〔01〕(2016.01.02) ~「思いやり」の効用~
人は他人を理解する事で、はじめて自分を理解できる。様々な人々が様々な意識レベルで生きていることを目の当たりにして、人は自身の意識レベルを自覚する。更には意識の広がりと諸段階に目覚め、自己の意識を意識し、レベルアップを図るべく努力する。他人を思いやり理解しようとすることは、自分を理解し、新たな自己を創造するステップである。大方、人は自身の貧弱な経験に照らして他人を理解した積りになり、世間の評価を鵜呑みにして他人を品定めして漫然と人生を送っている。しかし、これでは人はいつまでたっても他人を理解できず、自己の向上も望めない。
〔02〕(2016.01.12) ~マルクスの唯物史観~
マルクスの唯物史観は、文明を主体とした歴史哲学であり、文明論である。文化を主体とした歴史哲学の出現が待たれる。そこでは、人類の集合意識の変遷が主たる問題となるものと思われる。歴史哲学は人類を通時的に観た人間論であり、人類を文明と文化の両面から考察し、対照した場合、何よりもそのアンバランスに驚かされることになるかも知れない。
〔03〕(2016.03.07) ~意識研究の難しさ~
意識探求に伴う困難は探求者の意識そのものが問われる事である。探求者が自己の意識並びに対象となる意識をどのように捉えているかによって、その成果が左右されてしまう。意識は空気のような存在で、人々は日々、無意識に自他の意識の世界に生きているが、どの様な意識状態で生きているかが重要である。曖昧な意識状態では意識問題は解明できない。意識の問題に取り組む者は、先ず己の意識を究めねばならない。意識は全ての事象に関わっており、進化論的側面、個と集団の関係、相互理解の障害、等々、様々な問題を内包している。翻って考えると、意識問題の解明に伴い、付随する様々な問題も解明されることになる。意識探求に伴う困難は、意識が意識を解明することにより、必然的に生じるものであり、量子力学における観測者問題を想起させる。
〔04〕(2016.03.19) ~アインシュタイン~
ハイゼンベルクが行った確率計算に基づく量子力学の定式化に対して、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って異を唱えた。物理学、天文学に偉大な足跡を残した大科学者アインシュタインが神を信じていた事に今更ながら驚きを禁じ得ない。アインシュタインが信奉した神は、ユダヤ教の神、旧約聖書の神であるが、彼にとって神とはどのような存在だったのだろうか。
〔05〕(2016.03.26) ~チャレンジ・マッチ~
グーグル・デイ―プマインド・チャレンジマッチと銘打たれ、α碁と李世ドル9段が3月9日から15日にかけて5局戦い、α碁が4勝1敗で勝利を収めた。大方の予想を裏切り、プロの世界的トップ棋士に人工知能が大勝したことで、世間は騒然となった。世間一般は(また李世ドル9段も)コンピューターという機械に人間が負けたと受け止めている様であるが、これは間違っている。そもそも人工知能は人間が創ったものであり、人工知能の思考力がプロ棋士の思考力に勝っただけである。ゲーデルの不完全性定理を参照するまでもなく、永年、囲碁の枠組みのなかで考えられてきたことが、思考そのものを科学的に研究した結果である人工知能に破られたのだ。ここまで進化した人工知能の悪用を危惧する声もあり、すでに人類が核兵器を保持していることを考えると、今後、人類が自らを滅ぼす脅威が高まったことは確かかもしれない。なぜなら、人工知能は、いまのところ、優劣は判断できても善悪は判断できないからである。我々は現在、車による移動を享受しているが、これは文明の進歩の賜物であり、人類個々の能力の進化によるものではない。個々人の平均的活動力は文明の進歩と共に飛躍的に増大したが、個々人の能力そのものがレベルアップした訳ではない。むしろ文明に依存する事で、退化している様にも見える。今回の出来事は、人工知能という文明と囲碁の伝統的文化が対峙した結果であるとも言え、文化が文明にとって代わられる瞬間を人々は目撃し、ショックを受けたのかも知れない。ここで付け加えておきたいのは、α碁という人工知能も囲碁文化の存在無しに花開かなかったことである。α碁を考案した人々に敬意を表するとともに、囲碁というゲームを考え出し、進化させてきた先人たちの英知にあらためて感嘆の念を禁じ得ない。なお、α碁は質の高い実践から学ぶことで進歩したが、これは井山裕太プロの強さにも通じるものであり、既成の先入観念を脱し、自由に発想することの大切さをも再認識させてくれるものである。
〔06〕(2016,04,25) ~勝組と負組~
経済的に豊かな者を勝組、そうでない者を負組と称する短絡的な評価が流行っている。経済的に成功する事を人生の目的であると錯覚している者も多い。経済的な豊かさイコール豊かな人生ではない。どのように経済的成功を達成し、それをどのように活用したかも問題である。経済的に豊かであっても、心貧しくては何にもならない。経済的に豊かでなくても、心豊かに生きている人は沢山いるのである。
〔07〕(2016.05.01) ~欲求について~
大方、人は自らの欲求に忠実である。生涯、主たる欲求から離れられずにいる事が多い。何故そうなのかと、自身に問うことも無い。主たる欲求をコントロールすることは難しく、欲求自体を変える他ないが、これもまた大変な事である。
〔08〕(2016.06.17) ~楽器について~
アンデスの笛・ケーナを独習して、いくつか実感したことがある。楽器そのものにも出来の良し悪しはあるが、どんな名器も本来の音色を奏でるには、名手の腕が必要であり、名器は名手によって生かされる。ストラディヴァリウスのヴァイオリンなどはその好例である。パイプなども上手な使い手によって本来の味が引き出される。同様に、人も楽器のようなもので、どんな人間も本来の能力を発揮出来るように遇されるべきである。
〔09〕(2016.06.18) ~習慣と慣習~
悪しき習慣と慣習から脱却することで、人生の無駄な時間をどれだけ減らせることか。良き習慣と慣習を身に付ける事で、心身の安定をどれ程得る事ができることか。アマゾンCEOのジェフ・ぺゾスは「ワーク・ライフ・バランスよりワーク・ライフ・ハーモニーが重要である」と言っているが、ワーク・ライフ・ハーモニーは、良き習慣と慣習によって齎されるものであり、仕事・人生を問わず、無駄な時間を省き、実のある人生を送れということである。
〔10〕(2016.07.20) ~ディオゲネス~
ディオゲネスは乞食の様な生活を送り、充実した人生を全うした。ディオゲネスの生きがいは乞食生活によって損なわれるものでなく、彼にとって最も大切なものは、自由に思索する時間であった。その生き方と成果によってディオゲネスは歴史に不朽の名を残したのである。
〔11〕(2016.07.20) ~他人を信頼すること~
人を信頼する事は、人間の潜在的可能性を信じることであり、自身を過信せず謙虚である事である。
〔12〕(2016.07.20) ~資産について~
動産、不動産とは別に、能力資産と言うべきものも、資産として考慮に入れるべきである。
〔13〕(2016.07.25) ~経済力・社会的地位と人間~
経済力・社会的地位と人間の評価は、必ずしもイコールではない。経済的・社会的成功が人としての成長の証にはならない。国単位で見ても、経済的成長がその国の民力の指標とは言えない。経済的価値のみを重視する社会は、異常であり、非文化的である。
