〔01〕(2020.01.21)
~過去・現在・未来、背景独立~
過去、現在、未来のそれぞれに過去、現在、未来がある。過去の時点での過去を「過去‐過去」、過去の時点での現在を「過去‐現在」、過去の時点での未来を「過去‐未来」とする。同様に「現在‐過去」、「現在‐現在」、「現在‐未来」、「未来‐過去」、「未来‐現在」、「未来‐未来」を想定出来る。これらを踏まえ、「過去‐現在」と「現在‐過去」との、「過去‐未来」と「現在‐現在」との、異同を考えて見るのは、意義あることと思われる。「現在‐未来」と「未来‐現在」については、想像の域で予測する他ない。
ガリレオは、「自然という書物は数学で書かれている」と言ったという。「自然を探求する物理学の書物」も数学で書かれている。素人の私見で恐縮であるが、ガリレオの「自然という書物」も「自然を探求する物理学の書物」も数学に依存しているのは紛れもない事実であり、数学は観念の産物であり、自然を有りの儘に映す鏡ではない。だとすると、そもそも数学から独立して存在できない物理学そのものが、背景独立性が無いとも言える。実験技術の進歩により、理論の正当性が認められるのは、物理学の世界では当たり前の事である。数学も物理学も、「人為的な規制から自由な」思考によって、試行錯誤を経て進歩するものと思われる。
ルカによる福音書6章27~38節で、イエスは「汝の敵を愛せよ」と言っている。敵対関係からは、相互理解は生まれない。「汝の敵を愛せよ」とは、「汝の敵を理解せよ」と言うことである。「愛する」とは「理解する」ことである。相互理解により、敵対関係から脱却する事も出来る。
〔02〕(2020.01.30) ~最澄の言葉~
Cf.最澄(767年9月15日-822年6月26日)の言葉
【天真独朗】(てんしん‐どくろう) 天台法門の奥義を表したことば。天真とは諸法の本然のすがたをいい、諸法がそのまま本覚の智体であることを独朗といったもの。最澄はこの玄旨を入唐中、道邃(どうすい)より授けられたという。
【一燈照隅 万燈照国】(いっとうしょうぐう‐ばんとうしょうこく)
【亡己利他】(もうこりた)
〔03〕(2020.02.25) ~ポピュリズム~
安倍政権の終焉が近づきつつある。政権の終わりは、日本の没落の始まりでもある。内閣府は、戦時中の大本営さながらに、経済戦争、覇権争い、少子化対策、経済格差対策、等に、虚偽の成果を垂れ流し、ポピュリズムを蔓延させた。今、新型コロナウイルスが日本に蔓延しつつある。日本は、恰も、2度目の敗戦に見舞われる危機に直面しているかのようである。結局、日本国民は、前(さき)の敗戦から、何も学ばなかった様である。
〔04〕(2020.02.29) ~パイプ喫煙とインスピレーション
日本国内は、コロナウイルスの蔓延阻止の為、安倍総理が、 小・中・高校や特別支援学校の、春休みの前倒しを来週から実施するとの決定に、騒然としている。今日は、風も無く、快晴の小春日和で、私は、ベランダで、パイプを燻らせ、日向ぼっこを楽しんでいる。今日、煙草の害のみが喧伝されているが、喫煙の効能についても、見直されてしかるべきである。喫煙の先駆者、南北のネイテイブ・アメリカンは、パイプによる喫煙を活用してきた。後にパイプによる喫煙を覚えた知識人達も、パイプの喫煙により、インスピレーションを得ている。私は、パイプで煙草を吸うのではなく、吹かすようにしているが、煙草の精神的、肉体的、効能と、その利用法についても、研究されるべきであると思われる。
新発見や傑作は、偶然生み出される事が多い。意図して、求めても、なかなか得られぬもののようである。潜在意識のふとした働きと幸運によって、齎される様な気がする。私の「覚書」も「探求ノート」も、単に運に恵まれ出来上がったものであるに過ぎず、たまたま、私が書く巡り合わせであっただけである。
〔05〕(2020.04.11) ~stanceとdistance~
