〔01〕(2018.04.12) ~「新聞」今昔~

明治維新以後の急速な識字率の上昇に支えられ、全盛期には、日本社会で、他国に例を見ない普及率を誇り、自他共に認める「社会の木鐸」としての役割を担い、戦後日本の物心両面の復興に寄与した「新聞」も、現在、紙面の信頼は揺らぎ、購読者離れが進み、発行部数も激減し、存在感が薄れ、オピニオン・リーダーとしての地位は危うくなっている。「新聞」の全盛期を含め、40年にわたり、新聞業界に拘わってきた私としては、今日の凋落ぶりと、将来の危機的状況を目の当たりにし、今昔の感を禁じ得ない。「新聞」は、一般紙、スポーツ紙に大きく分けられ、一般紙は、(読売・朝日・毎日・日経・産経の)全国紙と(北海道・中日・西日本の)ブロック紙、(静岡・新潟日報・信濃毎日・京都・神戸・山陽の)準ブロック紙、(東奥日報・秋田魁新報・下野・上毛・神奈川・北日本・北國・愛媛・高知・長崎・熊本日日・沖縄タイムズ等の)県紙・地方紙に、分類される。日本新聞協会の発表による、2017年現在と、2000年の一般紙、スポーツ紙の各合計発行部数と世帯数を、以下に対比すると、2017年は一般紙が38,763,641部、スポーツ紙が3,364,548部、世帯数が56,221,568であり、2000年は一般紙が47,401,669部、スポーツ紙が6,307,162部、世帯数が47,419,905である。この18年間で、一般紙の合計発行部数は8,638,028部、スポーツ紙の合計発行部数は2,942,614部減少しており、1世帯当たりの購読部数も1.13部から0.75部となり、普及率も著しく低下している。因みに、同じく日本新聞協会の発表による、新聞販売所数、新聞販売所従業員数の推移をみると、2017年の販売所数は16,378、従業員数は300,909で、2001年の販売所数は21,864、従業員数は464,827であり、実にこの17年で、販売所数で5,486、従業員数で163,918減少していることになる。なお、従業員の内訳をみると、2017年では、専業が49,184名、副業が246,108名、(大学生、専門学校生などの)学生が4,252名、(18歳未満の)少年が1,365名で、2001年では、専業81,836名、副業328,893名、学生16,333名、少年37,765名、である。17年間で、専業が32,652名、副業が82,785名、学生が12,081名、少年が36,400名、の減で、専業で40%、副業で25%、学生で74%、少年で97%の減少率となっている。この数字のなかで、私が最も気になるのは、学生数の大幅な減少である。「学生」の大半は、新聞奨学生である。新聞奨学生制度は、他社に先駆けて、読売新聞が50年程前に導入し、他の全国紙・ブロック紙もこぞって追随した制度で、新聞奨学生は、主に都市部の販売店に配属され、質・量の両面で販売店の労務の安定に寄与し、同時に新聞販売店のイメージアップにも貢献した。のみならず、奨学生の中から、販売所長志願者を育成することで、販売所長の交代要員も少なからず確保することが出来た。少数ではあるが、新聞社の社員になった者もいる。昨年、12月19日に亡くなった、朝日新聞ぞうし会の創設者、岩城武氏は、独自の育成プログラムにより、新聞奨学生から多くの新聞販売店主を輩出し、その店主達で組織される、ぞうし(増紙)会を朝日新聞販売網における一大勢力へと発展させた。ぞうし会は、現在でも、朝日新聞販売網のかなめ的存在である。