〔01〕(2018・06・12) ~「意識」と「意識論」~

ユング没後、半世紀以上経つ現在も、意識研究は、遅々として進まず、「意識」の実態も実体も明らかになっていない。危惧されるのは、科学によって、「意識」が何れ解明され、悪用される事態である。AIによる人工知能の開発に、意識研究が合体した際の、人類に及ぼす影響は、計り知れないものになることは、間違いない。現時点では、「意識探求」は、大雑把で、帰納的なものにならざるを得ないが、その程度のものでも、活用されれば、かなりの成果が期待できるものと思われる。今のところ、「意識探求」は、生涯をかけ、実体験により、検証しつつ、進めていくしか手だては無い。「意識論」は、その為の、ガイドラインであると言ってよく、判然としない点に関しては、強引な解釈を持ち込まない方が賢明である。私が、「意識論」の概略を述べるに止め、具体的事象に即して、その応用可能性を例示してきたのも、出来るだけ、解釈の自由度を保ち、間違った先入観を持ち込まない為である。「意識探求」には、様々なリスクが付き纏っている。ユングやマズロー、そして、ニーチェが陥ったのは、自己実現、自己超越、等の個人的目的に淫し、意識の全体像が見えなくなったせいである。また、意識の発現、意識活動の結果、共に、人類の様々な精神活動との境界が、曖昧であり、明確な線引きが出来ないことも、厄介である。恐らくは、原理的に、解明不可能な問題も存在し、道を間違えると、袋小路に入りかねない。ここで、念のため、「続・探求ノート」〔07〕の「意識論」素描に、若干の補足説明をし、読者の誤解を予め、防いで置きたい。先ず、個人意識・集団意識の分類は、他の意識分類とカテゴリーを異にしており、他の意識分類、全てに拘わるものである。しかも、個人意識は、集団意識から派生したものであり、飽くまでも、母体となるのは、集団意識である。但し、傑出した個人意識は、新たな文化や宗教が発生する際、集団意識を糾合する役割を果たしており、そのため後世に、傑出した個人が脚光を浴びることが多いが、それを齎した、集団意識の存在を忘れてはならない。むしろ、集団意識の方が重要であり、集団意識の「質・広がり・志向性」が、新たに発生した、文化や宗教の、その後の命運を左右すると言ってもよい。次に、日常意識である表層意識に、新たに、実存意識と解悟意識を加えた理由を述べて置きたい。先ず、指摘して置きたいのは、これ等、二つの意識は、特別な訓練、特異な信仰、特殊な環境、向精神薬等の摂取、によって齎される、超人的意識では、全く無いことである。これ等の意識は、意識に対峙する姿勢の違いから生じるものであり、ささやかな気付きを契機として生み出され、意識本来の能力を、目覚めさせるものに過ぎない。これを勘違いして、何か特別な意識体験をしたと錯覚し、至高体験、自己実現、超人意識を手にしたと思い込むと、道を踏み外し、自己破壊、狂人へと転落しかねず、マズロー、ユング、ニーチェの轍を踏むことになる。

現在、文化の低迷とモラルの低下が著しいが、その原因は、個人意識が肥大化し、Meイズムが蔓延し、集団意識の「質・広がり・志向性」のレベルが低下し、本来の活力が衰退しつつあることにあるのかも知れない。だが、油断は禁物である。集団意識は、突如として、邪悪なカルトへと変貌することがあるのもまた、歴史の証明するところである。

〔02〕(2018.06.13) ~天界を巡る同床異夢~

ボストーク1号による、世界初の有人宇宙飛行に成功した、ソビエトの宇宙飛行士、ユーリイ・ガガーリン(1934年3月9日-1968年3月27日)は、1961年4月12日、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周した。その際、「見回してみても神はいない。」と言ったとされ、帰還後、「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。」と語ったと言われている。

紀元前4世紀後半に、実在していたと推測される、『老子道徳経』の著者と目されている老子に纏わる伝説が、7世紀に書かれた、『三洞珠嚢』に描かれている。
「道教の書『三洞珠嚢』には、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。
『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。」(Wikipedia)

