目次

〔01〕(2014.12.01) ~日本の政治状況~

今月14日に衆議院の総選挙が行われる。日本の政治の問題点は、きちんとした思想・哲学を持った保守政党が存在しないことである。したがって、まともな革新政党も育っていない。国民も自分達で努力して勝ち取った権利で無い為、政治に対する認識が甘い。国民の政治に対する意識が変わらない限り、日本の政治は退化する一方であり、国勢も弱体化の一途を辿るであろう。義務教育でイギリスやフランスの歴史を学ばせ、政治教育を行うなどの対策を講じるべきである。

〔02〕(2014.12.03) ~リアリズムについて~

日常的世界は真の現実ではない。観念的世界も現実と遊離している。リアリズムとは、意識を浄化し、真の現実に目覚めることである。リアリズム芸術は、物の見方、意識の所在を極めることで実現する芸術である。表現力と同時に、表現者の境地も問われている。技芸の修業であり、精神の修養であり、心技体の修行である。
余談であるが、俳句は意識を象徴的に表現したものであり、短歌は心情を象徴的に表現したものである。
更に余談であるが、創造的活動を行う場合、過去の事例に捉われてはならない。エポック・メイキングな事を為すには、過去の柵(しがらみ)から自由にならねばならない。とりわけ、時代が大きく転換する今日に於いては、何よりも大切な心構えである。

〔03〕(2014.12.05) ~六根について~

現実認識に欠かせないのが六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)である。仏教(天台宗)では、六根清浄にならないと正しい認識は得られないとされる。六根それぞれの能力に優れた専門家も存在する。美術家、音楽家、香道家、美食家、舞踊家、道徳家などである。しかし、六根を清浄にする為には、何よりも、六根すべてに宿っている意識を浄化することが肝要である。

〔04〕(2015.03,18) ~不信の時代~

現代人は物質文明に侵され、精神的豊かさを蔑(ないがしろ)にしている。覚醒した意識の存在を疑い、過去の偉大な思想家達の言説の意味する事を理解できない。「意識の壁」のみを見ている為、その先に広がる豊かな意識界を知らず、その存在に疑いを抱いている。現代のシャーマンは絶滅危惧種の摸様であるが、私には、現代人は絶滅希望種の様に思われる。現代は不信の時代であり、それゆえにまた不幸な時代であると言えよう。
ついでながら此処で指摘しておきたいのは、象徴主義芸術の根底には、人間の表現活動の全ては意識の象徴であるという潜在的意識が垣間見られ、象徴主義から「意識を意識する」実存主義の哲学が世に出たのも、自然の成り行きであったと思われる。

〔05〕(2015.03.29) ~汝自身を疑え~

人の本性はなかなか変わらないものであるが、絶対に変わらないと決めつけるのも間違いである。意識の集合体としての人には、様々な面が在り、隠れているものも多い。何らかのきっかけで、それらが顕在化することもあり、その時、その人の本性が変化する場合もある。また何事も、すぐに結果が出なかったり、予想を裏切る結末を招いたとしても、そのことで、人を性急に判断すべきではない。後に、忘れた頃になって、その人が劇的に変化する事が無いとは限らないのだから。則天去私、やるだけやって、後は天に委ね、静かに機が熟するのを俟つことである。真心は、それが本物であれば、いつかは通ずると信じて。自身、精一杯努力もせずに、一方的に相手を責めるのは間違いである。

〔06〕(2015.03.30) ~利己心と利他心~

普段人々は大方、利己的に生きており、利他心や利他行は宗教人などに任せておけばよいと思っているふしがある。宗教人は宗教人で、その様な人々に支えられて存在していることを忘れ、利己的に生きている人々を安易に批判し、利他心や利他行を安直に説いている。現代の仏教者、例えば天台宗の座主なども、利己心を捨て、慈悲の心で他人を思いやれと、利他心、利他行を説く。しかし、はじめから自己と他者を無自覚に分けて考えていることこそが問題である。他者もまた自己であるという深理に気付いていない。そもそも、寺に籠って修行することに意味があるのだろうか。世間と離れて幾ら自己を磨いても、実際に世の中で生活してどうなるかは分からない。世の中の実生活こそが修行の場として相応しい。まして、人々を教化し、世の中を良くする為に修行しているのであればなおさらである。食材も鍋に入れなければ料理できないが、人も親しく付き合い、懐に入れなければ指導はできない。
「一隅を守り、千里を照らす。これ則ち国宝なり(照千一隅此則国宝)」
(最澄「山家学生式」)