〔14〕(2016.07.26) ~長所と短所~
人の長所と短所は通常その一部しか表に出ていない。氷山ではないが大部分は潜在化している。隠れていた能力を発揮せざるを得ない状況に置かれた時、潜在的な能力が表に出たり、逆に好調なときに欠点が露呈したりする。潜在的な長所や短所も注意深く観察していると見えてくるものであり、人はそれらを含めて評価すべきである。
〔15〕(2016.08.04) ~憧憬・嫉妬・羨望~
憧憬(あこがれ)・嫉妬(やきもち)・羨望(うらやみ)この3つの感覚の違いは、意識の距離感から生まれる。人は自分に近い存在に嫉妬を覚え、遠い存在に憧憬を抱く。羨望は意識の距離が中途半端な場合の状態である。
〔16〕(2016.08.04) ~整合性~
思想、哲学において一般に最も重視されている事は、論じる事柄の大小に拘わらず、首尾一貫性、すなわち原理・原則に照らして整合性を保持している事の様である。カソリックの神学がその非現実的な偽論にも拘らず、今日まで細々と生きながらえているのも神を原点とした、その首尾一貫性ゆえである。真っ赤なウソも整合性があると、信じ込んでしまう人も多い。
〔17〕(2016.08.22) ~無名の聖人達~
孔子(B.C.552.09.28~B.C.479.03.09)、ソクラテス(B.C.469~B.C.399.04.27)、ブッダ(B.C.463~B.C.383、中村説)、イエス(B.C.2~A.D.33)等は、高名な聖人達である。彼らが有名になっていなかったとしたら、歴史は随分変わっていたかもしれない。翻って、歴史に名を残してはいないが、彼等と比肩しうる無名の聖人達も存在したに違いない。有名になることと、無名のままでいることと、どちらが賢明であるのか。高名な聖人達は、有名になることを欲していた訳ではないとしても、存命中すでにその名を広く人々に知られていた様である。またそのことが、彼らの生涯に多大な影響を及ぼしている様でもある。また彼らが有名になったことで、その存在が広く知られ、その考えが後世に伝わったことも確かである。しかしながら、何故その時代、人々に認められ有名になったのか、そのことが彼等の考えに、どのような影響を与えたのか、このような視点から考察した例は見られない。何れにせよ、有名になるという運命に抗するのもまた至難の業であろう。
〔18〕(2016.08.22) ~人の脳の人工知能化~
現代社会は工業製品で溢れ、人工物が自然物を凌駕している。この様な社会に適合すべく、我々の脳は相応に変化しつつある。いわば人工知能化している模様である。人工知能はものごとの優劣は判断できても、善悪は判断できない。そのせいか、最近、善悪を判断できない人間が増えている。文明が発達した社会は、物質的豊かさを追求し、他人より少しでも優位に立とうとする競争社会でもある。人間の脳の進化が、この様な淘汰圧の下で変化し、人工知能化しているとすれば、忌々しい事態である。現在の、文明と文化のアンバランスは、人間の脳の知能と情操のアンバランスに起因している。
〔19〕(2016.08.29) ~意識の高所恐怖症~
ドラッグ依存症患者はドラッグ体験を重ねるうちにノーマルな意識に戻るのが怖くなる。自由な高揚感が失われるのを怖れ、疑似的創造力の喪失に耐えられないからである。このような状況は、精神的未熟さが招いたものと思われる。逆に、往々にして人は、何かの拍子に意識的高揚感を経験しても、そこに止まることを躊躇しがちである。意識の高所恐怖症に陥り、その現実性、信憑性を信じ切れず、安全な日常性から遊離することを恐れるからである。総じて人は、平均的レベルより多少高い意識を持ち、優越感を抱いて人生を送ることを好む。意識の最底辺を含む真理は、自力で意識の高みに到った者にのみ覚知される。たとえば、イエスは神と同格の意識を持ち得たからこそ、マグダラのマリアの心に寄り添うことが出来たのである。
〔20〕(2016.08.29)
~否定的生き方と肯定的生き方~
否定的生き方をする者は精神的冒険を怖れ、保守的で安全を好む。この様な者に意識の発展と進化は期待できないが、概して人は小市民的で臆病である。
〔21〕(2016.09.17) ~空海と真言密教~
18歳から大学寮で学んでいた空海は、これに飽き足らず19歳で山岳修業に入り、24歳の時「聾瞽指帰」を著している。またこの間、一沙門(空海と同じ讃岐の出身で「釈摩訶衍論」の請来者であった大安寺の戒明と言われている)から「虚空蔵求聞持法」を授かり、室戸岬の御厨人窟で開悟したとされている。804年5月、30歳で中国に渡り入唐した空海は、翌年5月から青龍寺の恵果に師事、6月、7月に胎蔵界・金剛界、両部の灌頂を受け、真言密教の法燈を継いでいる。恵果は同年12月15日に60歳で入寂、空海は恵果の助言に従い、翌年8月には帰国の途に就いている。恵果が初対面で見抜いた通り、空海は渡航前すでに真言密教の奥義を粗方、極めていた模様であるが、当時、最高の思想哲学であった真言密教と出会ったことが、空海にとって幸であったかどうかは別である。空海は、中国に止まることも、玄奘のように原典を求めてインドに赴くことも無く、帰国して中国で修得した真言密教の普及に努め、同時に、庶民から天皇にいたる日本人の精神的拠り所となる集合意識の形成に尽力し、永く記憶に残る存在となった。弘法大師・空海は、835年3月21日に満60歳で即身仏となり入定したとされているが、その後、日本では空海を超える仏教人は輩出しておらず、空海を超える思想家も出現していない。
〔22〕(2016.10.10) ~「唯識で読む菜根譚」考~
「唯識」思想は仏教の中心教義である無常・無我を体得する為に、4世紀頃、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練させた瑜伽行(瞑想)から得られた智を体系化したものである。玄奘三蔵(602年―664年3月7日)はナーランダ寺において「唯識」を学び、帰朝後、世親の『唯識三十頌』を、護法の注釈を中心に、他の学者達の見解を添え、『成唯識論』と題して訳出した。玄奘の弟子である慈恩大師基(もしくは窺基=きき)は、この書をもとに法相宗を開き、中国において「唯識」の研究が盛んになった。法相宗は道昭などによって日本にも伝えられ、奈良時代に隆盛を極めた。大乗仏教における認識論とも言える『唯識論』は、(存在論と称すべき『倶舎論』とともに、仏教学の基礎学問として)日本法相宗の大本山である興福寺・薬師寺を中心に今に伝えられ、学び続けられている。(なお、『俱舎論』は「説一切有部」の『阿毘達磨発智論』を解説した『大毘婆沙論』を「経量部」の立場から世親が批判的に要約したものであるが、本来の教義から逸脱しているとして非難されてもいる。)余談であるが、三島由紀夫は唯識論に傾倒し、「豊饒の海」四部作にモチーフとして取り入れ、第四部「天人五衰」の最終回入稿日に陸上自衛隊、市ヶ谷駐屯地で自決した。また、澁澤龍彦は「三島由紀夫をめぐる断章」の中で、三島に唯識論とは何かと問われた宗教学者、松山俊太郎が「あれは気違いにならなければわからない、正気の人にわかるわけがない。唯識説のよくできているところは、ちょうど水のなかに下りていく階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に溺れているというふうにできている。