彼女の世話を頼んでおいた。引継直後は忙しく、さすがに、彼女に逢いに行く暇はなかったが、彼女は、いつの間にか、椎名町に、アパートを見つけ、引っ越して来た。私は、毎日のように、様子を見に行き、彼女の出産の際も立ち会った。しばらくすると、彼女は、子供を、託児所に預け、また、水商売の仕事を始め、飲み屋で知り合い、親しくなった、沖縄出身の青年から結婚を申し込まれ、私が認知した子を、結婚相手の籍に入れる許可を得るため、律義にも、私の許(もと)に、子供を抱え、2人揃って挨拶に訪れた。すでに、子供も結婚相手に懐いており、私は心中、複雑ではあったが了承した。それから18年後、その時の結婚相手と、何人かの子供をもうけたあと離婚し、私との子供だけを連れ、東京に戻って来ていた、彼女と成長した息子に、私は奇蹟的ともいうべき再会を果たした。
〔18〕(2017.03.23) ~my best girl~
新聞販売店主は経営者では無い。任免権を持つ新聞社と、店主は、変則的フランチャイズ契約を交わしており、実態は、フランチャイズ直営店の店長のようなものであると言える。通常のフランチャイズ直営店と大きく異なるのは、店長の給料が、謂わば、歩合制になっており、取り扱う、商品の原価が一応きまってはいるものの、店ごとに、補助金の額が違う為、実質的原価も違っていることである。店主志望者は、契約時、前任者、もしくは、直接管理している新聞社に、その時点での、新聞売上に相当する、代償金と、備品等を譲り受ける場合は、その譲渡金を支払うことになっている。新聞社から見て、販売店は、自社の新聞を主に扱う専売店と、他社の専売店であるが、自社の新聞の販売を委託している複合店にわかれる。新聞社は専売店・店主、複合店・店主、両方とフランチャイズ契約を結んでいるが、当然ながら、複合店に対しては、新聞社の威光は、専売店程、及ばない。また、販売店を監督する、担当社員の裁量と意向に左右される面が、多分にあり、公明性が希薄で、店主、社員、双方のモラルの低下を招く結果となっている。新聞販売店経営自体は、再販制度により、専売店間の価格競争も無く、エリアの競合も無く、仕入れの才覚も必要とされず、それほど難しいものでは無く、経営手腕といえるのは、専ら、労務管理の能力だけと言ってよいものである。経費逆算方式により、店主の生活は、ある程度、保証されており、羽目を外さず、真面目にやっていれば、大過なく、やっていける為、自助努力や危機意識に欠ける店主も多い。私が店主になった、1980年頃は、新聞売上が、右肩上がりの時期で、新聞離れが進んでいる現在とは、比較にならないほど長閑(のどか)であった。私が取り扱っていた新聞は、東京を中心に発行していたブロック紙で、1965年に、中部地区の大手ブロック紙に買収され、15年程経っていた。取引先の親会社は、伝統的に販売部門が経営の主導権を握っており、販売店を重視し、面倒見も良かった。今も、OB会のゴルフで毎月顔を合わせている、私の店を担当した社員は、温厚で、真面目な人柄で、私は、幸先がよいスタートであったと言える。振り返って、店主になるまでの、5年間も、仕事面ではハードで、過酷な日々ではあったが、実感としては、様々な人々との新鮮な出会いが有り、充実した年月で、あっという間に過ぎて行った気がする。店主を務めるに当たり、何よりも留意していたのは、従業員時代、劣悪な労働環境で、苦労した為、自店の従業員には、同じ思いをさせないよう、適正な労働時間で、働きやすい環境の店にしようということであった。成績の良い新人店主を表彰したりしていた、本社には申し訳ないが、売上を増やそうとか、利益を上げようとは、ほとんど、考えていなかった。にも拘らず、5年後、三田店に移った時、椎名町店の部数は、幸にして、100部、引継ぎ部数より増えていた。採算のとれる範囲で、従業員の住環境を改善し、省力化する為、折込機を導入し、経理ソフトの会社とタイアップして、顧客情報管理のプログラムを創り、パソコンも活用した。当時は、学生を主体とした、若手従業員での店員構成であったことから、店員たちにもパソコンの操作を覚えさせた。新聞店でパソコンを使ったのは、私の店が、先駈けであったが、その頃のパソコンは、キーボードに変換機能が無く、キーボードは、今の3倍の大きさがあり、8ビットしかなかったため、漢字も使えず、カタカナ表記であった。毎日、作業日誌を付け、一緒に現場で仕事し、1年半後には、スタッフも落ち着き、売上も漸増しつつあった。