弟子の 満願成就 を祝い、宇宙を巡る漫遊に連れて行くとは、さすがは老子 、洒落た事をするものである。

この物語が書かれてから、約600年後、ルネサンス文化の先駆者と称せられる、ダンテ・アリギエーリ(1265年 – 1321年9月14日)は、『神曲・天国篇』を1316年頃から死の直前、1321年にかけて完成させた。ダンテは、古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、を遍歴し、ベアトリーチェに導かれ、諸遊星天から恒星天、原動天と下から順に登って行く。ダンテは、地獄から煉獄山の頂上までの道をウェルギリウスに案内され、天国では、至高天(エンピレオ)に至るまではベアトリーチェの案内を受けるが、エンピレオではクレルヴォーのベルナルドゥスが三人目の案内者となる。天国へ入ったダンテは、各々の階梯でさまざまな聖人と出会い、高邁な神学の議論が展開され、聖人たちの神学試問を経て、天国を上へ上へと登りつめる。至高天において、ダンテは、天上の純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。『神曲』では、実在の人物の名前が多々登場する。ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは、ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名である。しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝してしまう。ダンテは、それを知ってひどく嘆き悲しみ、彼女のことをうたった詩文『新生』をまとめた。『神曲』に登場するベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェを核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのは、ともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経て、2人が18歳になった時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取る。いずれにせよ、ベアトリーチェは、愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴でもあると考えられている。地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも実在した古代ローマの詩人であり、神曲の中では理性と哲学の象徴とされている。

それから更に600年の後、20世紀最大の神秘思想家とも目される、ゲオルギー・グルジエフ(1866年1月13日?-1949年10月29日)は、1000ページに及ぶ主著、All and Everything と題される三部作、『ベルゼバブの孫への話』を書き上げた。(これらは、死後、正式に出版された。)人間の成長との関係における「ワーク」と言う言葉は、グルジエフが最初に使ったものであり、近年、性格分析で使用されている「エニアグラム」は、初めて、グルジエフが世に知らしめたものである。『ベルゼバブの孫への話』は、若き日の反逆により、宇宙の中心から追放され、惑星地球にやってきたベルゼバブが、宇宙船カルナークのなかで孫に語る、人間に関する壮大な物語で、宇宙・人間・芸術・宗教・教育・等をめぐる、グルジエフの見解が、総合的に反映されている作品である。

7世紀に『三洞珠嚢』が書かれて、千数百年後、初めて宇宙に出て、地球を一周した人類の言葉が、夢も、ロマンも、思想も無い、ものであったことを思うと、感慨無量である。おそらく、殺伐とした人心を反映しているものと思われる。しかも、地球を取り巻く宇宙には、宇宙ゴミ(space debris)が溢れ、各国の軍事用・偵察衛星が周っており、気象予報に、多少寄与しているものの、自然破壊による地球温暖化等の影響により、気候変動が著しく、予報が有っても、為すすべがないのが現状である。1983年以来、活発な火山活動を続けている米ハワイ州のハワイ島、キラウエア火山が先月、5月3日に噴火、住民1700人に避難命令が出され、次いで、17日に爆発的な噴火が起き、現在も緊迫した状況が続いている。今回の噴火により、溶岩が同州最大の淡水湖に流れ込み、数時間以内に湖水が全て蒸発(6月7日までに判明)、6月5日には潮だまりで名高いカボホ湾も溶岩で埋め尽くされてしまっている。噴火から1ヶ月余が経過した6月7日・現在、約20平方キロが溶岩に覆われているという。今年に入り、キラウエア火山を始め、日本を含む、環太平洋火山帯で火山噴火が頻発しており、専門家も警告を発している。しかし、この様な天変地異の前には、千数百年前と同じように人間は無力である。一体、何のための文明の進歩であったのだろうか。何の為に何度も戦争を行い、人類は、今日まで、一体、何を学んで来たのであろうか。