世界は今、中国の武漢から発症したと言われる、新型コロナウィルスによる、パンデミックへの対応により、非常事態に陥っている。例によって、メディアでは、自薦、他薦の評論家や専門家達のコメントが溢れ、隠れていた問題が表面化して、人類に自省を促しているようにも見える。今回の災禍から、人類が何を学び、どう変わるのか、見守ってゆくとしよう。
「戸外では 鴉と鳩が 鬩ぎあい コロナが映す 人の在り様」
物事を判断する際は、stance(構え、姿勢)とdistance(距離感)が肝要である。stanceの語源は、ラテン語 (stDns (stDre)「立つ」の現在分詞)停止する場所、である。
有史以前のナチュラル・スピリット(自然的精神)と、文明化以後のア―ティフィシャル・スピリット(人工的精神)を比較検討し、ナチュラル・スピリットの実体と価値を再認識すべきである。
〔06〕(2020.04.22) ~自然淘汰と人工淘汰~
自然淘汰によって醸成された集合意識と人工淘汰によって創られた集合意識は、異質なものである。観念は人工的な精神であり、自然的精神とは言えない。
何であれ、本物と偽物の違いは、模倣出来るかどうかによる。
大事なことは、何を優先するかであり、この点で生涯ぶれない事である。
カントの観念論的倫理は、ホロ―コーストを抑止できず、ユングの集合無意識の心理学は、ナチズムが巨大カルトである事を見抜けなかった。
ダヴィンチは、科学的精神の持ち主であり、博物学者的感性は見られない。自然や風景は、人物画の背景であり、活き活きとしたものとは感じられない。一言でいえば、人間中心的ヒューマニストであり、西洋で高い評価を得ているのも尤もである。私がダヴィンチの絵画に違和感を覚えるのもこの事ゆえである。
ヒューマニズムとエラスムスに代表されるユマニスムは別物であり、ユマニスムの要諦は、寛大な精神にある。
〔07〕(2020.05.27) ~豊かな人生のために~
豊かな人生をおくるために必要なのは、知力でも体力でも財力でもない。「知恵」と「思いやり」である。「知恵」は、人間社会の既成観念から、「思いやり」は、自己中心的で狭量な精神から、人を開放し、自由にしてくれる。
〔08〕(2020.05.28) ~過つは人の習い~
過つは人の習いという。とはいえ、過ちを繰り返してはならない。自身の過ちを率直に認め、不完全な存在であることを自覚し、できる限り、過ちをおかさぬよう努めねばならない。
〔09〕(2020.06.06) ~苺月~
「苺月 欲無き天の 美しさ」
cf.「2020年6月6日は最小の満月でストロベリームーンとも呼ばれる日です。
「Strawberry Moon(苺月)」。アメリカ圏の6月の満月の呼び方で、6月はイチゴの収穫時期であり、丁度その頃に月が紅くなることが多いことから、ストロベリームーンと呼ぶようになりました。
苺の収穫時期ではないヨーロッパでは、「ローズムーン」と呼ぶ所もあります。月が赤みを帯びて見えるのは、大気の影響により、地平線近くの夕日が赤く見えるのと同じ理由になります。
夏至の月は、1年のうちで一番地平線に近い軌道を通るため赤く見えることとなります。
このストロベリームーンには、好きな人と一緒に見るとその人と結ばれるというロマンチックなうわさがあります。別名「恋を叶えてくれる月」とも言われています。気になる人がいるなら一緒に誘って月を見上げながらこのお話をしてみてはいかがでしょうか?」
〔10〕(2020.06.21) ~書物とのつき合い方~
小林秀雄は著者を理解するためには、全集で全著書に目を通すべきであると述べている。この言葉は、学者や芸術家の研究者には当てはまるかも知れないが、一般の読者には無用であり、不可能であり、時には有害でもある。例えば、カール・マルクスやカントやゲーテの全著作を読むためには、膨大な時間と労力を必要とするが、一般の生活者にそのようなゆとりはなく、必要に応じて利用すればよい。また、現代に求められる知恵の探究者にも、そのようなことで、時間を無駄にするのは、無意味である。ゴッホがミレーやレンブラントの模写に明け暮れていたら、自身の傑作を残すことはできなかったであろう。