家出して、始めて働いた、鴬谷の朝日新聞販売店に1年間在籍していた当時、朝日新聞社の担当社員に、朝日新聞・旭町販売所への異動を勧められ、所長であった岩城氏と面会した事があった。岩城氏は歓迎してくれたが、同時期、同じエリアの東京新聞の店主が、向島の東京新聞と朝日新聞との合配店を兼営することになり、是非、店長で来てくれと頼まれ、そちらに行くことになった為、岩城氏に、断りのお詫びに伺ったところ、その気になったら来てくれと言われ、恐縮し、以来、断続的に交際するようになった。私が、中日新聞の傘下にあった東京新聞の店主を務めていた30代半ばに、休刊日増設に熱心であった東京朝日会会長の岩城氏から、東京新聞に協力要請が有り、東京新聞の販売局長が承諾したものの、名古屋地区に進出した中部読売新聞が同調しない為、中日新聞名古屋本社および中日新聞東京本社も同意できなくなり、東京新聞との合配店が多かった、朝日会との仲が険悪になり、私が仲立ちして、岩城氏と、当時、中日新聞東京本社代表であった山田一衛氏を引き合わせ、何とか和解に漕ぎつけたことがあった。全国紙5紙と東京新聞の都内の販売店が所属する、東京都新聞販売同業組合の副組合長や、全国の新聞販売店を会員とする、日本新聞販売協会の理事に、私が40代始めから出向するようになってからは、岩城氏とお会いする機会も多くなり、お会いする度に、今からでも遅くないからウチに来ないかと、冗談で誘って頂いたりしていた。その当時、日本が政・財・官のトライアングルもしくはマスメディアを加えたスクエアーによって、他国の参入を阻んでいると疑っていたアメリカからの規制緩和と自由化の圧力を受け、再販売価格維持制度の適用除外、並びに特殊指定の廃止、即売業者との暗黙の取り決めである即売綱領の破棄、等を公正取引委員会から新聞業界は迫られていた。日本新聞協会は日本新聞販売協会を通じ、自民党の新聞販売懇話会の後ろ盾により、何とか、現状維持してもらうよう、公取に働きかけていた。この頃は、私が東京都新聞販売同業組合の副組合長、日本新聞販売協会の理事で出向していた最中で、公取との話し合い、新聞懇話会との会合が頻繁に行われ、所長を務めていた三田専売所を留守にすることが多かった。出向7年目に、東京都新聞販売同業組合の改革に着手したところ、他系統の出向者達や組合事務局員の反発を受け、根も葉もないスキャンダルを流され、弁護士を入れ、彼らに謝罪させたが、失望し、私は、都内東京会の副会長を含む役職を全て辞することにした。役職から解放され、販売店経営に専念できると内心喜んでいたが、時を同じくして、懇意にしていた販売局社員で定年退職し、奨学会の事務局長を務めていた人から、奨学会が手不足になったので、協力して欲しいと要請を受けた。読売、朝日は、店主会の規模が大きく、大方、店サイドで奨学会が運営されていたが、都内東京会は、高々80店程の規模で、経費と人手の両面で、7割方、本社の援助を受けていた。学生の募集人数も、読売、朝日の1割程度で、大学生は基本的に除外し、専門学校生を主体に受け入れていた。それでも、毎年、100人程の学生を、都内の販売店に、定期的に配属していた。本社販売局から派遣された社員3名が、専属で募集業務を行い、70名位を集め、残り30名は、店主会の各ブロックで募集活動エリアを割り振り賄っていた。その当時、前述の山田一衛氏は、中日新聞代表取締役副会長として君臨しており、販売局人事を仕切っていた。