([13日 ロイター]- 噴火から41日目を迎えたキラウエア火山で、13日午前に山頂が噴火し、東斜面の複数の亀裂から高さ50メートルまで溶岩が噴出した。当局は、山頂の水蒸気爆発により、付近のコミュニティで降灰が見られる公算が大きいとしている。
米地質調査所(USGS)は、13日ツイッターに、「山頂の噴火でマグニチュード5.4の地震が発生した」と投稿した。5月3日に噴火が始まって以来、マグマの移動に伴う小規模な地震は数百回に及んでいる。
現在最も活発な「亀裂8」からの溶岩流はカポホ湾に流入し続けており、レイズと呼ばれる火山性ガスが発生している。レイズは溶岩と海水が接触すると発生するもので、塩酸のミストなどを含む。
今回のキラウエア火山の噴火は、米国では1980年のセント・ヘレンズ山以来の規模。600以上の住宅を破壊し溶岩は810ヘクタールに広がり、亀裂は少なくとも22カ所確認されている。)

〔03〕(2018.06.14) ~『銀河鉄道の夜』~

前項で紹介した、時代を異にする人々は、実際にか、物語の中でか、の違いはあるが、それぞれ、地球近傍の宇宙を巡行した者達であり、また、各々、ミッションを持っていた。ガガーリンは、米ソ宇宙開発競争における、共産主義ソビエトの国威を背負い、『三洞珠嚢』の老子と尹喜は道教の、儒教、仏教、等に対する、比較優位を誇示する役割を担い、『神曲』のダンテは、基督教の神の「至高の愛」こそは、究極の真理であることを人々に教示する使命感を持し(『神曲』は、当時の著作としては珍しく、ラテン語では無く、トスカーナ方言で書かれている)、グルジエフは、宇宙人的視点から見た、人類の未発達状態を示し、自身のメソッドによる成長プログラムを実践することを勧め、併せて、自らの総合的哲学の正当性を立証する野心を抱き、各自、現実の、もしくは、仮想の、宇宙へと旅立った。ガガーリンは別として、老子と尹喜、ダンテ、グルジエフ、等は、共に人類(衆生)の救済をも目的としていたようであるが、対象である衆生が、衆生個々人であるのか、衆生全体であるのかが問題である。もしくは、彼らが、選別した者たちのみが救済の対象であるとすれば、なおさら問題である。また、救済の使命を帯びた自分達が、特別な存在であると錯覚していたとすれば、滑稽極まりないと言う他ない。もし、そうであるなら、国家の危険なミッションに、命を賭して挑んだ、ガガーリンの方が、余程、まともである。意識が意識に対峙する際、主体である意識のスタンス、客体である意識の内実、が如何に重要であるかが、多少なりとも理解して頂ければ幸いである。「星祭りの夜、居場所を失い、孤独をかみしめながら登った天気輪の丘で、ジョバンニは、銀河鉄道に乗り込み、親友カムパネルラと銀河めぐりの旅をしばし楽しむ。二人は旅の中で出会う様々な人の中に次々と生きる意味を発見して行く。旅の終わりにジョバンニはさそりの話に胸を打たれて、カムパネルラに、みんなの本当の幸いのためにどこまでも一緒に行こうと誓い合うが、カムパネルラは消えてしまう。悲しみのうちに目覚めたジョバンニは、まもなくカムパネルラが命を犠牲にして友達を救った事実を知る。この瞬間、ジョバンニは銀河鉄道の旅が何を意味していたのか気づいて、みんなの本当の幸いのために尽くすことに、生きる意味を悟った。」以上は、『銀河鉄道の夜』のあらましである。この作品は、宮澤 賢治、(1896年8月27日 – 1933年9月21日)により、1924年ごろ初稿が執筆され、晩年の1931年頃まで推敲がくりかえされて、1933年の賢治の死後、草稿の形で遺された。初出は1934年刊行の文圃堂版全集(高村光太郎ら編)であり、童話作家、宮澤 賢治の代表作と目されている。賢治は、太平洋戦争(1941年12月8日– 1945年9月2日)勃発前に、肺炎により、37歳で病死した。死後、信奉していた国柱会から、法名「真金院三不日賢善男子」が送られた。国柱会は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体で、純正日蓮主義を奉じる右派として知られ、大戦時、国粋主義運動を展開した。賢治が大戦前に病死したのは、不幸中の幸いであったかも知れない。『銀河鉄道の夜』の舞台と成った宇宙も、前項の人々が巡った宇宙より、スケールが相当大きかったようであるが、それより、ブッダやイエスを彷彿とさせる、衆生に対する姿勢の格段の違いこそは、次元を異にする程のものであったと言え、「意識の質・広がり・志向性」の相違が如実に現れている。東日本大震災の際、人々から、身近な心の拠り所として、弘法大師・空海と共に、慕われたのも、尤もであり、未曾有の大災害を前に、日本人も、しばし、正気に還ったのかも知れない。