〔11〕(2020.06.22) ~子供の本、A Few Good Men~
童話や児童文学のパラドックスは、子供ではなく、大人が書いたものであることである。したがって、大人に向けられたスパイスも含まれており、勿論、大人になっても失わなかった、童心も描かれている。
我々は、「A Few Good Men」であり続けるべく努めねばならない。たとえ、Few Good Men の世の中であっても。
梅雨時のため、このところ、雨の日が多い。今日も朝から雨である。「止まない雨はない」と嘯いて見るが、「降らない雨も、降りすぎない雨も」無いことも、また事実である。
〔12〕(2020.07.03) ~弁護士~
弁護士は、違法行為の被害者・加害者の両者の弁護を務める。善人・悪人、両者に関わらざるを得ない。それぞれの利害の為に働いている。このような仕事をしていると、善悪の判断力が鈍ってくるかもしれない。本来、法に照らして、社会正義を守るのが役割であることを忘れてはならない。
〔13〕(2020.07.15) ~知恵と愛~
不条理なこの世に生きることは、冒険であり、探検である。子供のころ、幼稚園の先生に、将来何になるのか聞かれ、探検家になる、と答えた私は、あながち、間違っていなかったのかも知れない。人生は、「知恵」と「愛」という宝探しの探検である。「知恵」という宝物を手にした?私の、「愛」を求めての探検は、まだまだ続くが、本当の「愛」は幻であり、現実には存在しないともいわれている。
紀元前後頃インドで起ったとされる、大乗仏教の教義の中の一つに『上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)』と言うものがある。菩提(ぼだい)とは菩薩になるための悟りのことであるが、煩悩即菩提ともいわれ、如意宝珠を煩悩その物として説くこともある。上求菩提(悟りを求め修行に励むこと)は「昇り龍」に、下化衆生(命あるもの全てに悟りを説くこと)は「降り龍」に譬えることもある。
私の、「降り竜」の如き「愛」を求めての探検も、結局は、自身の不完全な「愛」を見出す為の、探究となるのかも知れない。
「求めしは 夢幻か 降り竜」
尺八と造りが似ている、フォルクローレの演奏で使われる木管楽器、ケーナは、息の吹き入れ方と運指の組み合わせにより、3オクターブの音階を奏でることができるが、これらの音の強弱も吹き分けられねばならない。正しく吹かないと、音の高低はおろか、強弱は吹き分けられない。また、澄んだ音も出せない。笛一つとっても、奥は深く、人生の「知恵」と「愛」はなおさらである。
〔14〕(2020.08.08) ~コロナ禍~
コロナに豪雨に熱中症、警報アラートが呼び起こす、終戦の夏。
コロナのワクチンが出来ても、馬鹿につける薬はない。
〔15〕(2020.08.17) ~コロナ禍の子供たち~
「炎天下 鬱憤つのる 子らの声」
〔16〕(2020.08.19) ~物言えば、森盲女~
Cf.【物言えば唇寒し秋の風の解説】
【注釈】人の欠点を批判したり自分の長所を自慢したりした後は、必ず言わなきゃよかったという思いにとらわれるものである。また、そうしたことによって余計な災難を自ら招くこともある。
口を開くと秋の冷たい風が唇に触れて、寒々とした気分になることから。
松尾芭蕉の「座右の銘」にある句で、この句の前には「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」とある。
略して「物言えば唇寒し」とも。
【出典】『芭蕉庵小文庫』
「物言えば 心も乾く 熱帯夜」
「去年今年 心耳心眼 研ぎ澄ます」
「なべて世は 面舵一杯 毀誉褒貶 構わず独り 取舵を執る」

Cf.