〔07〕(2015.03.31) ~文化人・知識人の責務~

過去の精神的文化が衰退しつつある現状を嘆いている文化人や知識人は多いが、彼らは、先人を超える努力をせず、過去の文化遺産に依りかかり、文化を衰退させた張本人が自分達であることを自覚していないようである。

〔08〕(2015.04.01) ~占いについて~

占いの多くは、人の本性が変わらないことを前提にしている。これらの占いは、人の過去と現在は言い当てる事が出来たとしても、未来を言い当てる事は出来ない。人の本性も変わる可能性は有り、未来に開かれた占いこそが求められている。

〔09〕(2015.04.04) ~ノーベル平和賞~

「世界・人類が平和でありますように」という祈りの言葉をよく見聞きするが、これは人類のエゴに過ぎないように思われる。人類の未来を案ずる心もまた、人類のエゴと云ってよい。今や、人類の事のみを考えていたのでは、人類の未来は無いが、人類のエゴは此の事を見えなくしており、「人類意識の壁」と名付けても良いかも知れない。人類の問題は人類レベルでは解決しないという「ゲーデルの定理」の真実は、この場合も成り立つようである。したがって、ノーベル平和賞も人類エゴの象徴的存在と云ってよいかも知れない。

〔10〕(2015.04.07) ~霊魂と宇宙人~

あの世に於ける霊魂の存在を語る場合、その殆んどが生者から見た死者の世界である。死者が死の世界から生者に語りかける場合は、巫女など生者の口を借りてであり、直接、死者が生者に死の世界について語ることは、滅多にない。死者と地球外知的生命体=宇宙人は似ているところがある。両者共に、自分達の世界について語らず、自分達の生活について明かさない。「チベットの死者の書」は、死者を僧が正しく導くための経典であり、死者が死者の有様を述べたものではない。チベットでは輪廻転生が信じられているので、死者もいずれ生者として生まれ変わる。昨今の地球人口の爆発的増加から見て、死者の霊魂が圧倒的に不足しているように思われる。魂=心の無い人間が増えつつあるのは、その所為かも知れない。また、仮に死者の魂が甦らないと云うのであれば、死者の世界の人口密度が異常に高くなってしまい、地球は、墓場だらけになってしまうことになる。一方、人類から見た宇宙人はしばしば描かれているが、宇宙人から見た人類や、宇宙人から見た宇宙人が描かれたという話を寡聞にして聞かない。もっとも、宇宙人から見た人類も宇宙人であり、そもそも地球人もまた宇宙人である。

〔11〕(2015.04.11) ~人類の救済者~

ブッダ、イエスに帰依し、立ち返るだけでは、人類が抱えている問題は解決しない。人類の歩みと現状を見れば、ブッダやイエスと云えども人類固有の問題を、抜本的に解決し得なかった事は明らかである。人類の現実を直視し、その先を見据え、安易な解決を求めてはならない。結局、人類の抱える問題は、人類自らの手で解決する他はなく、人類を救えるのは人類しかいないのである。人類の置かれている現状を深く認識し、動じず、寛容であることこそ、真の強さである。

〔12〕(2015.04.12) ~科学の効用~

仏教哲学の宇宙観は、最近の宇宙科学の進歩によって、大方、裏付けられている。宗教と科学が同様の見解を示している場合は、迷わず、科学的判断を採用すべきである。科学は文明と文化、双方に貢献しており、人工的世界の構築と自然の探求の両者を推進する原動力となっており、その功罪も相半ばする。しかし、これは科学が良いのでも悪いのでもなく、科学を利用する人間の問題であり、科学の効用をどう生かすかは人間次第である。