丁度、前販売局長が定年となり、そのまま役付き局長で残すか、新局長と交代させるか、山田氏は迷っており、30代半ばから懇意にしていた私に助言を求めてきたので、この際、古い手法の販売政策を転換する為、新局長に変えるべきであると進言した。皮肉なことに、名古屋本社では、販売店の店主会に力が有り、奨学生の募集活動も、会主体で運営されており、名古屋本社から赴任してきた新局長は、東京本社の販売店の事情が分からず、派遣されていた3名の専属社員を奨学会から引き揚げてしまい、翌年の奨学生の配属の目処が立たなくなってしまったようである。私は、新局長に事情を説明し、取敢えず、改めて、2名の専属社員を派遣して貰い、3年程かけて教育し、以前3名で行っていた募集業務を2名で出来るようにし、その間、これまで社員が分担していた70名の穴は、私が責任を持って埋めることで、話を付けた。翌年、配属される奨学生の確保は、リクルートと各専門学校の資料請求者名簿をもとに、志望学生宅に電話し、進学相談を名目とする各家庭訪問のアポを取り付け、学生と親が在宅している土日にかけて、面談し、その後のケアを経て、内定に漕ぎつける手順で行っていた。北海道から島根県までを担当していた私は、月曜から木曜の夜に学生宅に電話し、土日の面談のアポを取り、金曜の夜に出発し、土曜の朝から車で、現地の各家庭を10軒程まわって面談した。まだ車にナビが付いていない時代で、学生の家にたどり着くのも大変であった。私は、面談中、東京新聞の奨学生を勧めることは一切せず、各社の奨学生制度の、メリットとデメリット、を説明し、学生の様々な不安を払拭することに務めた。また、夏休みの体験入学で上京した際は、私の店の、予備の部屋に泊まり、実際に、新聞配達業務を見学するように勧めた。半年間で、100人以上面談し、3年間、毎年、70人の配属ノルマを達成し、約束を果たし終え、4年目からは2人の社員に任せ、私は、募集活動からきっぱり身を引いた。突出した結果を出したことで、周囲の風当たりが強くなったことを、肌で感じていたせいもあった。この時もそうであるが、物事には潮時があり、恋愛なども、始めるより終わらせる方が難しい。後の段取りを付けたら、サッサと身を引くのが、わたしの信条であり、3店兼営していた販売店主を辞した際も、自身で段取りを付け、当初の予定通り引退した。何よりも、体調に自信が持てなくなったことが、主因であるが、盟友とも言うべき、中日新聞の中興の祖、山田一衛氏が死去されたことも要因であった。山田氏は、販売のみならず、編集の有り様についても、度々、私に意見を求めた。私の持論は、「ジャーナリストは、時代精神と人々の集合意識を察知出来なければならず、新聞も社会批判に終始するだけではなく、信念とヴィジョンを持ち、未来志向の紙面づくりをし、主婦を中心とする、女性から支持され、信頼されるようにならなければならない」というものであり、これは、今もって、変わっていない。新聞業界に携わった40年間を振り返り、東京新聞の販売政策、編集方針、東京都新聞販売同業組合の改革や日本新聞販売協会の役員人事に纏わる話、公取や小渕氏が会長を務めていた自民党新聞販売懇話会、とのやり取りに関すること等、敢えて触れていないことも多い。まだ存命中である当事者への差し障りに対する配慮と死者を鞭打つことを避けた為でもあるが、なにより、業界の一隅で、裏仕事に徹してきた私の信条にもそぐわないからである。従って、新聞業界に言及するのは、これを最後にしたいと思っている。