「森盲女(しんもうじょ) 一休禅師の愛人
愁いを帯びた艶歌
森女は一休和尚の晩年彼の側に寄り添った女性である。70歳をはるかに超えた老禅師の愛人だった。
森侍者(しんじしゃ)また森盲女(しんもうじょ)とも呼ばれた。彼女は目の見えぬ者だった。その森女の面影を伝える絵姿が今に伝わっている。
朱色の小袖を着た彼女は、白い打ち掛けを身体の周囲に巻きつけるようにして座っている。傍らには鼓と杖。両眼はひっそりと閉ざされているが豊かなホオがその人柄の優しさを語りかける。だが彼女の生涯を告げるものは、ほとんど残されていない。わずかにこの絵と、一休禅師がその詩集『狂雲集』中の十いくつかの詩で「一代風流之美人」と、玉のようにいとしんだ森女のことを語っているばかりである。
文明二年(1470)11月14日。仲冬の一日である。大阪・住吉の薬師堂に出かけた一休和尚は、盲目の女性が歌うつややかな唄を聞いた。
「憂きもひととき、嬉しさも、思ひませば夢候よ」
ほかに彼女の歌うのは当時はやりの”艶歌”だった。
時代はまさに下克上の盛りである。各地に一揆は相次ぎ、家来は主人を殺した。3年前に応仁の乱が始まり相国寺(しょうこくじ)等の京の大寺が炎上、洛中の酒屋数百軒も焼かれた。兵火は山城の薪村(現・京田辺市)の一休さんの寺、まで迫った。戦乱を避け奈良・大阪を転々とする。一休和尚の聞いたのが彼女の歌だった。薬師堂で出会った盲女こそ森女だったろう・・・。
下克上乱世の時代というのは無秩序の支配する世だが、反面旧制度を打ち破ろうとするエネルギーに満ちた時代でもある。しかし、いずれにせよ世が乱れるとき、まっ先に苦しむのは力弱い者たちだ。盲目の彼女が歌う愁いを帯びた調べは、乱世の女の苦しみを告げ”毒気”に満ちた和尚のはらわたに染みとおった。
見えぬ目で優しさ見抜く
この時一休和尚は77歳。喜寿の年である。それでも行いすました高僧の風ではなく頭髪はぼうぼう、顎には無精ヒゲが伸び放題。老いてなお、不敵な面魂だった。だが森女も諸国を回りすでに40歳を超えていた。それに盲女であるだけいっそうに心の目、人の真実を見抜く力は鋭い。
かねて世間の”風変わりな大徳”とのうわさに一度は相見たいと念願していた彼女だ。見えぬ目の眼前に一休和尚の訪れを知った時、イガグリのようにとげとげしい姿の内側にある一休の心の優しさを、森女はいち早く知った。
翌年の春、住吉で再会した日、
「その気があればそばに来い」一休和尚の言葉に彼女が即座に従い、薪の里で共に暮らすようになったのもそのためだった。和尚も森女との日々に再び若さがよみがえるのを感じ、大満悦だった。
「木は凋み葉は落ちて更に春を回(かえ)す
緑を長じ花を生じて旧約新たなり
森也(しんや)が深恩もし忘却せば
無量億劫畜生の身」
また青春がよみがえったわい。もし彼女の情けを忘れるようなことがあれば恩を知らない獣と同じ、「謝森公深恩之願書」と題した詩をつくる、手放しの惚気(のろけ)ようだった。この一休の振る舞い。いかにも生臭坊主風にも見えるがそのうちにこそ一休禅師の真骨頂がある。頓知話の一休さんは機転の利いたひょうひょうとした存在だが、現実の一休宗純はとてもそんな生易しい姿でない。兄弟子には激しく噛みつき、肉食、飲酒、遊里に出没する”破戒無慙”な僧である。
彼が生まれたのは応永元年(1394)。半世紀にわたった南朝北朝の争いにやっとケリがついた二年後のことだった。一休の母は、破れた南朝方の貴族の出といわれる。後小松天皇に愛され身ごもった彼女だが、しかし天皇を害しようとたくらんだ、との中傷の犠牲になり、宮中を追われ嵯峨の民家でようやく子を生んだ。その”皇子”が幼名を千菊丸と呼ばれた一休だった。
後年、彼が容易に人を許そうとしない狷介(けんかい)の性を示すのも、高貴の身に生まれながら受け入れられなかった、出生の事情に大いにかかわりがあるのかもしれない。
六歳で寺に入った少年は、22歳厳しい教えで知られた江州堅田の大徳寺派の寺へ、禅興庵に住む華叟宗曇(けそうそうどん)の門に入った。27歳、カラスの声に大悟したと伝わる一休だが、その後の歩みは決して悟りすましたような物静かな人生ではなかった。
「狂雲面前 誰か禅を説く
三十年来 肩上(けんじょう)重し
一人加担す 松源(しょうげん)の禅」