〔13〕(2015.04,13) ~運命と意識~

運が良いとは、良い縁に恵まれているということである。良縁、悪縁、どちらを選ぶかは、本人次第である。したがって、人の運命は、当人が選択した結果であるとも言える。どの様な縁を選ぶかは、本人の意識の有り様によって決定する。また、縁が縁を呼ぶこともあるようで、意識と意識の間にも、親和力の様なものが働いているようである。常に意識をクリアーに保ち、良い縁を逃さない様にすることが大事である。しかし、意識の質は生まれながらにして或る程度決定付けられており、「意識の壁」もまたしかりである。人が運命と名付け、人力の及ばない、どうにもならないものと、思いこんでしまう所以(ゆえん)である。占いは意識と「意識の壁」が生まれながらにして不変であることを前提にして成り立っている。また、仏教でいう業とは「意識の壁」のことである。運命とは意識の有様(ありよう)の事であり、運命を転換するとは、意識を変える事に他ならない。

〔14〕(2015.04.14) ~人類の進化~

人間の意識には様々な面があり、人類の進化によって、良い面が優勢になるとは限らない。悪い面が優勢になることも十分に考えられ、現状を見る限り、実際にそうなっている様に思われる。進化とは良い面が優勢になることであると勘違いしてはならない。どちらの方向に進もうと、人類が自身で選択した結果であり、それはそれで仕方のないことである。

〔15〕(2015.04.16) ~善の偽善性~

友人の墓参で台湾を訪れ北投で泊ったホテル、皇家季節酒店(ロイヤルシーズンズホテル)の部屋に、聖書と共に置いてあった釈証厳の「静思語」を読んだ。彼女は、若い頃から人生の道理について熟慮し、仏門に入り、人間の業や無常を知り、真理を探究する傍ら、社会奉仕活動や慈善事業を行った。彼女は台湾のマザー・テレサと呼ばれ、70代後半の今も健在である。キリスト教、仏教を問わず、彼女の様な人達は、人類のひとりひとりが、まともな人間に成ることが最終的に世界平和を齎すので、ひとりでも多くの人が改心し、心の平和を得る事が大切であると説く。一見もっともな説ではあるが、これは性善説に基づく楽観的な考えで、この様な事で、この世から悪が消え、世界平和が実現するとは到底思えない。確かに彼女達の心は満たされ、人々を助け、有意義な人生を送っているように思われるが、そんなことで世界が良い方向に向かうのなら、もっとましな世の中が、とっくに実現していなければならない。人類の現状は、ブッダやイエスがいた頃と比較して、はるかに深刻であり、末法の世であると言いたい程である。今日、自身の心の安らぎを求め、人々に善行を施す生き方も、ある種のエゴであると言えなくもない。

〔16〕(2015.04.17) ~罪と向き合う~

人の罪を許したり憐れんだりしてはならない。神でも仏でも無い人間にその資格は無い。人の罪に対して人間は、怒り、悲しむことが出来るだけである。神や仏にしても、人々が最も悲惨な状況に置かれた際、救いの手を差し伸べる事は無かった。人々の懸命な祈りも、神や仏に聞き届けられなかったようである。悲惨な状況の最たるものは人によって人々に齎された。人の罪を許すことは、同じく人である己の罪を許すことである。そうしたい気持ちは理解できるが、罪の連鎖を断ち切る為には、決して罪を許してはならない。この世には、神も仏もいない。神や仏は人を救ってはくれない。人は自分で自分達を救うしかないのである。罪深い人や己を悲しんでもよい。だが、決して怒ることを怠ってはならない。怒りの炎を決して絶やしてはならない。だがその炎は、静かで透明なものでなければならない。人そのものではなく、人の罪に向けられた炎でなければならない。人に対しては、同じ人として、ただ悲しみを抱くべきである。あたかも、神や仏のように。だが決して神や仏を信じ、頼ってはならない。神や仏は、単に人々の意識の象徴的存在に過ぎないのだから。

〔17〕(2015.04.18) ~神は死んだ?~

「神は死んだ」と宣言したとき、ニーチェは神の正体をわかって言ったのであろうか。神とは人が人に似せて創造したものであり、人は神によって創造されたものではない。皮肉にも「神は死んだ」と宣言し、人々の信仰心を否定したことで、そこに内包していた良質な意識世界を損なう結果を招いたかも知れない。もともと実在しなかった神を葬ったことで、人々の意識に内在していた道徳的倫理的精神を弱体化させてしまったとしたら問題である。