それは大きな哲学の論理構造であり、思想というものだ」と答えた話、並びに、それを聞いた梅原猛が「感心している三島も三島だが、こんな馬鹿げた説を得々として開陳している仏教学者もないものだ」と批判した事、などに触れている。閑話休題。『菜根譚』は中国明代末期に洪自誠(1573-1620)が世に出した随筆集であり、その内容は、処世訓を三教(儒教・道教・仏教)融合の立場から説く思想書である。中国では余り重んじられなかったが、日本では禅僧のあいだなどで盛んに愛読され、仏典に準ずる扱いを受けてきた。「唯識で読む菜根譚」は、NHK教育テレビが、2016年10月9日に『こころの時代~宗教・人生~』という番組で、興福寺の貫首、多川俊映を講師として取り上げたものである。多川俊映は二十代の頃から『菜根譚』を座右の書とし、月一回行われる講話のテキストにも、人生を心豊かに生きる為の智慧の宝庫であると考え、用いているとのことである。また現在再建中である中金堂完成のあかつきには、此処を唯識の学びの中心とし、天平時代の活況を取り戻したいとも語っている。さて、この番組を視聴し、違和感と落胆を覚えずに居られなかった為、その理由をかいつまんで述べておくことにする。弘法大師空海は仏教思想が頂点に達した時代に生き、真言密教の哲学を体得し、体現し、実践した。空海は二十四歳の時、「聾瞽指帰」を著し、儒教・道教・仏教を比較考量し、仏教の優位性を説いている。「唯識で読む菜根譚」など主客転倒であると眉を顰めることであろう。また、多川は時代が変わっても人間の本質は変わらないので、四百年前に書かれた『菜根譚』も、千五百年前に生まれた『唯識論』の仏教哲学も、今現在も通用し、有効であると主張する。たとえ人間の本質は変わらないにせよ(しかし大方の人は時代の子である)、人間や人間社会、またそれを取り巻く環境に対する見方、理解の仕方は変わっている。古代ギリシャ哲学は、自然科学や人間科学の端緒を開いたが、今日これを本気で信奉する者はいない。プラトンの哲学も、アウグスティヌス(354年11月13日-430年8月28日)によって、プラトン・新プラトン主義がキリスト教思想と統合された後、弟子で「万学の祖」と呼ばれるアリストテレス同様、西洋思想に、然したる影響力を持つことは無かった。古代インド哲学は仏教哲学に取り込まれ一定のレベルに達したが、その世界観が正しいものであるとは、もはや言えない。現代は哲学にとって冬の時代である。その守備範囲の大部分は自然科学にとって代わられてしまっている。しかし、だからといって哲学が不要になった訳ではない。逆に、今日ほど新たな人生観、世界観、人間観、自然観が必要とされる時代は無い。ただし、今必要なのは、過去の哲学では無く、未来の哲学である。
〔23〕(2016.10.15) ~哲学と思想~
有史以来、人類に際立った影響を及ぼしていると思われる、広義の『哲学』を生み出した人物を以下、年代順に列挙して見る。
ホメーロス (BC700頃)
ヘシオドス (BC700頃)
孔子 (BC552.09.28-BC479.03.09)
ヘロドトス (BC485頃-BC420頃)
ソクラテス (BC469-BC399.04.27)
釈迦 (BC463-BC383、中村説)
プラトン (BC427-BC347)
アリストテレス (BC384-BC322.03.07)
司馬遷 (BC145or135-BC87or86)
カエサル (BC100-BC44.3.15)
イエス (BC2-AD33)
プルタルコス (46or48-127頃)
プトレマイオス (83頃-168頃)
アウグスティヌス (354.11.13-430.08.28)
ムハンマド (570頃―632.06.08)
ダンテ (1265-1321.09.14)
マキャヴェッリ (1469.05.03―1527.06.02)
コペルニクス (1473.02.19-1543.05.24)
ルター (1483.11.10-1546.02.18)
カルヴァン (1509.07.10-1564.05.27)
ベーコン (1561.01.22-1626.04.09)
ガリレオ (ユリウス暦1564.02.15-グレゴリオ暦1642.01.08)
ケプラー (1571.12.27-1630.11.15)
デカルト (1596.03.31-1650.02.11)
ジョン・ロック (1632.08.29-1704.10.28)
ニュートン (1642.12.25-1727.03.20)
ライプニッツ (1646.06.21-1716.11.14)
モンテスキュー (1689.01.18-1755.02.10)
ヴォルテール (1694.11.21-1778.05.30)
ルソー (1712.06.08-1778.07.02)
カント (1724.04.22-1804.02.12)
ジェファーソン (1743.04.02-1826.07.04)
ゲーテ (1749.08.28-1832.03.22)
ナポレオン (1769.08.15-1821.05.05)
ヘーゲル (1770.08.27-1831.11.14)
スチュアート・ミル (1806.05.23-1873.05.08)
リンカーン (1809.02.12-1865.04.15)
ダーウイン (1809.02.12-1882.04.19)
マルクス (1818.05.05-1883.03.14)
ニーチェ (1844.10.15-1900.08.25)
フロイト (1856.05.06-1939.09.23)
ウエーバー (1864.04.21-1920.06.14)
ガンディ― (1869.10.02-1948.01.30)
ユング (1875.07.26-1961.06.06)
アインシュタイン (1879.03.14-1955.04.18)
ケインズ (1883.06.05-1946.04.21)
サルトル (1905.06.21-1980.04.15)
以上、思いつくままに書き出して見た。重要な人物を見落としているかも知れないが御容赦願いたい。 さて、上記の人物達によって世に出た『哲学』は、当時の思潮となり、確固とした思想になるにつれて、 人類社会に多大な影響を及ぼすに到った訳であるが、それによって齎された結果は、必ずしも当人達が予期したものであったとは限らない。 ムハンマドは現在のイスラム過激派のテロをどう思うのか。マルクスはロシアや中国の軍事力による、 プロレタリアでは無く政治的エリートの独裁体制や覇権主義をどう評価するのだろうか。 いずれにせよ、当人達のもともとの考えと、そこから派生した思想とが違うことを踏まえ、思想を安易に鵜呑みにせず、 どの様な時代背景のもとで、当人達の言動がどの様な意図をもってなされたのか、慎重に吟味する必要がある。 また、そのうえで歴史を俯瞰し、彼らの『哲学』とそこから派生した思想の持つ意味を考量すべきである。
〔24〕(2016.10.16) ~瞑想の功罪~
インドでは、古くから(一説によると紀元前25世紀頃のインダス文明の頃から)瞑想が行われており、紀元2~3世紀ごろにパタンジャリが、サーンキャ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになった。