今の世に真の禅を担うものは一休のみ、こう自負する彼は大徳寺住職を継いだ18歳年長の兄弟子養叟(ようそう)に激しい悪口を投げつける。
「養叟の子孫 禅を知らず」
「山林は風気 五山は哀ふ ただ邪師のみあって正師なし」等々と。
その一方
「他日君来って もし我を問はば、魚行酒肆(ぎょこうしゅし)また淫坊」
我は酒屋や遊里にと、彼の風狂は年とともにさらに激しさを増す状態だった。
だが彼が狂わねばならなかったのは、金で”悟り”の便を売るような同時代の堕落した僧界に、激しい批判の矢を射るためだった。自らの狂態を隠すことなくさらけ出し人間の実相を取り繕った人びとの前に突きつけ、彼らの偽りを暴くためだった。
この物狂おしい生涯を生きた一休の人生に、最後の花を飾ったのが森女である。
森女が一休のもとに来てから十年間ほど二人の仲は続いた。とはいえ、和尚は忙しい体だ。勅命を受けた大徳寺第四十八世の住持にもなれば、あるいは諸国を巡歴、焼失した大徳寺の再興に力を尽くさねばならない。また和尚は金銭に執着する人ではない。酬恩庵に帰っても手ぶらのことが多い。そのため森女は寒さに震えることにもなる。
晩秋九月、肌にしのび寄る寒さをふせぐため、彼女は村の僧から紙に渋を塗った衣を借り着することもあった。その紙衣をつけた姿が、これまた一休にはひとしお愛らしい。紙のそでもまた風流と目を細める和尚。それに昼寝の森女のホオに浮かぶ小さなえくぼ・・・。すべてに魅せられた。一休禅師は、彼女の美しさを楊貴妃に例えもした。
晩年の一休に寄り添って生きた森盲女
「おもひねの うきねのとこに うきしづむ
なみだならでは なぐさみもなし」
変転常ならない乱世を生きねばならなかった。女の悲しみを真っ直ぐに歌っている。
一方、一休禅師は
「みな人は 欲をすてよと すすめつつ
後で拾うは 寺の上人(しょうにん)」
と世の姿をなで切った。
室町時代の宗教界と世相を痛烈に批判した風狂の人、一休に本物の人間の作り方を見た森女の心眼は澄んでいた。」
参考引用掲載 京に燃えた女
〔17〕(2020.08.23) ~「悟り」再考~
「覚書」の、〔57〕(2014.08.25)~人に説くこと~、で私は、
『悟り』について、以下のように記している。
(質問)
「悟り」の境地とはどういう精神状態か
(答え)
たとえ劣悪な状況に置かれても、私利私欲を離れ、人を思い遣り利他的な行動を自然に取れること。
(私の私に対する質問)
「悟る」とはどういうことか。
(私の私に対する答え)
自己の意識が全世界の意識の「全体でもある部分であることを認識し、部分と全体が一体であることを(ホログラフィックな意識体験を通じて)体得すること。
上記、前半の(質問)と(答え)は、『悟り』というより『愛』について述べたもの、と言った方がよいかも知れない。『悟り』『愛』に関しては、いずれにしてもそれが、どのようなものであるかは言い得ても、実際に、体得することは、生身の人間にとっては不可能である。不可能であることを自覚することが『悟り』であり『愛』であり、永遠の努力目標である、とも言えるのかも知れない。
〔18〕(2020.08.24) ~自然と文明~
人間社会という近視眼的な見かたをすると、文明が人類にもたらした恩恵と影響は甚大であるかのように思われる。人類の誕生から現代にいたる、太陽系を含む地球の自然が人類にもたらした恩恵や影響と文明によるものとを比較すると、それこそ比較を絶するほど、自然によるものの方が、甚大であり、決定的である。このまま、人類による地球環境の破壊が進行すれば、近い将来、人類は絶滅を余儀なくされるものと思われる。不思議なことは、このような単純明瞭な事実を、大方の人類が認めようとしないことである。
〔19〕(2020.08.27) ~天災と人災~
コウモリ由来であるとされるコロナウイルスによって引き起こされたパンデミックを天災であると言うものがいる。最近の気候変動による豪雨や気温上昇による熱中症、海水温の上昇によるサンマの不漁等も、天災ということになるのだろうか。人類の大量死を招いた、戦争を筆頭とする災禍のほとんどは、人災によるものである。地球の環境破壊も人災によるものであり、これによって派生した、天災と誤認されている事態も、人災である。ウイルスの棲み分けを困難にしたのも、人類の自然破壊の結果である。自然破壊による人工淘汰によって、人類自体も淘汰されることになるに違いない。