〔18〕(2015.04.19) ~意識の諸段階~

アニミズムの神々は、地球的自然レベルの意識が生み出したものである。太陽系を視野に入れた諸宗教の神々は、人工的、人類的意識レベルの神々である。このあと人類は「神々の黄昏」を経験する。この先、人類はおそらく宇宙意識の段階に進むものと思われるが、この段階に到って、ようやく、宗教や神々はその役割を終える事になるかも知れない。

〔19〕(2015.04.20) ~エゴの諸段階~

個人意識レベルの個人的エゴ、集合意識レベルの様々なエゴ、血縁的エゴ、ムラ的エゴ、国家的エゴ、民族的エゴ、人類的エゴ、など、それぞれのエゴに起因するそれぞれの問題がある。また、それぞれに「意識の壁」が存在し、相互理解の障害となっている。人類的エゴは様々な妄想を生んでいる。霊魂、妖怪、神、宇宙人、等々。人類は果して人類的エゴを捨て、「人類的意識の壁」を超える事ができるであろうか。宗教間の争いが止まないのは、宗教が民族意識を投影し、民族的エゴを内包したものだからである。このような「集合的意識の壁」を取り除く有効な手だてはないものだろうか。

〔20〕(2015.04.24) 〜人類の未来の為にすべき事~

危機的状況に置かれている人類=地球人に、今、最も必要な事は何であろうか。人類の未来の為の最も有効な手だては何であろうか。人々に自分達が置かれている現状を正しく認識させることである。現実を先入観やドグマ無しに直視するよう促すことである。現実を正しく理解すれば、問題の所在も、解決策も自ずと見出せるはずである。誤った自己認識、現状認識からは、何も生まれない。宇宙意識の観点に立った、正しい現状認識を持つよう、人類=地球人の意識を喚起すべきである。

〔21〕(2015.04.26) ~人の死について~

自分が死んでも、世界は何ら変わることなく存在していると思うと、一抹の寂しさを覚えるが、よく考えてみると、この見方は間違いであるように思われる。私が死ぬことは、私の意識が消滅することを意味する。私は、生きているとき、私の意識が意識している世界に生きているのであり、だとすれば、私の死と共に、私の意識が意識していた世界も消滅することになる。人々の意識が千差万別である以上、人々の数だけ世界もあることになる。人はそれぞれ固有の世界に生きており、人の死と共にその世界も終焉することになるのだ。したがって、長い短いは別として、どの様な世界に生き、いかなる人生を送ったかが問題である。後悔の無い一生であればよいということであれば、答えは簡単であるが、人間存在の脆弱さゆえに、時代や、環境に翻弄され、思うに任せないのが人生の常である。地球的規模、人類的規模の危機を抱えている現在、人々の意識にも、不安と絶望の影が密かに忍び寄っている。 地球上の全ての人が死に絶える事態を招かないよう切に願ってやまない。

〔22〕(2015.04,28) ~カタストロフィ~

勤めている会社の業績が不振に陥っており、先行きが危ぶまれる状況になっても、自分の定年までは倒産しないだろうと高を括っている社員、国勢が傾き、財政が逼迫していても、自分が生きている間は何とかなるだろうと、政治に無関心な国民、地球環境が悪化しても、その影響は、何世代も先の話だろうと、環境汚染や環境破壊に無関心な人々、これらの人達は、「カタストロフィ=取り返しのつかない崩壊と不幸をもたらす出来事」が、自然界、社会を問わず、日頃、穏かに推移していたものが、突然、劇的に変化し、出来(しゅったい)することがあることを理解していないようである。歴史を紐解けば、この様な事例は、隕石の衝突や大地震などの自然災害を始め、株の暴落による大恐慌等、枚挙に暇がないことがわかる。また、この様な現象を数学的に定式化した、ルネ・トムの「カタストロフィ理論」は一時、注目を浴び、盛んに研究、議論された。しかし、大方の人々は、不都合な真実から目を逸らし、真剣に考慮せず、身を切る改革を避け、不安を感じつつも、傍観して日々を送っている。カタストロフィ=異変は、突然起こることの様に見えるが、全く予期出来ないものではなく、その徴候はそれ以前に現れている場合が多く、現実を虚心に注意深く見ていれば、大方は、予測が可能である。まともな感性があれば、その様な徴候を直感的に読み取ることが出来るはずで、事実、芸術家や思想家が予知し、警鐘を鳴らしたりしている。問題は、一般人のエゴをいかに打破し、危機意識を共有させるかである。最近の気候変動などから見て、地球環境の激変による人類の危機は、すぐそこに迫っているように思われる。早く事態の深刻さに気付かないと、それこそ取り返しのつかない事になる恐れがあり、もしかしたら、すでにもう手遅れであるかも知れない。