その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれている。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるのである。この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれる。
仏教の始祖とされているブッダ(”悟った人”の意)は、究極の智慧を得たが、それは上述のインドの瞑想の技法(あるいはヨーガ)によって得たものであり、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある。仏教のみならず他の宗教に於いても、瞑想が取り入れられている。キリスト教の修道院では、瞑想の時間が設けられていることが多く、イスラム教・神秘主義のスーフィーにおいても、様々な瞑想法が伝えられている。最近の、脳の科学的研究によると、適度な瞑想が、海馬の疲労回復と前頭葉の活性化に役立つことが分かっている。一方で、過度な瞑想が、変性意識状態を生み出し、それに伴う、様々な弊害を齎す危険性も、警告されている。インド生まれの宗教的哲人、クリッシュナムルティ(1895年5月12日-1986年2月17日)は独自の健全な瞑想法により意識の覚醒を得たが、瞑想に臨んでは、功利的雑念を捨てる事が肝要であると説いている。瞑想により覚醒を目論むのもまた功利的雑念なのである。
〔25〕(2016.11.04) ~デイ―プラーニング~
学習能力の無い人間が多い一方で、最近、AI(人工知能)は深層学習能力を身に付けたようである。
ニューラルネットワークによって自己学習能力を獲得したAlphaGo (アルファ碁)は、今や、トップ棋士をも凌ぐ大局観と直観力を持つ程の進化を遂げつつあるらしい。
AlphaGoは、デミス・ハサビスが副社長を務めるGoogle DeepMind社によって開発されたコンピュータ囲碁プログラムである。2014年1月、Google に4億ポンド(約6億2500万ドル)で買収される以前、汎用学習アルゴリズムの構築に特化した機械学習のスタートアップであるDeepMindテクノロジーズを2010年に共同で立ち上げ、CEOを務めたデミス・ハサビス (1976年7月27日-)は、イギリスの人工知能研究者、 脳科学者、 コンピュータゲームデザイナー、世界的なゲームプレイヤーである。Google DeepMind社はAlphaGoで開発した学習・発見能力を科学研究や実用の世界へ応用してゆく意向のようである。昨日、囲碁名人戦第七局が終了し、高尾紳路九段が井山裕太名人・7冠をフルセットの末破った。このところ高尾九段は復調の気配を見せているが、AlphaGoの対局から学んでいることも、功を奏しているようである。AlphaGoを意欲的に研究している張栩九段も好調である。将棋の世界では、プロ棋士による将棋ソフトの不正利用疑惑が問題になっているが、囲碁界に於いても早速、AlphaGoの影響が現れ始めている模様である。高尾九段は、井山7冠も(AlphaGoとは違って)同じ人間なのだから強いと言っても、それ程大きな差は無いはずだと自分に言い聞かせて対局に臨んだそうである。或る意味これもまたAlphaGoの効果と言えなくもない。今後は定石も大きく変わっていくであろうし、若手棋士の得意な、読みの力に頼ってばかりでは勝てなくなり、大局観や直観力が勝敗を分ける重要なポイントになってゆくように思われる。だとすれば、これは中高年棋士にとって、朗報と言えるのではないだろうか。ニーチェの関心を世界史に向けさせたことで知られ、私が敬愛して已まない文化史家ヤーコプ・ブルックハルト(1818年5月25日 - 1897年8月8日)は「直感から出発できない場合、私は何もしない」と言っている。また「うまく隠れて生きた者こそ、よく生きたものだ」がモットーでもあった。ブルックハルトの場合、直観は概念より優先され、歴史事象そのものより時代の背景・雰囲気に関心を持つ。イギリスの歴史家ジョージ・グーチは「一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家にして、彼の泉から深く飲まなかった歴史家があろうか」と述べている。囲碁の話に戻ると、イギリスの古い諺にhappiness in disguise(姿を変えた幸福)という言葉があるが、井山6冠も今回の惜敗が、却って将来の大成へのステップとなるかも知れない。
〔26〕(2016.11.05) ~あどけない話~
地球の生命は海の水から生まれた。最近の研究によると水は宇宙の到る処の惑星に存在するらしい。宇宙の誕生時に存在した重水素が酸素と結び付いて重水を創り、重水が水となったようである。また、地球で生命が誕生する為に必要不可欠な元素の幾つかは、隕石によって齎された宇宙由来であるという。水ではない液体から生命が誕生する可能性を研究している科学者もいるようであり、もはや地球だけが生命の星であるなどと言えないことは確かである。ところで、意識は地球の生命から生まれたものであろうか。少なくとも、人間からのみ生じたものではない。意識を意識していて、重力から解き放されたような感覚を味わったことのある私としては、意識もまた宇宙起源であると思いたい衝動に駆られたりすることがある。「智恵子抄」の『あどけない空の話』ではないが、『あどけない意識の話』である。
〔27〕(2016.11.06) ~死後の世界~
カソリックの信徒、ダンテ(Durante Alighieri 1265年―1321年9月14日)は、ルネサンス文化の先駈けとなった主著「神曲」で、霊界を地獄・煉獄・天国に分け、ファンタスティックに描いている。仏教に於いては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、及び臨終の心の状態などによって、次の転生先へと輪廻する、とされている。部派仏教では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道、の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば、次の輪廻では善き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば、悪しき境遇(悪趣)に生まれ変わる。仏陀は、死後の世界が在るとも無いとも語らず、それよりも、今、苦しんでいる人々の苦しみを取り除くことが先決である、と述べた。こうした姿勢は無記と呼ばれている。仏教では、すでに悟りを得ているにも拘らず、成仏を拒否した菩薩も創造された。これは仏陀自身の活動に限界があると考えられた為で、謂わば仏陀の手足となって活動を補佐する者を菩薩と呼ぶ。その代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩と普賢菩薩である。霊界に関する最近の説のなかには、死後の世界は霊の差別界、霊格の差別界で、肉体の滅びた魂は、幽現界を経て自分の魂と同レベルの階層の霊界へと平行移動して行く、また、霊の階層の決定には、現世での地位、名誉、財産、等は一切考慮されない、と説いているものもある。以上、これまでの記述を踏まえると、日毎に人口密度が増している霊界の、何処に赴く事になるにせよ、結局、この世と変わらぬ心労や煩雑さが付いて廻るようである。
〔28〕(2016.11.11) ~トランプの勝利をめぐって~