この頃、募集で、小太りの、50歳位の素人の男性が応募してきた。無理だと思ったが、本人はやると言ってきかないので、雨の日、私の配達の後ろを付いてこさせ、そのあと聞いても、相変わらず大丈夫だと答えるので、仕方なく、採用した。彼は、私が、指示も、教えもしないのに、どんどん仕事を覚え、半年も経たないうちに、作業日誌を付け、集金の集計をし、店長の役割をこなすようになった。また、彼は、驚異的な記憶力を持ち、店の全顧客の氏名、住所、契約期間、が頭に入っており、店員に指示し、営業に行かせていたが、パソコンは、信用せず、手を触れようともしなかった。レタリングも得意で、商店街の売り出しチラシを、毎月、ガリ版で刷り、瞬く間に、商店街の読者を増やした。彼が、囲碁のアマチュア高段者であることがわかり、私は、仕事が終わってから、囲碁を教わり、毎土曜、商店街の囲碁好きを店に集め、碁会を開いた。ただ、ひとつだけ、悩みの種は、彼が、どうやら、ホモの女役で、女性用のスリップを身に付けたりしていて、店員や商店街の人も気付いているらしいことであった。その頃、女子の学生従業員も5人いたが、彼女たちは、別に気にするふうもなく、夏に、彼がスリップを着て、暑そうにしていると、キャミソールに変えた方がいいと、アドバイスしたりしていた。商店街の人達も、見て見ぬ振りをしてくれているようなので、私も、気付かぬ振りを通すことにした。店を始めて2年目に、2人目の子供も生まれ、店長の務めをしっかり果たしてくれていた彼の御蔭で、私は、暇も出来、自分の時間が持てるようになった。店の従業員構成は、男女半々の学生従業員と専従社員は店長である彼だけとなり、毎日、賑やかで、活気があった。私は、暇を見ては、学生たちの様々な相談に乗ったり、お互いの意見を交換して、過ごした。また、その頃、駅前にチェーン店の本屋が出来、本屋の店長と親しくなり、ニューサイエンスがブームになっていた時期でもあった為、本を取り寄せたり、取り置いたりしてもらい、久しぶりに、夜、読書に没頭するようになった。ニューサイエンスの思想潮流は、最先端の科学的知見を取り入れ、人間観、自然観、世界観、の革新を目指しており、新たな哲学の誕生を期待させたが、従来の哲学と新たな科学、双方に対する、理解と認識不足の為、結局、一過性の運動に終わり、思想界にこれといった貢献を齎すことなく、目立った足跡も残さなかった。むしろ、その後の、さらなる、生命科学、情報科学、宇宙科学、の進歩が、人類に、以前にも増して新たな、人間観、自然観、世界観、への刷新と確立を迫っているように思われる。この頃、新聞業界においても、経営の近代化が取り沙汰され、私も新聞社が主催する、研究会のメンバーとなっていたため、私の店の経営実態を報告し、本社との取引条件も公開したが、これが、物議を醸し、私の報告書はお蔵入りとなってしまった。一時、請われて、二世店主を集め、次世代勉強会を催したこともあったが、当時のメンバーで、店主を続け、残っているものは、ひとりもいない。後年、2番目の妻となる女性と巡り逢ったのも、丁度この頃である。群馬県の沼田市出身の彼女は、新聞奨学生として、私の店に配属され、鴬谷の栄養士を養成する専門学校に通っており、母親の影響を受け、クリスチャンで、読書好きで、私が夕方、駅前の書店に行くと、彼女も来ていることが多く、帰りに、喫茶店でお茶を飲みながら、本の話をしたりしていた。最初の妻は、世知に長けていたが、本の世界には、全く興味を示さなかったため、彼女と会話し、過ごす時間は、私にとって、至福のひとときとなっていた。年も離れ、立場も違う為、師弟の関係で、男女関係は意識せず、彼女が、後に私の2番目の妻になるとは、その頃は、予想だにしていなかった。その頃、彼女に概略、以下の様な話をしていたのを、今でも覚えている。「人間を理解したいのであれば、マークトウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』『不思議な少年』『人間とは何か』を読むべきである。」「人間が自立する為に必要な教育とは、自分で自分を教育する事を教えるものであり、詩人も芸術家も哲学者も、他人が養成する事は出来ない。」「人類が、多神教から一神教へ、集合無意識から集合意識へ、集合意識から個人意識へ、と変化していく際、convertorとなる傑出した人物が出現する事が多く見られる。」「集合無意識は、芸術、思想によって集合意識化されるが、音楽(舞踏を含む)、詩文(口承を含む)、絵画、造形美術の順で行われることが多く、哲学はそれらの意識を更に意識化する事で実現する。」