〔02〕(2018.04.14) ~二項対立~

「二項対立(英:dichotomy、binary opposition)とは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしていることを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。陸と海、子供と大人、彼らと我々、臆病者と英雄、男らしさと女らしさ、既婚者と独身者、白と黒、運動と静止、明と暗などのような、相対立する一対の概念を二項対立という。二項対立は、言語学者のソシュールや人類学者のレヴィストロースなどの構造主義の学者に由来する分類概念である。以下に、二項対立で注意すべきことを挙げて置く。

  1. 言葉の意味は対立する言葉と比較してはじめてわかる。
    例えば、「陸と海」の例で言うなら、「陸」は「海でないもの」、「海」は「陸でないもの」ととらえて初めて意味が明瞭になる。「陸」も「海」もそれだけで意味をなしているわけではない。
  2. 二項対立は互いに排他的だが全体のシステムを形成している。
    陸であれば海でないし、海であれば陸でない。これが排他的な関係である。しかし、陸と海を合わせると、地球の表面のすべてを網羅している。これが全体のシステムを形成しているということである。
  3. あいまいさが生じる。
    二項対立によると、あいまいさや重複が生じることがある。例えば、「陸と海」という二項対立の場合、「海辺」はどちらに入るのか。海辺は陸でも海でもあるのか、それともどちらでもないのか。また、「彼らと我々」の二項対立の場合、そのいずれにも入らない逸脱者はどうなるのか。
  4. 対立する概念には社会の価値観が反映している。
    例えば、「臆病者」と言う場合、それは暗黙のうちに「英雄」と対比されて、「臆病者は良くない」というネガティブな意味が付与されることがある。これは社会の価値観が反映しているからだ。同じことは、既婚者と対比される「独身者」、男らしさと比較される「女らしさ」、我々と比較される「彼ら」にも言える。つまり、二項対立は単に自然を描写したものというよりも、社会の価値観を帯びたイデオロギー的なものということである。

学習はさまざまな二項対立関係を学ぶことで成立するが、逆に、脱構築とは二項対立の矛盾を突き、二項対立では割り切れないものを発見することである。そもそも二項対立関係には暴力的階層関係がひそんでいるが、脱構築では両義的な言葉や主張と行為の矛盾に着目して階層関係を逆転したり無化する。二項対立では見えてこなかった盲点を発見しながら思考し続ける営為が脱構築操作なのである。社会においての諸問題の多くが二項対立から発生しており、たとえば紛争の原点などにも当てはまる。」

以上は、Wikipediaによる「二項対立」の解説であり、「二項対立」問題に対するアプローチには、このように、脱構築的、構造主義的なものがあるが、ここでは、別の観点からこの問題を考えてみたい。