〔04〕(2018.06.15) ~宇宙の外側・再考~

『覚書』〔48〕(2014.08.11)~宇宙の外側~で、私は、以下のように書いている。

「私の宇宙に対する興味は、子供の頃、宇宙の外側はどうなっているのだろうかという疑問をもったことから始まった。今日では、宇宙は始まりが有り、空間的にも時間的にも(時空連続体として)有限で、やがて終りが来ることも解ってきたが、その外側に関しては、いまだに未知のままである。この点に関しては、かの著名なホーキング博士も何も教えてくれていない。

果たして私の存命中に、この問題の科学的端緒が掴めるかどうかさえ不明である。ブラックホールの研究がその手掛かりになりそうな気はしているのだが。」
実は、この記述は、子供の頃の、あるエピソードがもとになっている。小学校低学年まで、農林省の役人であった、父の仕事の関係で、私は信州の田舎で過し、地元の小学校に通っていた。あるとき、理科の時間に、担任の男の先生に、「宇宙の外側はどうなっているのか」と質問し、先生が答えに窮し、「私には分らないが、突拍子も無い質問をして、授業の邪魔をしない様に」と言われた。私は、その日の残りの授業をさぼり、家に帰ってしまった。仕事から戻った父にその事を話すと、父は別に怒る訳でもなく、「それは、先生だけが分からないのでは無く、現在の科学では、まだわかっていない問題で、科学が進歩すれば、そのうち、分かるように成るかも知れない。この世には、まだまだ分からない事が沢山あり、だから勉強しているのだ」と話してくれた。父が60代後半に亡くなった際、蔵書を整理していて、ノーバート・ウイーナー(1894年11月26日‐1964年3月18日)の『サイバネティックス』の原書を見出した時、この時の父の言葉が記憶に甦ったのを覚えている。先生とのやり取りから、60年以上が経過した今日、当の問題は、解明されたであろうか。宇宙科学の進歩は、前世紀から今世紀にかけて著しく、この点に関しても、多少の進捗があったようである。はっきり分かった訳ではないが、どうゆう理由で、どのように分からないのか、が分かってきたようである。現代物理学における「宇宙」は、「物理学的な世界全体」ではなく、生成・膨張・収縮・消滅する物理系の一つである。理論的には無数の宇宙が生成・消滅を繰り返しているとも考えられている。「宇宙」は、ビッグバン理論等で統一的に説明されうる、現実的、現在的に我々が暮らすひとつの広大な世界(ユニバース)のみならず、その外側に仮想されるユニバースの複合体全体であると拡張解釈されたようである。「ユニバース」という語には「ひとつ」という意味が込められているが、最近では、宇宙について論じる時、3次元的につながった空間だけではなく、平行宇宙も含めて論じられることがある。複合的宇宙もしくは多元的宇宙という意味で「マルチバース」と呼ばれる。単一宇宙と区別して複合宇宙全体を指す場合には特に「オムニバース」ともいう。信州で通っていた、保育園の先生が、私に将来、何をしたいのかと聞くと、探検家になると答えていたそうである。その頃、2つ年上の兄が、ジュール・ヴェルヌ(1828年2月8日‐1905年3月24日)の『海底二万里』『十五少年漂流記』等の、冒険小説、SFに夢中になり、我流に脚色した話を、良く私に聞かせており、その感化を受けていたのかも知れない。「宇宙」と「意識」は、当時も今も、相変わらず、科学のフロンティアで在り続けている。私は、結局、「インディ・ジョーンズ」のインディのような冒険家にも、探検家にも、ならなかったが、かろうじて、「意識」の探求家にはなったようである。拡張された「宇宙」と「意識」における、今後の発見に期待しつつ、死ぬまで、探求の歩みを続ける所存である。