椎名町で店主となって5年目の1985年7月13日、突然、父が脳溢血で亡くなった。享年68歳であった。母から知らせを受け、実家にいって、母と葬儀の打ち合わせをしたが、兄と連絡が取れなかったため、店の向かいの葬儀屋に、都内の大手葬儀会社を紹介して貰い、話し合い、取敢えず、密葬を行い、後日、正式な告別式を行うことにした。葬儀委員長を父の上司であった、農林省の事務次官に務めて戴き、兄弟3人の勤め先からも、大勢の会葬者に来ていただいて、葬儀は盛大に、滞りなく行うことができた。
翌年の2月始めに、本社販売局から、突然、三田店への異動を命じられた。三田店は、引退した元・都内の店主会の会長の、息子が店主を務めていたが、実際はその母親が執り仕切っており、息子の処遇を巡って、本社の担当社員と母親が険悪な関係に成り、三田店を辞め、多摩で他紙の店をやっていた叔父が引退したあと、当の息子に引継がせることに決めた為、急遽、私に三田店の後任の御鉢が回ってきたようである。その息子とは、彼が、私の次世代勉強会にも顔を出していて、知己の間柄であったが、急な話で、引継まで、2週間足らずしか余裕が無く、大変であった。いざ引継いでみると、15区域ある大所帯で、労務管理が杜撰(ずさん)であった為、過半数を占めていた学生従業員の就業態度も悪く、遅刻、不配が常態化していた。私は、直ちに、就業態度の改善を要請したが、学生の大半がこれに反発し、徒党を組んで一斉に朝刊の配達をボイコットする挙に出た。2区域を除き、殆んどの読者に新聞が届かず、その当時、本社も日比谷に移る前で、三田店のエリア内にあったため、本社に読者からの問合わせの電話が殺到し、本社の編集機能が一時、麻痺する事態となった。ボイコットした学生たちは、その日の夕刊後、戻ってきて、本社の担当社員が間に入り、翌朝から業務に復帰することで、御咎め無しということになったが、私は、納得がいかなかった。とはいえ、どの様な事情があろうと、本社に迷惑をかけた責任は、私にあるため、直ちに私は、販売局に辞表を提出した。ところが、販売局の局長以下、誰も辞表を受け取ろうとせず、誰に提出したらいいのか聞くと、親会社の代表取締役で、東京本社代表を兼任していた、当時の最高実力者に持っていくようにと言われた。どうやら、私の椎名町から三田店への異動は、その最高実力者の意向によるものであったため、私の処遇をどうするか判断がつきかねていたようである。私は秘書部を通じて、時間を取って貰い、代表室に赴き、はじめて、うわさの最高実力者と対面した。人を射るような爛爛とした目をして、痩せて、羅漢のような風貌であった。私がこの度の不始末を詫び、辞表を提出すると、彼は、「辞めて済むものではない、こんなところに謝りに来る暇が有ったら、迷惑をかけた読者にまず詫びて廻りなさい、読者の信頼を回復し、店を建て直してから、出直してきなさい。」と謂われた。その後、私は謂われた通り、店の立て直しと、読者の信頼回復を目指し、懸命に努力し、一時過労から、倒れかけたこともあった。人の入れ替えと補充にも苦労し、何度も修羅場を経験した。流石の私もピリピリし、妻は、その様な状況に、いたたまれず、たびたび実家に帰る様になった。その頃は、精神的にも、経済的にも、追い込まれ、どん底の状態であった。中部地区の、親会社の販売店組織の会長の息子で、東京本社の販売店の会長を務め、最高実力者と親しい間柄であり、私に目を掛けてくれていた店主が、そんな私を見かねて、100万円援助してくれ、返済は何時でもよいと言ってくれた。暫くして、利息として20万を添えて返したが、利息は受け取らなかった。最高実力者からは、月1回のペースで、秘書を通じて呼び出しを受け、その後の進捗状況や他紙の様子を含め、現場の動向を報告させられた。昼時に呼ばれることが多く、行くと、蕎麦や寿司をとって御馳走してくれ、ときおり、笑顔も見られるようになった。私は、ボイコット事件以来、新聞販売店に対してというより、人間に対する熱が冷めてしまい、収拾をつけ、一段落したら、店を辞め、子供達の為にも、北海道のニセコで牧場をやる準備を秘かに進めていた。当時、ニセコ町で牧場経営者を誘致しており、希望者には、助成金を支給し、指導や支援をおこなっていた。