〔20〕(2020.08.28) ~引き際~
本日、午後5時、安倍総理が、体調不良を理由に、辞任会見を行った。今年、6月初旬から、辞任のタイミングを計っていたようで、何とか、切りのいいところで、直面している難題を避けて、無事、辞任できたということのようで、安倍総理の表情からも、無念さは見られず、むしろ、ほっとして、晴れ晴れとしている様子が伺えた。戦後、最長の政権も達成し、かろうじて体裁は、取り繕えたようである。残り、1年の任期を肩代わりする、後任の総理は、前途多難であるが、それでも、やりたいものがいる総理という地位は、余程、魅力のあるもののようである。
〔21〕(2020.09.01) ~集合意識のレベル低下~
日本のみならず世界的に見ても言えることであるが、政界、学会、芸術・文化の諸分野において、確たる哲学・思想を持つ指導的人材がほとんどいないことが問題である、女子高校生のグレタさんが地球環境問題で脚光を浴びている事態は、この事実を、象徴するものである。日本と世界のモラル及び文化レベルは、確実に低下の一途を辿っている。その原因は、人材を生む、人々の集合意識のレベルが低下している所為である。近視眼的で利己的な人間が大勢(たいせい)を占める現在、我々は、仏教で予言されている、末法の世の最中(さなか)に生きていると言ってよい。
〔22〕(2020.09.05) ~政界~
政界は権力闘争を始めとする、欲望の渦巻く世界であり、政界に足を踏み入れたものは、綺麗ごとで渡っていくことは出来ない。政治家は、言わば、汚れ仕事である。泥中に蓮の花を咲かせねばならない。とはいえ、綺麗ぶって、生きた蓮の花を枯らせ、造花で胡麻化す輩が横行するのは、問題である。
〔23〕(2020.09.08) ~片目のジャック~
「片目のジャック」とは?「トランプのハートとスペードのジャックの絵柄が横を向いていて、片方の目しか見えないことからきているのだそうです。
こちらが見えていても、向こう側は見えない。人の気持ちは分からない、ということでしょうか。」
昨今、「片目のジャック」どころか、「盲目(めくら)のジャック」で溢れている。相手が見えておらず、自分も見えていない輩が多い。「裸の王様」ならぬ、「裸の乞食」だらけである。
〔24〕(2020.09.17) ~人生の価値~
自身の人生に満足しているか、価値観にゆるぎない自信を持っているか、本当に知りたいのであれば、過去から現在に至る世界の偉人達の誰かと、入れ代わりたいかどうか自分に問うて見ればよい。
〔25〕(2020.10.22) ~眼高手低~
「眼高手低」という熟語がある。眼は意識、手は技量、を表している。芸術作品に当てはまるものは多いが、逆に、「眼低手高」と言いたい作品も多い。「志大才疎」という熟語もあり、この言葉は、人生の諸事全般に関して当てはまるものである。
〔26〕(2020.11.04) ~ダンテとベアトリーチェ~
ダンテの「神曲」は、過去からダンテの生きた時代に至る、人間の意識を俯瞰し、意識界の諸段階を、地獄から天国までの世界になぞらえ、意識界の巡礼者ダンテが、意識の諸段階を登ってゆく物語として読める。
「ダンテは、ベアトリーチェに導かれて諸遊星天から恒星天、原動天と下から順に登っていく。ダンテは、地獄から煉獄山の頂上までの道をウェルギリウスに案内され、天国では、至高天(エンピレオ)に至るまではベアトリーチェの案内を受けるが、エンピレオではクレルヴォーのベルナルドゥスが三人目の案内者となる。天国へ入ったダンテは、各々の階梯でさまざまな聖人と出会い、高邁な神学の議論が展開され、聖人たちの神学試問を経て、天国を上へ上へと登りつめる。至高天において、ダンテは、天上の純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。」と紹介している。
ここで、気になるのは、ベアトリーチェは、結局、ダンテと共に、エンピレオに行けなかったことであり、何故なのかは、不明である。もし、私だったら、是非とも、パートナーと共に、最後まで、行を共にしたいと願わずにいられないであろう。
「魂の 高度計手に 世を渉る」