〔05〕(2018.06.16) ~堕天使の今~

小学生時代、私は科学好きの少年であったが、中学時代は、一転して、精神世界に興味が移り、とりわけ、基督教の世界観に入れ込んでいた。アウグスチヌスの『告白』『神の国』は、その当時の愛読書であった。キリスト教世界の様々な象徴のなかで、特に私の関心を引いたものは、「堕天使」という存在であった。キリスト教が旧約と呼ぶ「ヘブライ聖書」には本来、堕天使という概念は登場しない。天使の堕落伝説の早期の例は、後期ユダヤ教諸派において成立した、後に偽典と呼ばれることになる文書のひとつ「エノク書」にあらわれる。このエノクの伝承は、ヘレニズム期のユダヤ教セクトであるクムラン教団を特徴づける「善と悪の戦い」の観念とともに原始キリスト教に影響を与え、これによって堕天使の概念はキリスト教の基礎の一部となったと考えられている。天使が堕落した理由として、(神に対する)高慢によるもの、(人間に対する)嫉妬によるもの、自由意志によるもの、という、大きく分けて三つがあるが、私は、自由意志によるもの、を支持した。「神はもともと天使を自分自身を尊重させるために創造したとされるが、彼らの中にその指針に反する自由な意志を持つものがいたという。実はそれも神自身が考案したもので、指針に反する天使たちには自発的に自分を崇めさせるという試みがあった。なぜなら、神は無私から出た自分自身への愛情の芽生えに真価を見出したかったからである。だが、自由な意思を持つ天使たちに自分から従おうとする服従心など無かった。結果として、彼らは天界から追放され地上まで堕ちた天使は人間に、またさらに深く堕ちた天使は悪魔になった。その筆頭に数えられるのがアザゼルであるが、彼は地上降臨時に人間の女性と契りを結び、英雄や巨人ネフィリムを産ませた。なおかつ人間に天上の知識を授けるまでに至った。神は彼らの天使としての地位を剥奪し、アザゼルらは堕天使となった。ちなみに、この説によれば人間は天使になれるとされ、悪魔は天使に戻れるとされている。」この説に私は甚く(いたく)共感し、一時、自分は「堕天使」であると、錯認する誘惑に駆られたこともある。この強迫観念から解放された後、高校時代に私が作った詩が『堕天使の肖像』である。

  『堕天使の肖像』

俺の心には
天使と悪魔が棲んでいた
悪魔は心優しく
天使は残忍だった
悪魔は善いことをしようとし
実際に善いことをした
だが、そんなことをするのも
自分が醜い心を持っていて
其れを糊塗する為の偽善なのだと
悪魔は思っていた
気の弱い悪魔は、だんだん道化に似て来た
天使は平気で悪いことをした
天使は達と同じで罪の意識が無いので
人の心を傷つけても頓着しなかった
それでいて天使は
快活で無邪気だったので
誰からも愛されていた
自信家の天使は、だんだん独裁者に似て来た

(この詩は、実は、未完成詩であり、本来は、詩集に掲載すべきでは無かったものである。汚名返上の為、以下、ここで、完成を試みて見たい。)

歳月が過ぎ、人間界に堕ちた堕天使は
いつの間にか老人になっていた
天使の容色は衰え、誰からも相手にされなくなった
悪魔は悪魔で、次第に周りの人間達に感化され
当初の罪悪感は薄れ、神の眼差しへの畏れも消え
人々の目を盗んでは私腹を肥やしていた
悪魔は人間と仲良くすることにさえ心地良さを覚えていた
傍目には人間と何ら変わらない様に堕天使は見え
ときおり得体の知れない郷愁と衝動を覚えることはあったが
自分でも堕天使なのか人間なのか分からない程であった
だが、老人だからと言って、労わったり、軽(かろ)んじたりして
油断してはならない、機会さえあれば堕天使は
天使には戻れないにせよ、悪魔に変身することは
まだまだ十分可能なのだから