私は2度、町に足を運び、窓口の職員とも相談し、手応えを得ていた。私の計画では、小規模の酪農牧場を営み、有機栽培のアグリ・ツーリズムを行い、小学生の子供を持つ親を対象に、親子での体験学習の施設を運営する予定であった。店を建て直す方々、着々とニセコへの移住の準備を進めていたが、最高実力者に察知されたようで、問い糺され、仕方なく正直に答えると、行くなと言われ、どうしてか質問すると、おまえがいなくなると寂しくなるとの返事であった。予想外の言葉で、拍子抜けしたが、逆に、あまりにも率直な返事で、無下に、断りにくくなってしまった。私がどうしたものか悩んでいると、こんどは、妻が、子供を連れ、別れたいと申し入れて来た。また、同じ頃、店長をしていた、囲碁の先生が、足が悪くなり、お荷物になっては申し訳ないので、辞めて、梅が丘で碁会所をやりたいと言って来た。私が賄いと経理がいなくなるため、困っていると、学校卒業後、本社の社員食堂に請負で入っている会社に入社し、本社の社員食堂で働き、三田店の区域内のアパートに住んでいた、例の栄養士の彼女が、勤めを辞め、賄いと経理を引き受けてもいいと言ってくれた。彼女にそれぞれ、経理と賄いを引継いで貰い、ついでに、毎月の別れた妻への仕送りも、してもらうことにした。妻は別れた後、子供達と八王子で暮らしていたが、別れた妻が友人と旅行に行く際に、留守番に行き、子供達の弁当を作ってやったり、別れた妻の誕生日にプレゼントを渡したりしていた。子供達は、春、夏、冬の休みには、ずっと三田で過ごし、私は、あちこち、遊びに連れて行った。夏に、3泊4日で、船に乗って八丈島に行ったこともあったが、船に弱い私は、船酔いで散々だった。賄いと経理をやってくれていた彼女とは、自然な成り行きで、店の2階で同棲するようになったが、別れた妻を気遣い、7年ほどは籍を入れずにいた。囲碁の先生が辞めた後、50歳半ばで、新聞店の経験が豊富な、やけに身のこなしの軽い、忍者の様な従業員が入店し、外回りを監督してくれて重宝したが、私と彼女が2階の、事務所兼食堂の奥にある部屋で休んでいると、音もなく入って来て、いきなり戸を開けられ、慌てたことが何度かあった。余談であるが、ソクラテスの妻、クサンティッペは悪妻として有名であり、次の様なエピソードがよく知られている。ある時、クサンティッペはソクラテスに対して激しくまくしたて、彼が動じないので水を頭から浴びせた。しかしソクラテスは平然と「雷の後は雨はつきものだ」と言ったという。また、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」とソクラテスは語り、「そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と述べた人に対し、「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」とも語ったという。作家の佐藤愛子(1923年11月5日-、彼女自身も、クサンティッペ同様、元夫に頭から水を浴びせたエピソードが有名)は、『ソクラテスの妻』という小説を書き、「ソクラテスのような男と結婚すれば、女はみんな悪妻になってしまう」と苦言を呈している。悪妻と結婚すれば、誰もが哲学者に成れる訳ではなく、ソクラテスの弁明は、無茶苦茶であり、佐藤愛子の言うとおりであると肯くしかない。私は、別れた妻に、頭から水を掛けられたことは無いが、彼女にとって、私は、さぞかし、どうしようもない夫であったことと思われ、申し訳なかったと、反省しきりである。もっとも、世の中は上手くできており、「捨てる神あれば拾う神ありで」、椎名町で知り合って、30年を超える付き合いになる現在の妻が、私を拾い、捨てずにいてくれている。この章のタイトルを「my best girl」とした所以である。前の妻と離婚後7年ぐらい経った頃、周囲から、ちゃんと籍を入れ、結婚したらどうかと言われ、世話になった方々を、夫婦共々招待し、帝国ホテルのフランス料理店「Les Saisons」で、ささやかな宴席を持った。なお、この席には、双方の身内は、ひとりも呼ばなかった。最初の妻との離婚話により、ニセコ行きは、立ち消えとなり、東京本社代表の兼任を辞し、親会社に戻った最高実力者も、安心したようであった。彼が親会社に戻ってからも、呼び出しが有ると、親会社のオーナー室に居る彼に逢いに行った。