〔23〕(2015.05.12) ~こだわらないと云う事~

物にこだわらない、ということにこだわるのも、物にこだわっていることになる。断捨離も行き過ぎるとよくない。

〔24〕(2015.05.13) ~意識の遠近法~

意識を広げるのは良いが、些細なことを無視して良い訳ではない。人生の大方は、些細な事で成り立っているのだから。時に望遠鏡で宙を見渡し、必要に応じ顕微鏡で微細な世界を覗き、常に曇りなき肉眼で日常世界を見る、意識の遠近法を身に付ける必要がある。

〔25〕(2015.05.15) ~人類の使命~

生きている人間は意識存在である。実存とは意識存在であることを自覚する事である。意識存在である人間は、それぞれ固有の意識世界に生きている。固有の意識世界は、人類の意識界を基盤として成り立っている。卓越した意識存在は、意識界を広め深めることで豊かにしてきた。後生の使命はこれを受け継ぎ、更に発展させる事である。

〔26〕(2015.05.16) ~最強のリスクマネジメント~

最強のリスクマネジメントは組織の信頼関係を強化することである。

〔27〕(2015.06.26) ~意識力~

誤解を恐れずに言えば、意識はパワーを秘めている。空海はおそらく此の事実を認識していた。また、ネイテイブアメリカンの呪師も十分知っていたと思われる。偶然と云うには余りにもタイムリーな出来事には、意識力が関与している場合が多い。意識をコントロール出来る者は、意識力もコントロール出来るかも知れない。しかし、この能力は、乱用すると危険である。此の力の使用は、言わば格闘技の試合における禁じ手の様なものである。とりわけ、自身のエゴの為に用いることは、身の破滅を齎す事になるかも知れない。

〔28〕(2015.07.15) ~心友~

若い頃に心友と出会う事が多いのは、お互いに命以外に失う物が無く、心を許し合う事が出来るからであろうか。

〔29〕(2015.07,16) ~排除と寛恕~

排除と寛恕、人事の問題に対し、どちらの態度で臨むかを意識する事が重要である。寛恕の姿勢を貫くのは理想であるが、現実問題としては、多大な困難を伴い、難しいかも知れない。

〔30〕(2015.07.27) ~意識を変えるには~

人の意識をコントロールしたり制御することは出来ても、根本的に変える事は出来ない。人の意識が変わるのは、本人が自ら変えようと自覚したときに限られる。自覚を促す事は出来ても、自覚させる事は出来ない。文字通り、自覚とは本人が気付く事だからである。

〔31〕(2015.08.02) ~人に伝える~

何かを人に伝えるのは、それがその人の為になると確信した場合である。その為には相手を深く理解しなければならず、根気よく伝えてゆかねばならない。また、その際、ある種の愛情も不可欠である。間違っても、不特定多数の人々に伝えようなどとしてはならない。伝える必要がある人に、伝えたいことを伝えるべきである。ブッダ、ソクラテス、孔子、イエスに学ぶ事があるとすれば、この辺りの事情である。

〔32〕(2015.08.14) ~ポール・ヴァレリィ~

ヴァレリィが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説」を書いたのは、24歳の時、「テスト氏との一夜」は翌年に発表されている。これ等は、云わばヴァレリィの方法序説と言えるものでもあるが、総じて若書きの感を否めない。ヴァレリィは「カイエ」だけ書き続けて、確信が持てるまで作品を発表することを我慢出来なかった様で、「カイエ」を応用し、自分を世間にアピールする誘惑に抗し切れなかった模様である。此の事は、発表された上記二つの作品の出来にも、「カイエ」自体の質にも、少なからぬ影響を及ぼしているものと思われる。