今や、ニュース・情報は瞬時にインターネットを通じて、世界中に拡散し、日本では、言論の自由のもと、人々は、スマートホンを手に,Facebook、LINE、Twitter、などを利用し、お喋りに興じている。マスメディアも、憲法21条の表現の自由、取材源の秘匿、に守られ、暴露記事を連発している。人々が言葉を悪用し、弄んでいるうちに、言葉の信用は地に堕ちてしまっている。ブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)内の日記の炎上が頻繁に起き、学校での言葉の暴力によるイジメや、マスメディアによるプライバシーの侵害、記事の捏造、国会における虚偽答弁、省庁に横行する文書改竄ならびに秘匿、等の事故・事件が後を絶たない。同時に、ブラック・ハット・ハッカー(hacker)による、国家・企業機密の漏洩、個人情報の流出も深刻な問題と成っている。科学技術の進歩により齎された、情報通信の発展は、あまりにも急で、人々は、その適切な運用法を身に付ける時間的余裕がなかったようである。一方で、人類は、様々な危機的事態に直面しており、不都合な事実や真実を直視し、理解し、将来への対策を迫られているが、安直な言語ゲームに現を抜かし、人々の認識力は鈍化し、まともな言語表現力も劣化している。「近代言語学の父」といわれる、フェルディナン・ド・ソシュール(1857年11月26日-1913年2月22日)は、シニフィアン( signifiant)を「記号表現」「能記」、シニフィエ(signifie)を「記号内容」「所記」と定義し、その関係に必然性はなく、恣意的なものであると述べている。「数理論理学・分析哲学の祖」と称される、ゴットロープ・フレーゲ(1848年11月8日-1925年7月26日)は、シニフィエにあたる「意味」ないし「概念」は、「指示対象」とは必ずしも一致しないことを指摘し、「指示対象」はレフェラン(referent)と呼ばれ、区別されている。このことを踏まえ、私の「意識論」から見ると、Wikipediaの「二項対立」に関する説明は、あまりにも杜撰なものであると言わざるを得ない。このような、「Wikipedia流、二項対立」的な、単純化した表面的解釈が、物事の真の理解を阻み、軽薄な世の中を醸し出し、文化の停滞を招いているとさえ言ってもよい。例えば、「学習は(言葉による)さまざまな二項対立関係を学ぶことで成立する」とは言えないことは明らかである。「チェス」と「将棋」は、古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であると言われ、ボードゲーム、マインドスポーツの一種であるチェスは、その文化的背景から「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもあるとされ、欧米では、卓越したチェスプレイヤーは人々から尊敬されて来た。「囲碁」は、中国が発祥と考えられ、2000年以上前から東アジアを中心に親しまれている。これ等のゲームは、ゲーム理論では、「二人・零和・有限・確定・完全・情報・ゲーム」と言われ、言葉や二項対立関係による学習の埒外である。人間が2000年以上かけて築いて来た、これ等のゲーム文化は、ここ数年間で、ディープラーニングをマスターしたAIによって、制覇され、終焉の時を迎えた。文化が文明にとって代わられたと言ってもよい。言葉の世界においても、例えば、「善と悪」「意識と無意識」「主観と客観」などは、二項対立関係にあるが、対比したからと言って、それぞれの言葉の、「シニフェ・記号内容・意味・概念」も、「レフェラン・指示対象」についても、解るなどとは到底言えるものではない。最新・最深の倫理観・世界観を踏まえて臨んだとしても、完全な理解に到るかどうかは不明である。「意識と無意識」について言えば、潜在意識が意識化されたものが意識で、いまだ意識化されていないものが無意識であるとも言え、単に、意識の在る、無しの問題ではない。さらに、意識という指示対象も、それを観る意識によって違うことは、「覚書」で指摘しておいた。「主観と客観」について見ると、客観的であるとは本来、実験や観測結果などの、科学的検証に耐えたものに当て嵌まることで、それ以外は、多かれ少なかれ主観的なものであり、進歩は、人々の主観的認識を少しでも客観的認識に近づけることであるとも言える。科学は、母体と成った研究対象である自然の特性(自然は嘘をつかない)から、客観的であるべく宿命づけられている。今日の科学、および科学技術の予想を超える目覚ましい発展は、科学者や技術者が主観やシニィファンに固執せず、謙虚に研究対象である自然・現実と対峙してきた努力の賜物であるが、残念ながら、その応用と活用の仕方を決めるのは、科学者達ではない。科学以外の学問・芸術の対象が、大方、人間的事象であり、評価の基準も曖昧で、主観的要素を完全に脱却できないでいるため、遅々として進歩が見られず、停滞しており、「文明の進歩と文化の衰退」のアンバランスから生じる危機的状況を生み出す要因となっている。人類の現状を、仮に「ゲームの理論」で表せば、「多人数・実数和・有限・不確定・不完全・実体験・ゲーム」であり、人工知能・AIによって、未来に待ちうける問題を解決しようとしても、原理的に不可能である。人類の意識が覚醒し、言葉による空理・空論を脱し、自然環境・現実を直視し、より客観的に物事を理解できるように成り、科学、科学技術を含めた、学問・芸術の成果を、私利・私欲では無く、公共・公益の為に役立てることが出来るように成ることを願わずにはいられない。