『不思議な少年』(The Mysterious Stranger 直訳は「不思議なよそ者」)は、
マーク・トウェイン(1835年11月30日 – 1910年4月21日)が、晩年に感じていたというペシミズムを前面に打ち出した内容となっている作品であり、あらすじは以下の様なものである。
「1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村の意)に、自らを「サタン」と名乗る少年が現れる。サタンは不思議な力を、語り手であるテオドール達に次々と見せる。そこにピーター神父が通り、財布を落とす。サタンはその中に大量の金貨を入れて返すが、同じころに占星術師の金貨がなくなっていたため、ピーター神父は窃盗の罪で投獄されてしまう。
その後村では次々と事件が起こる。サタンはその様子を見るたびに人間を嘲る。
そのうちにピーター神父の裁判が始まる。裁判は神父にとって圧倒的に不利なものだったが、サタンの計らいにより無罪となる。しかしサタンは神父に嘘の判決を伝えたため、神父は自分のことを皇帝と思い込んでしまう。サタン曰く、人間が幸福になるには、正気でなくなるしかないと。」
マーク・トウェインも堕天使の様な人間に、疑心暗鬼を抱いていた模様である。

〔06〕(2018.06.23) ~あとがきに代えて~

趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 – 897年)は、中国唐末の禅僧で、門弟との問答の多くが、後世「公案」となり、広く知られている。
禅語「放下著(ほうげじゃく)」は、『五家正宗讃』の趙州和尚の章にある話である。厳陽尊者という修行者が趙州和尚に問う。「一物不将来の時、如何……(仏性を体得して無一物の消息を得ましたが、今後、どう修業したらよいでしょうか)」。これに対する趙州和尚の答えが「放下著」である。再度、厳陽尊者が「既に是れ一物不将来、箇の什麼(なに)をか放下せん……既に捨てるものは何もありません、何を捨てろと言うのですか」と問い、趙州和尚が一喝する。「放不不ならば坦取し去れ……(捨てることが出来ない、その無一物を担いで去れ)」、此処に到って、厳陽尊者も「放下著」の意味に気付く。
禅は、修行により、悟り、菩提を得ても、さらに、悟り、菩提をも捨て切った、洒々落々の消息を目指すと言われる。結構な事ではあるが、悟り、菩提を志した、初心である、「私心を捨て、衆生に尽くす」という、本来の目的まで忘れ去ることは、努々(ゆめゆめ)在ってはならない。
良寛(宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 – 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は、江戸時代後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家、号は大愚であり、陶 淵明(365年- 427年11月、中国の魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者、郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれた。)とともに、私が敬愛して止まない人物である。この二人に共通するのは、自然と風雅を愛で、世俗の栄達に執着せず、自由闊達な人生を送った事である。

良寛は、晩年(70歳を過ぎて)、弟子でもある、40歳年下の美貌の尼僧、貞心尼との「相聞歌」で有名である。貞心尼は良寛の急を聞き、年の暮れの庵主の勤めを投げ出して、かけつけ、師を看とり、その際も、良寛辞世の歌となる相聞歌を交わしている。良寛は74歳で亡くなったが、この後、貞心尼は75歳で亡くなるまで、良寛の短歌、詩文の出版を行い、画家に肖像まで描かせている。書家としても高名であった良寛の墨跡、和歌、漢詩に今日、私たちが接することが出来るのは、貞心尼の御蔭である。良寛は良い弟子に恵まれ、幸せな最後を迎え、まさに仏果と言う他ない。是非、私も肖(あやか)りたいものである。
「帰去来の辞」は、陶淵明が41歳の時、いよいよ役人生活が嫌になって田舎に引きこもる、その時の気持ちを歌ったものである。
「歸去來兮(かえりなんいざ)田園 将(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる」
仕事を離れ、著述に明け暮れて早、3年、周囲を見渡して見ると、人心の荒廃が一段と進んでいるようである。ここらで、一旦、筆を擱き、荒廃した人心の建て直しの一助に、在俗遁世の妙好人として、「鍬をふるって」見ようか等と考えている今日この頃である。