〔33〕(2015.08.26) ~人を育てる~

人を育てる事は出来ない。自分を創ることは出来る。自分の中の他人を含めての自分を創る事も出来るかも知れない。人との縁は自分次第である。人と時間を共有する事で、人は自分を創造する事が出来る。人もまた、その人なりに自分を創造する。それぞれの器に応じ、人は人と成る。仕事は人と時間を共有する為の有力な手段ではあるが、仕事を通じて人を育てる事は出来ない。

〔34〕(2015.08.31) ~Pureであること~

Pureであることは、最高の贅沢である。様々な人生経験を経てなおPureで在り続けるのは希有な事である。人に騙され続けてもなお、人を信じる事が出来る強靭な精神力の持ち主でなければ不可能である。

〔35〕(2015.09.01) ~成功の罠~

人は失敗や挫折によって人生を損なう事があるが、成功によって人生を狂わされる事もある。人は、失敗から後悔し、挫折から這い上がろうとするが、成功するとそこに安住しがちである。偶々成功した為、道を踏み外し、本来の自分を見失う事もある。

〔36〕(2015.09.30) ~生きているということ~

パイプも愛用され、使われていないと、本来の味わいが出てこない。人も意識を働かせ、人と意識を授受していないと、実存しているとは言えない。人が生きる上で、心身の自由が担保されていることが重要である。自由意志による行為が付随して初めて、意識は本来の活動に従事する事が出来る。また、人との意識の交感も不可欠である。人と意思の疎通を図ることで、人は己が生きる世界を創造してゆく。人の集合体である組織も、活きた組織は、相互に意識を交感し、コミュニケーションを行う事で成り立っており、そこから一体感も生まれる。夫婦、家族も、愛の授受無しに、関係は存続出来ない。

〔37〕(2015.10.29) ~人の本質~

人の本質は意識である。人は意識を介して物を見、聞き、感じ、考えて日々を送っている。人の五感は意識というフィルターを通してしか働かない。たとえ、同じものを見、聞きしていたとしても、意識が違えば、同じものを見、聞きしているとは言えない。人は他人も自分と同じように見、聞きしているものと錯覚しがちであるが、ここから様々な誤解と問題が生じることになる。

〔38〕(2015.11.03) ~死について~

生があるから死がある。死は生に含まれている。死を直視し、受け入れる為には、生を精一杯、悔い無く生きる他ない。生の意義を自分なりに考え、納得した者は、死を恐れず、受け入れる事が出来る。したがって、死についてあれこれ思い煩うより、生を極めるべきである。

〔39〕(2015.11.07) ~SCHOOLの意義~

SCHOOLのラテン語の語源は余暇であり、そこから学派、学びの場という語義が派生した。ソクラテス、ブッダ、孔子、イエス等とその弟子達の活動は、SCHOOLの原点と言える。日本の塾の成り立ちも同様であることは、松下村塾などを例にとればわかる。問題は、何故SCHOOLを必要としたかである。1対1のマンツーマンでも教育は出来たはずである。私見であるが、人を育成する為には、ある特定の人格のみならず、多様な人格に触れさせる必要があり、人はその様な環境に置かれないと、触発され、自覚し、変化する事が難しい、という事情があったからではないかと思われる。人の教育環境である、人の集合体のSCHOOLもまたメンバーの成長にともないレベルアップしていく。良質なSCHOOLは、簡単に出来るものではなく、満足出来るレベルに到達するには、相応の手間暇を必要とする。SCHOOLは或るレベルに到達すると、劇的に変化することがある。たとえば、有名進学校の発展過程などは、その良い例である。人を人が意図的に育てるのは困難であるが、SCHOOLはその為の環境として不可欠である。僧院などは、もともとは、その様な場であったはずであるが、世の中から取り残され、形骸化し、時代遅れに成ってしまっている。

〔40〕(2015.11.30) ~あとがきに代えて~

「続・覚書」を書き終えた際は、言いたいことは全て言い尽したと思っていたが、現在、人類が置かれている状況を考えると、もっとストレートに踏み込んで述べておいた方が良いと思い、「続々・覚書」を著すに到った次第である。 テオドール・W・アドルノ (1903~1969)は、「文化批判と社会」のなかで「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という有名な言葉を残している。私に言わせれば、詩でも、散文でも、絵画にしても、野蛮な人間が創るから野蛮なのであり、ただそれだけの事である。(ナチスに加担したテオドール・W・アドルノは正(まさ)しく野蛮な知識人であった。)