〔03〕(2018.04.21) ~セクハラ事務次官と原罪~

4月18日午後7時前、財務省エレベーターホールで報道陣を前に、福田淳一事務次官が、辞任を表明した。4月12日、週刊新潮が財務省の事務方トップ、福田事務次官のセクハラ疑惑を報じ、4月18日夜、「報道ステーション」で、テレビ朝日も、セクハラ被害にあったのが、自社の女性記者であることを、公式に認めたことを受けてのことであるが、セクハラ行為自体については、否認している。(なお、信じられない行為であるが、セクハラ被害を受けた女性記者が、テレビ朝日の女性記者、進優子氏であることを、フリーの記者である堀田喬氏が、4月19日、民進党・大塚耕平代表の定例記者会見での質問の際、公表してしまったようである。)女性記者は、複数回にわたり、1対1で取材中に、福田次官からセクハラ行為を受け、自衛の為、音声を録音し、上司(松原文枝氏)にも相談したが、「(ネットなどで女性社員が特定されるなどの)二次被害を懸念した」と云う理由で、財務省に抗議しなかった為、女性記者は、週刊新潮に、録音を持ち込んだと云う。この行為を、自社の社員を守れなかったテレビ朝日が問題視しているが、勿論、問題なのは、テレビ朝日の対応の方である。財務省は、国税局長官を辞任した、佐川宣寿、前理財局長の文書改竄問題といい、不祥事続きである。本来であれば、麻生財務大臣も引責して、辞任していなければならないが、何故か、居座っている。ここで、テレビ朝日の対応などから、私が疑問に思うのは、酒癖と女癖の悪いことが分かっていた福田事務次官に、女性記者の携帯番号を知らせ、1対1で、しかも、酒席で、何故、取材させていたのかということである。テレビ朝日としては、福田氏に対して、ある種の、接待の積りではなかったのかと、勘繰りたくなる。また、同じようなことを、他局や他の報道機関も行っていたのではとも思えてしまう。折しも、アメリカでは、4月17日に、「ニューヨーク・タイムズ」紙と「ニューヨーカー」誌のセクハラ報道が、ピューリッツアー賞を受賞した直後であり、日本の後進国ぶりが、露呈してしまったと言えよう。米国務省は4月20日、約200カ国・地域を対象とした、2017年の「人権報告書」を公表、日本について「職場でセクハラが依然として横行している」と指摘、また政府の汚職や透明性の項目で、安倍政権の森友学園や家計学園を巡る問題にも言及している。さて、先日、母親の容体の事で、兄と電話でやり取りしていて、福田事務次官の件が話題になった際、兄が、「事務次官も俺達と同じ人間だ」と言ったので、違和感と驚きを禁じ得なかった。事務次官など別に、特別な人間だなどと、さらさら思っていなかったからであり、福田事務次官にせよ、佐川局長にせよ、下衆の極みであるとしか、私は思っていない。私としては、兄の意識に驚くと共に、自身の意識と世間の認識とのズレを改めて、自覚させられた。子供の頃から、世間で偉いとされている人々を、偉いと思わない性質(たち)で、疎んじられていたことなども思い返した。自身についても、得体の知れない劣等感と罪悪感に付き纏われていた。周囲で目にした、部落民や、ホームレスの人たちに対して、何故か、畏怖の感情を抱いてもいた。幼少から青年期に、ブッダよりもキリストに惹かれたのも、その所為かも知れない。イエスは、私生児として生まれ、当時、最下層の人々のなかで成長し、その人々に神の教えを説く事から始め、人間は、生まれや地位に関係なく、皆、神の視点から見れば、平等で、同じ原罪を負っていると公言して憚らなかった。その為、結局、磔に処せられてしまったが、私が、同じような行動を取らなかったのは、磔になるのが怖かったからではなく、神の存在自体に確信が持てず、イエスの「蛮勇」に、必ずしも共感出来なかったからである。イエスは神を信じていたから、強固な信念を実践し得たのか、強固な信念を保持していたからこそ、神を信じきれたのか、私には、いまだに不明である。今、私が言えることは、キリストに対しても、ブッダに対しても、ホームレスに対しても、部落民に対しても、もはや、青少年期のような、畏怖の念を抱いていない事である。青少年期、農林省の事務次官や朝永振一郎氏や志賀直哉氏といった人々と面会しても、特に畏敬の念を覚えなかった私が、キリスト、ブッダ、ホームレス、部落民、に対して抱いていた畏怖を払拭する為、彼らの置かれていた時代背景を含め、理解することに、私は、今日までの人生を過ごして来たと言っても、過言ではない。

〔04〕(2018.04.27) ~戦闘的仏教徒と曼荼羅~

「ミャンマーでは最近、過激派の仏教徒が、大きな問題なっている。
「マバタ」という過激派仏教徒団体に所属していた、パーマウカ師(54)は、以下のように言っている。
「イスラム教徒が入ってきた場所は『イスラム化』される。インドネシアを見てみなさい。以前は仏教国だったはずだ。今はイスラム教国と呼ばれている。そういう国が世界でどんどん増えている。ミャンマーは仏教の国。国民のことを第一に考えて行動している。」(2017年10月、ヤンゴン)