現地時間11月8日(火)の大統領選挙で、大方の予想を裏切り、トランプが勝利した。得票数で上回ったクリントンの、私用メールによる国家機密漏洩疑惑という敵失にも助けられたが、何よりも、漠然とした不満と不安を抱える白人中間層を取り込んだことが勝因であったようである。トランプはまた、選挙運動期間中、大統領として不適格であると公然と批判を表明した新聞を始めとする一部のマスメディアや、クリントン勝利を予測した大半のマスメディアにも勝利したことになる。色褪せたアメリカンドリームに失望し、失意の思いで暮らしている人々の気持ちを理解しなかったマスメディアの敗北と言ってよい。この様なマスメディアに少なからぬ人々が不信感を抱くのも当然であり、トランプに対するマスメディア自身によるネガテイブキャンペーンも、むしろ逆効果であったかも知れない。トランプは勝利宣言で、意外にも、選挙運動期間中とは打って変わって、良識ある大人の発言に終始し、クリントンの健闘を称え、偉大なアメリカを再興する為、皆が結束することを訴えた。しかし、選挙直後からアメリカでは、大規模な反トランプのデモが始まっている。今回の選挙は、良きに付け悪しきに付け、アメリカの民主主義が健在であることを示すものであるが、それだけに、トランプも、支持者を上回る数の、自身の政治姿勢に反感を持っている人々に対し、理解と協力を得るのは容易な事ではない様に思われる。トランプの選挙運動期間中の言動が、国内向けのポーズであり、一種のゲームであったのか、彼の支持者が期待したように、トランプが文字通り、アメリカが抱える問題解決の切り札となるのか、トランプの虚像と実像は早晩、明らかに成って行くであろう。また今後、その真実に、アメリカ国民がどう対応するのか、見守っていくとしよう。何れにせよ、トランプの掲げるアメリカ一国主義の保護主義的政策で、偉大なアメリカを実現しようとする事は、時代錯誤であり、不可能であると言ってよいであろう。
〔29〕(2016.11.18)
~剽窃・盗用・盗作・贋作・偽書~
剽窃、盗用、盗作、の最近の例を以下に、二つ挙げて置く。先ず、音楽界に於ける事例。佐村河内 守(1963年9月21日- )は、中途失聴とされる聴覚障害がありながら『鬼武者』のゲーム音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲したとして脚光を浴びたが、2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚。聴覚障害の程度についても疑義を持たれ、ゴーストライターを務めた作曲家の新垣隆は、「佐村河内は18年間全聾であると嘘をつき続けていた」と『週刊文春』に掲載された独占手記で明らかにした。横浜市による再検査では中度の感音性難聴と診断され、障害者手帳の交付の対象となるレベルではなかった。2014年2月6日午後、新垣隆(当時桐朋学園大学非常勤講師)は記者会見を開き、佐村河内の代作を18年間行っていたことを明らかにした。
次に、科学分野の事例に移る。2014年1月に小保方晴子(理化学研究所)と笹井芳樹(理化学研究所)らが、STAP細胞・STAP幹細胞・FI幹細胞を、チャールズ・バカンティ(ハーバード・メディカルスクール)や若山照彦(山梨大学)と共同で発見したとして、論文2本を世界的な学術雑誌ネイチャー(1月30日付)に発表した。発表直後には、生物学の常識を覆す大発見とされ、小保方が若い女性研究者であることに注目した大々的な報道もあって、世間から大いに注目された。しかし、論文発表直後から様々な疑義や不正が指摘され、7月2日に著者らはネイチャーの2本の論文を撤回した。その後も検証実験を続けていた理化学研究所は、同年12月19日に「STAP現象の確認に至らなかった」と報告し、実験打ち切りを発表。同25日に「研究論文に関する調査委員会」によって提出された調査報告書に於いては、データの改竄が見られ、STAP細胞・STAP幹細胞・FI幹細胞とされるサンプルはすべてES細胞の混入によって説明できるとし、STAP論文はほぼ全て否定されたと結論付けられた。なお、刺激惹起性多能性獲得細胞(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells)は、動物の分化した細胞に弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激(ストレス)を与えて再び分化する能力を獲得させた細胞。その英語名から一般にはSTAP細胞と呼ばれる。この細胞を生み出す現象をSTAP現象、STAP細胞に増殖能を持たせたものをSTAP幹細胞、胎盤形成へ寄与できるものをFI幹細胞と名付けられている。
「贋作に関しては、絵画の世界で、著名な贋作者を二人紹介しておこう。一人は、エルミア・デ・ホーリー(Elmyr de Hory, 1906年4月14日 – 1976年12月11日)で、ハンガリー出身、ユダヤ系の贋作画家。オリジナルの作品は凡庸だったが、贋作者としては天才であり、1946年から1967年までの21年間にルノワール、モディリアーニ、ドラン、デュフィ、マティス、ヴラマンクなどの贋作を1000点近く描き続け、それらを世界中の美術館やコレクターに売却した。ホーリーの伝記的事実を著した、アメリカの作家クリフォード・アーヴィング( Clifford Michael Irving、1930年11月5日 – )の『贋作』(早川書房)によると、ホーリーは自らの数奇な人生をクリフォード・アーヴィングに語り、テレビ番組や『贋作』を主題としたオーソン・ウェルズの映画に出演することで名士となった。また、贋作ではなく自身の作品を制作し、それらの絵は評価はされたが、ほとんど売れなかった。その後、フランスの警察が詐欺容疑で動き出し、ホーリーの身柄引渡しを要求しはじめた。1976年12月11日、ホーリーは自宅で睡眠薬自殺を遂げているところを発見された。死後、ホーリーのオリジナル作品は、人気が出て高値で取引されるようになった。皮肉なことに、今日では彼のオリジナル作品の贋作が出回っている。もう一人のハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren、1889年10月10日 – 1947年12月30日)はオランダの画家、画商。本名はヘンリクス・アントニウス・ファン・メーヘレン(Henricus Antonius van Meegeren)。20世紀で最も独創的・巧妙な贋作者の1人であると考えられている。特に、ヨハネス・フェルメールの贋作を制作したことで有名である。当時はフェルメール研究が緒についたばかりで、ごく一握りの専門家を騙せば真作と認められたことから、贋作が作りやすい状況にあった。このため、まずメーヘレンはフェルメールの作風を模写するための研究を重ねた。そして、題材はフェルメールが手がけていないとされていた宗教画を描く事に決めた。さらに、メーヘレンは当時の真贋判定方法で主に用いられていたアルコールを浸した綿で絵画の表面を拭くという方法に対抗するため、絵の表面にフェノール樹脂を塗り、炉で一定時間加熱するという手法を編み出した。また、絵を書く際に用いるキャンバス(および額縁)はフェルメールらと同じ17世紀の無名の絵画から絵具を削り落としたものを使用し、絵具、絵筆から溶剤に至るまで当時と同じものを自ら製作して使用し、絵の完成後にキャンバスを丸めてクラクリュールを作り、墨を塗るなどして古びた色合いを出すなど、その贋作の手法は徹底していた。