また、電話や手紙によるやり取りも、月に何回かするようになった。人事や業界情勢に対する、私の意見を求められることが多かった。業界紙に、業界団体の役員で出向している、私の言動が載ると、電話や手紙で、感想を述べてくれたりすることもあった。オーナー家の息子などが、東京本社に異動になると、私に、面倒を見てやってくれと、必ず、頼んできた。あるとき、彼の懐刀で東京本社に駐在していた人物が、私のところに来て、体調を崩し、引退することになったので、後を頼むと挨拶に来たこともあった。三田店に移って、5年程経った頃、黄さん夫妻が、李登輝・体制で台湾の政情が安定したこともあり、台湾に帰ることに決め、夫婦で帰国の挨拶にきた。私は彼らと過ごした日々を思い、感慨無量であったが、近日中の再会を約して別れた。その頃から、三田店で、副業の、佐川のメール便を始めたり、新聞奨学生の募集を手がけたりして、経営的にも安定し、人材育成も遣り易くなった。今日まで、店主を4人育て、本社の関連会社に3人勤めさせ、協力紙の担当社員と、奨学生で、卒業後も事務員で残ってくれた女性との仲を取り持ち、結婚させたりしたこともある。かの、後藤新平(1857年7月24日 – 1929年4月13日)が三島通陽に遺した言葉として、「財を遺すは下、 事業を遺すは中 、人を遺すは上なり、 されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し」という、「名言」があるが、以前から私は、これに疑義を持っている。財も、事業も、無い方が、むしろ、本当の人材が育つような気もするのである。孔子、仏陀、ソクラテス、イエスが無名であった時から、彼らに共鳴し、付き従った者達がいたからこそ、彼らの名は、歴史に刻まれ、その言動が今に伝わっているのである。我が半生を振り返り、私が、家を出、若く、裸一貫の頃、出会った人々との、直心直入の付き合いを、懐かしく思い起こす、今日この頃である。
〔19〕(2017.03.25) ~あとがきに代えて~
20代の始め、それまでの「精神世界探求」の成果を、『意識の考古学と意識の考現学』に纏め、書き溜めた詩から50篇を選び、詩集『玩具箱』を編纂した。これ等の、決定稿である、2冊の大学ノートは、「檸檬」の許に置いてきた為、私の手許にはない。40年の時を経て、2014年2月14日から書き出した、『覚書』『続・覚書』『続々・覚書』『さらに続けて・覚書』には、『意識の考古学と意識の考現学』が反映されており、内容的には、8割以上重複している。また、『玩具箱』に収めた詩の、6割は、『玩具箱・抄』に掲載されている。私が、「精神世界探求」を10代後半から志した理由は、近・現代の科学と文明の進歩に比べ、哲学と文化の停滞に危機感を覚え、最先端の科学的認識と整合する、人間観・世界観に基づく哲学を創造しなければならない、との切なる思いからである。その達成に向け、先哲達の思索を振るいにかけ、納得がいくまで考量し、首尾一貫性があり、応用可能な理念を追求したつもりであるが、満足のいく結果が得られたかどうかは不明である。当時、抱いていた願いは、自身の考えを、実社会で検証し、「1冊の哲学書」を著し、あわせて、「自叙伝を書き、言行一致であることを示し、哲学の創造に到る経緯を説き明かす」、というものであった。前作までの「4冊の覚書」が、「1冊の哲学書」に該当するものであるとすれば、この覚書は、「言行一致であることを示し、哲学の創造に到る経緯を説き明かす、自叙伝」に相当するものであるが、成果の程は、後世に委ねるしかない。なお、我が『ヰタ・セクスアリス』とも言える、この自伝的・エッセイである覚書を書き始めたのは、「覚書」前4作の最深・最良の理解者で、4半世紀に及ぶ付き合いである、異性の友人に強く勧められたからであるが、最後まで、何とか書き続けることが出来たのも、彼女が、度々、書きかけの原稿に目を通し、褒揚(ほうよう)・激励してくれた御蔭である。そもそも、この自叙伝は、彼女1人を読者として書かれたものであると言ってよいが、果して、褒め上手である彼女の、御世辞抜きの眼鏡に、本当に叶うものであるかどうかは、正直、自信が無い。最後に、今日に至る、幾多の人々との出会いは、良縁・悪縁・合縁・奇縁と様々であるが、振り返って、如何なる縁による出会いも、私にとって無駄なものは、何一つ無かったと思っている。存命者の御多幸と、物故者の御冥福をお祈りし、筆を擱かせて頂く。