過激派仏教徒団体マバタは週刊紙を発行したり、ネットに頻繁に投稿したりして、イスラム教を攻撃してきた。
中心になったのは、ウィラトゥ師という人物で、「野生のゾウとは一緒に住めない」などと、イスラム教徒を非難し続けた。2003年、軍事政権下で暴動を扇動したとして逮捕され、民政移管を進めたテインセイン大統領の下で、2013年、恩赦により釈放された。以来、活動は広がりを見せ、その後、仏教徒の女性が異教徒の男性と結婚するのを規制する法律、改宗を許可制にする法律など、イスラム教徒を狙い撃ちにしたとみられる法律が次々と成立した。

2016年、アウンサンスーチー氏らが政権を奪取し、過激派仏教徒に対する対策も打たれ始めた。マバタは仏教の高僧らでつくる団体に「正式な団体ではない」と宣告され、解散。しかし、直後に名前を変え、「市民」を幹部に置いて同じような団体がつくられた。週刊紙の発行はいまだに続け、「湖で1本のヒヤシンスが瞬く間に他の植物を駆逐して水面を覆う。ベンガリ(ロヒンギャのこと)はこれと同じようなものだ」などと主張している。

多数のイスラム教徒が住むインドネシアでは、過激派仏教徒団体の中心、ウィラトゥ師の写真を掲げた人たちが、イスラム教徒ロヒンギャへの迫害に反対するデモがあった。(2017年9月、 ロイター)

逆に、ミャンマーでは、ロヒンギャを擁護したり、イスラム教徒に理解を示したりした人は徹底的に批判される。先頃ミャンマーを訪れたローマ法王でさえ、今年8月にミャンマー国内でのロヒンギャ迫害を指摘すると、「ロヒンギャ側につき、ミャンマー人に被害を与える人物だ」と糾弾された。

彼らの主張の背後にあるのは、民主化で進められている「言論の自由」である。過激派の週刊紙の記者で僧侶の男性は、「我々は事実に基づいた主張をしている。政府がこれを取り締まれば、言論弾圧だ」と広言している。

イスラム教徒ロヒンギャは、ミャンマー政府の掃討作戦が始まった8月から、60万人以上がバングラデシュに避難した。11月になっても毎日、難民が増えているという。(2017年11月)

ミャンマーでメディアを取り仕切る情報省の幹部は、「言論の自由を逆手にとられ、なかなか身動きがとれない」と言う。
さらに過激な思想を広めているのが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、数年前には考えられないくらい携帯電話が普及し、ミャンマー国内では9割の人が携帯を持っている。過激な仏教僧たちも、ツイッターやユーチューブを盛んに使い、自分たちの考えを広めている。
アウンサンスーチー氏も信頼するイスラム教団体のまとめ役で、ミャンマーでイスラム教徒の精神的な支柱にもなっている、アル・ハジー・エールイン氏は、「ミャンマーは仏教徒だけの国ではない」と語っている。(2017年9月)

「今すぐに解決するのは難しい。軍事政権時代、国民の不満をそらすため、イスラム教徒を敵視するように軍政が仕向けた。長い時間かかって仏教徒の中によどみ続けた感情だ、だが、私はアウンサンスーチー氏が本気でこの問題を解決しようとしていると信じている。彼女ができなければ、永遠に解決しないだろう」とも言っている。」

以上は、2017年12月26日付、染田屋竜太、朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員の報告である。

この様な事態を受け、仏教学者達は、平和宗教で、他宗教に寛大であった仏教の異変に驚き、仏教の原点に立ち返って、考えようとする者もいるが、現在の問題の原因を過去に求めても無意味であり、宗教の変質は、何も仏教に限った事では無く、あらゆる宗教に共通して言えることであり、宗教そのものをこそ、問題視すべきである。平和宗教と称される仏教にしても、戦闘的側面を有するのは、今に始まった事ではない。仏教が日本に伝来した、奈良、平安、時代から、寺院は後に僧兵と呼ばれる、武力集団を擁し、信長、秀吉、に非武装化される戦国時代に到るまで、一大武装勢力となっていた。では、如何にして宗教のドグマを乗り越えたらよいのか。室町、戦国、時代にかけて、武装寺院の中心的存在であった、延暦寺、高野山、の受持する密教の世界観を象徴するものとされている、「曼荼羅」を手掛かりに、考えて見たい。