このようにして製作された「エマオの食事」(1936年)は、当時のフェルメールの研究家たちから「本物」と認められ、ロッテルダムのボイマンス美術館が54万ギルダーで買い上げた。1945年5月29日にメーヘレンはナチス・ドイツの高官たちにフェルメール作とされていた「キリストと悔恨の女」などの絵画を売った罪で逮捕・起訴された。ナチス協力者およびオランダ文化財の略奪者として、当局は長期の懲役刑を求めた。この危機的状況に直面し、拘留中にメーヘレンはナチス・ドイツに売却した一連の絵画、そして「エマオの食事」が自ら製作した贋作であることを告白。証拠として法廷で「フェルメール風」の絵を描いて見せ、さらに一連の絵画に対しX線写真などの最新の鑑定が行われた結果、彼が売り捌いたフェルメールなどの絵とされてきた絵画が彼の手による贋作であることが証明された。この為、メーヘレンは売国奴から一転してナチス・ドイツを騙した英雄と評されるようになった。結局ナチス・ドイツへの絵画の販売については無罪となり、1947年11月12日にフェルメールらの署名を偽造した罪で当時詐欺罪の刑として最も軽い禁固1年の判決を受けたが、既に酒と麻薬で体を蝕まれていたメーヘレンはまもなく心臓発作に倒れ、翌月にアムステルダムで死去した(58歳没)。」(以上、Wikipediaに拠る)
なお、贋作問題の直近の例としては、【AFP=時事】によれば、19世紀の画家ビンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van GoghVincent、1853年3月30日 – 1890年7月29日)の「失われた」スケッチブックとされる作品の真贋性をめぐる論争が昨日、11月17日、新たな局面を迎えた。作品を本物と考える専門家らが、贋作と一蹴しているオランダ・アムステルダムのゴッホ美術館に対し、公開討論を要求した。専門家らは、美術館側の鑑定内容に逐一反論した上、同館がゴッホ作品の真贋を判断する「独占権」を振りかざしていると批判。一方の美術館側も主張を曲げず、AFPの取材に対し、公開討論には自信をもって臨むが、その前に「われわれが提示した質問に対する明確な回答がほしい」と要求している。本物と主張する側の中心的人物であるカナダ人美術史家のボゴミラ・ウェルシュオフチャロフ(Bogomila Welsh-Ovcharov)氏は、スケッチを偽物と疑う美術館側に強く反発。実物10点を見せたにもかかわらず、それを十分に吟味することなく、スケッチの写真に基づいて判断を下したとして、美術館を非難している。また、このスケッチブックについて「ゴッホ作品に関する全歴史のなかで最も革命的な発見」だと評価していた英国の美術学者、ロナルド・ピックバンス(Ronald Pickvance)氏(85)も、「1点目から65点目まで、全部間違いない。それ以外に言い足すことはない」として、偽物である可能性を改めて否定した。一連のスケッチは、ゴッホが耳を切り落とした場所として知られる南仏アルルで、滞在先だった有名な「カフェ・ド・ラ・ガール」の帳簿に描いたものとされる。ウェルシュオフチャロフ氏によると、カフェからは小さな日誌も見つかり、そこには耳の治療に当たったフェリクス・レー(Felix Rey)医師が「1890年5月20日、ゴッホの代理で来店し、大型のスケッチブックを残していった」との記録が残されていたという。
最後に、偽書の例を紹介しておこう。新約聖書はイエス・キリストの直接の弟子である使徒に由来するとされる正典と、それ以外の外典との仕分けが4世紀には行われている。しかし、正典中のパウロの名による14の文書中で、実際パウロの著作と現在同意されているものは8つ程である。正典中の5つのヨハネ文書のうち、4つは匿名著者の文書がヨハネに帰せられており、残りの一つはヨハネによると記されているが、その真偽が疑われているものである。なお、偽書の可能性を疑われているものは、洋の東西を問わず、枚挙にいとまがない。特に、歴史的文書、史料には数多く存在する為、注意が肝要である。
以上、長々と剽窃・盗用・盗作・偽書に関連する実例を記述してきたが、これらの事例には、経済的理由だけでは片付けられない、人間(社会)の抱える様々な負の側面が垣間見られる。先ず、佐村河内 守の例に関しては、作曲家、新垣隆が何故18年間に渡ってゴーストライターを務めていたのか、また、今回の問題に対してどう考えているのかと云う事である。さらに、真相が明らかになる以前と以後で、作品そのものに対し、専門家や世間の評価がどう変わったのかも不明である。仮に、評価が大きく落ちたとすれば、評価の信頼性が損なわれ、或る意味、佐村河内の行為を正当化する事にもなる。小保方晴子のケースで釈然としないのは、本人が未だに自らの非を認めておらず、少なからぬ人々が小保方に同情的な事である。一方で、今回の不祥事の隠れたキーマンであり、事件の渦中で自殺した、笹井芳樹(理化学研究所)に対して、小保方本人をはじめ、世間の関心が薄い点も不可解である。佐村河内、小保方、両人の事例に共通して言える事は、情報化社会と言われる今日、どうしてもっと早く二人の虚偽行為が表沙汰にならなかったのか、マスメディアのチェックがほとんど機能していなかったのは何故なのか、と云う事である。
贋作の二つの例を見て考えさせられるのは、天才的テクニックを持ちながら、何故オリジナルな自身の作品を創ろうとせず、贋作者の道を選んだかである。これに付随する問題として、作品のオリジナリティ―、画家の評価はどの様に決まるのかという難題にも直面させられる。
何れにせよ学芸の世界に於ける虚実、真贋は早晩明らかになるとしても、世間の評価を鵜呑みにせず、研究成果や作品を正当に評価する眼力を養うことが肝要である。ここで最後に、嘗て私家版「覚書」「続覚書」を読んだ某新聞社の重役が私に、『佐村河内させてもらいたいが良いか』と聞いてきた際、私は『これを出版して世に出す積りは毛頭ないので、ご自由に活用して頂いて構わない』と答えた事を付記して置く。とりあえず著作は模倣、剽窃できても、最終的に人間そのものを盗用することは不可能である。
〔30〕(2016,11,19) ~老子と『老子』~
「老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 – 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した「史記」の「老子韓非列伝」中にある三つの話をまとめた箇所に見出される。これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」)。楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)、厲郷の曲仁という場所の出身で、周国の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 – 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。荘子(紀元前369年 – 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老冉という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? – 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? – 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編でも「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)と老子に触れている。このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? – 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された「馬王堆3号」墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。これらの資料を研究した結果、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 – 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてきている。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は、その全容が公表されていないが、その結果如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすれば、どこか現実逃避の隠士思考とも読める。しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と呼びかける記述が見られ、同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子と会う話もある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。老子が言う小国寡民の国、そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このように農村の理想風景を具体的に描写しながら、老子は政治についても説いており、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主に対しその秘訣を述べ(60章)、要職者などに、名声が高まったら返って謙虚にすべきであると諭している(9章)。伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君として、神位の中でも最上位を占める三清の一柱と見做されている。漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方を晦まさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいと懇願し、老子がこれに応えたのが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。7世紀の書『三洞珠囊』には、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請い願った。老子は直ちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならない、という道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、「道」を探求する理由を明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。『三洞珠囊』によると師弟のやりとりは続き、老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が修得すべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へと出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。」
以上で、Wikipediaに拠る、老子とその著作と謂われている『老子』についての簡単な紹介を終えるが、生没年も活動時期も姓名、出身地も定かで無い人物と、その人物が書き残したと云う確かな証拠もない書物が二千数百年に亙り、中国および他の諸国の人々に少なからぬ影響を及ぼし続けていること自体、まことに稀有なことという他ない。『老子』は戦乱に明け暮れた中国の戦国時代の人々にとって、おそらく一服の清涼剤となっていたことと想われ、現代の自由競争社会に生き、世俗の価値観に支配されている人々にとっても、依然として心の拠り所となっているように思われる。嚢中の錐(「史記」平原君伝)の喩えではないが、老子は隠者として世間から超然とし、目立たぬように生涯を送ったとされているが、歴史は学芸の虚実、真贋のみならず、無名の、卓越した意識の持ち主の存在を明らかにする事もあるようである。
〔31〕(2016.11.21) ~忘恩の時代~
日本古来の神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利した後、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに色濃く残っており、氏神信仰などの地域性の強いものが多い。これらの神道では、気象、地理地形等の自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める。所謂「八百万の神々」である。厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのに相応しい環境状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り整備して行き、生活する為の知恵や知識を共有し、お互いに援け合い、人手や物を借りたり、何かやって貰った時には、何らかの形でお礼をするなど、その様なことどもが、日本の「神」の許で人々が行ってきたことであり、日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の「神」は、ときに天変地異を引き起こしたり、病や死を招き寄せたりといった「祟る」・荒魂(あらたま、あらみたま)の一面も持っているとはいえ、常日頃、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える、穏やかな「守護神」・和魂(にぎたま。にぎみたま)であった。この様な神道の感化に加え、「孝悌」を最高の徳目である「仁」を根本とする儒教(「孝悌なるものは、それ仁の本なるか」論語)の影響も相俟って、日本人は往昔より、師、祖先、父母の恩愛に対する報恩の気質があり、御盆における里帰りと墓参りは、その美風の現れである。自然の恵みに対する感謝の思いは、祭りや祀りに表出されている。対自然、対人間社会への感謝の気持ちは、「お陰さま」という言葉にも込められている。自由平等主義、個人主義の風潮に毒された現代日本社会において、今や恩愛、報恩などの言葉は死語になりつつある。自由競争社会では、「謙譲の美徳」より「自己主張」が優先され、自己は利己へと変貌・凋落し、ミーイズムが蔓延することになる。この様な社会状況にあっては、「他人を思い遣り、理解し、自律して、前向きに生きる」という、MIND・MORAL・MOTIVATIONは育ち難い。結果として、自己は利己のまま成長せず、心貧しい人間が増え、社会はその活力を失うことになる。人々が「自己中心主義」という、「意識の壁」に気付き、日本の社会が、失われたモラルと活力を取り戻し、東北・九州の震災から、のみならず、衰弱しつつある民力そのものを、復興することを願って已まない。
〔32〕(2016.11.23) ~あとがきに代えて~
(何故「覚書」を書き始め、書き続けているのか)
若い頃(10代の後半から20代の始め)に、文学少年・文学青年であった私は、詩を書き、月刊詩誌に投稿していた。「詩のスタイルは、内容に合ったものにすべきである」という持論から、様々なスタイルで詩を創作していたのを記憶している。詩誌の選者であった、『荒地』同人の木原孝一氏から、詩集の出版を勧められたこともあったが、私が家出して、それどころでは無くなったため、実現せずに終わった。今思えば、中途半端に詩集など出さなくて良かったと考えている。当時、詩と共に、折々の考えや、読書感想等をアフォリズム形式の短文で大学ノートに書き溜めていて、最終的に50冊ほどになっていたものを、捨てきれず所持し続けていた。若い頃の自分の考えがどの様に変化したか、後々折を見て確認したいと思ったからかも知れない。自分の考え到った信念が実社会で通用し、変わらずに保持し得るかどうか、試して見たいとの覚悟で家出したこともあり、これまで、2,3度読み返して、文章の出来はともかく、基本的な考えが変わっていないことを確認でき、安堵したのを覚えている。ただ、詰めが甘く、確信をもって言い切れていないのが気になっていて、そのうち暇が出来、考えが熟したら書き直そうと、密かに目論んでいた。しかし、考えが熟す気配は一向に無く、ただ、いたずらに年月だけが過ぎて行った。転機は今から3年程前に訪れた。脳梗塞を患い、半月後、奇蹟的に回復に向かい、以前は、仕事を引退したら、のんびりしようと考えていたが、(多少の後遺症は残ったものの)せっかく命拾いしたのだから、死ぬまで、出来る事を出来る限りやろうと考えを改めた。そう決心した所為か、何か付き物が取れ、身が軽くなったような気持ちになった矢先の或る日突然「人間を人間たらしめているのは、意識を意識できるからであり、意識は全ての人間的事象に関わっている」という真実に思い到った。そのとき書き留めたのが、「覚書」巻頭、(2014,02.14)に書かれた、~意識に関するメモ~である。当初は、意識論をベースに、若いころ書き溜めたノートを書き直そうかとも考えたが、過去に捉われず、新たな気持ちでやり直すことにし、思いつくままに「覚書」を書き始めた。断続的に書き記し、半年ほど経った時、突如、天啓のように意識の実相が脳裏に顕現したため、無我夢中で、これを書き執ったものが、「覚書」、
〔58〕(2014.08.26)~意識とは何か~から、
〔64〕(2014.09.04)~相互理解についての補遺~である。
これらを書き終えた時、私は長年の宿題を果たした思いであった。ユングの「深層心理学」を、その1500年以上前に先取りしていたとも云える、世親(vasubandhu)が大成した「唯識思想」に、艱難辛苦の末、ナーランダでめぐり合った、玄奘三蔵の感動もかくや、とも思われた。(ここで、念のため断わって置くと、意識の実体に関しては、宇宙のダーク・エネルギー同様、いまだ科学的に解明されておらず、今のところ、その働きを直感的に感知するほかない。)さらに、これまで、ばらばらに存在していた問題が、相互に関連し、有機的繋がりがあることも解ってきた。例えば、私は集合概念としての人間を、最大公約数としての人間と、最小公倍数としての人間に便宜的に分け、新たな意識や文化は、曲折を経て、最小公倍数としての人間から最大公約数としての人間に伝播、認識されると考えていた。一方で、司馬遼太郎は、「アメリカ素描」のなかで、文明と文化を以下の様に定義していた。『人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。』私は、アメリカ社会から導き出した、あまりにも楽観的なこの「文明と文化・論」に、釈然としないものを感じていたが、自分なりに考え、『自然も文化も進化の源泉は、その多様性にあるが、文明は平準化を専らとする。結果として世界の画一化・人工化が急速に進んでいる。世界自然遺産や世界文化遺産への関心の高まりは、自然と文化の現状に対する危機意識の現れと言ってよい。文明はいわば最大公約数としての人間の物質的豊かさを目指し、文化は最小公倍数としての人間の精神的豊かさを志向するものである。』と定義し直すことで、納得出来る結論を得ることが出来た(「続・覚書」〔16〕(2014.10.27)~現代文明と現代文化~参照)。また、ユングの「集合意識」「集合無意識」が「顕在化した時代精神」や「潜在化している時代精神」と重なることに気付き、人類の歴史に地層の様に「集合意識」や「集合無意識」が層をなして存在することを理解し、歴史を見る目を開かされたこともある。2014年2月14日から今日まで、「覚書」「続・覚書」「続々・覚書」「さらに続けて・覚書」と書き継いできたが、私は、これらを世間に公表する気は毛頭ない。(私家版を読み、出版を勧めて戴いた方々には、感謝しているが)これらは文字通り覚書として、自らの意識状態を確認する為に書いているに過ぎず、何よりも、書くことが好きで、楽しいから書いているだけである。パソコンに向かっている時の私は、キャンバスに向かっている画家の様なものである。書くことの愉悦を知ってから、あまり読書をしなくなった。展覧会で他人の絵を観てまわるより、自分の絵を描くことに没頭している画家の心境が理解できるような気がする。私が書いているのは、パスカルの「パンセ」や、モンテーニュの「エセー」に類する内容のものであるが、大きく分けて二つに分類できる。普遍的問題と時事問題とである。普遍的問題に対しては、これまで論じられてきたこととは違った角度から光を当て、新たな見解を示すように努めており、時事問題に関しては、出来るだけリアルタイムに対応し、今後明らかになることを予測し、先取りすることで、論評が的確であることを立証できるように配慮している。(同時にまた、これらの作業を通じて、意識探求の道具としての、自身の意識を研ぎ澄まし、その有効性を確認することも意図している。) 「覚書」「続・覚書」は私家版の合本として最終的に100冊程製作し、私が関わっていた新聞社の重役を始め、早稲田大学・国文科教授などの友人、知人、親戚の方々に、お配りし、目を通して戴いた。周りの人達が、どんな反応をするかちょっと試して見たくなったからである。結果は、ほぼ予想通りで、その3分の1位の人達は、全く無反応であるか、読んでみたが、難しくてよく分らない、との返事であり、迷惑そうな様子であった。その他の方々は、大方、好意的であったが、その多くが、通り一遍の感想であったことを考えると、本当に読んで理解し共感してくれたのは、ほんの一握り、精々、4,5人であったような気がする。その後に書いた「続々・覚書」と「さらに続けて・覚書」も、いずれ、私家版の合本にする予定であるが、前回の教訓を生かし、はた迷惑にならないよう、今度は、本当に読んで頂ける人にだけ、少部数、お配りする積りでいる。辛抱強く読了して頂けた事に深く感謝し、筆を擱きたい。