「曼荼羅」には二種類あり、7世紀の中頃、インドで成立したと言われる『大日経』に基づく、胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)と、同じくインドで7世紀末から8世紀始めにかけて成立した、『金剛頂経』(経典群)という密教経典に基づいて描かれている、金剛界曼荼羅とであり、「胎蔵」は客体、「金剛」は主体表現であるとされる。『大日経』は、インド出身の僧である善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう、637年 - 735年)が、中国人の弟子の一行禅師(いちぎょうぜんじ、683年 - 727年)と共に、8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の『金剛頂経』は、『大日経』が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧である金剛智三蔵(671年 - 741年)と、弟子の不空三蔵(705年 -774年)によって漢訳されている。なお、日本密教の伝承によれば、『金剛頂経』は十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18回のさまざまな機会に説いた説法を経典としたものを、それぞれまとめて十八本に集大成した膨大なものであるとするが、金剛智三蔵と不空三蔵が訳したのはそのうちの初会(しょえ)のみであるとされ、この初会の経典を『真実摂経』(しんじつしょうぎょう)とも言う。いずれにしても、『大日経』と『金剛頂経』は同じ大日如来を主題として取り上げながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2系統の経典群の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧の恵果阿闍梨(746年 - 805年)であると推定されている。恵果阿闍梨は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師の李真に命じて両界曼荼羅等々を描かせ、空海に与えた。空海は、唐での短い留学を終えて806年(大同元年)に帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。胎蔵曼荼羅が真理を、実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を、論理的な側面、精神世界のものとして捉えている、と考えられている。曼荼羅は、仏教思想が到達した、当時、世界最高の哲学とも称すべき密教を象徴する中心的存在であり、ユングは曼荼羅から「集合無意識から自己実現」へのアイデアを得たと言われている。空海は、二十歳前後に、室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、密教の真髄を体得したものと思われる。恵果から法灯を受け継いだ空海は、20年の留学予定を2年で切り上げ、帰国し、様々な慈善活動の傍ら、日本における密教思想の普及に努めた。先の、東日本大震災の際、人々の間に甦った、弘法大師空海への傾倒は、空海が残した、精神的遺産の大きさを物語るものである。空海の存命期、頂点を極めた密教哲学は、残念ながら、その後の発展を見ずに終わってしまう。客観的世界観においては、自然科学に先を越され、精神的世界においても、科学文明の進歩に見合う進化を遂げることが出来なかった。もっとも、これは、他の宗教哲学にも言えることである。また、自然科学が幾ら発展したと言っても、自然科学者が精神的に進化した訳ではない。要は、空海の時代に、バランスが取れていた、主観と客観がアンバランスになってしまっていることが問題なのである。『胎蔵界』と『金剛界』の整合性に困難が生じてしまったようである。現代の『胎蔵界曼荼羅』を象徴する科学に、精神性が欠け、『金剛界曼荼羅』を象徴する宗教に、客観性が無い、ことが問題であり、科学の客観性に整合する精神世界を創造し、発展させ、科学を正しく活用できるようになるよう、人類は求められている。そのためには、空海の時代にはきちんと認識されていなかった、『胎蔵界』と『金剛界』を結ぶ見えない絆、『意識界』を認識し、理解し、人類が新たな覚醒へとステップ・アップする以外に、方法は無いように思われる。その手始めとして、先ずは「主客転倒」して見る事を、お勧めしたい。人は往々にして、自分が主であり、他人や自分に直接関係しない事は従である、と思いがちであり、世の中の物事や人事を主観的に見ることに慣れてしまっている。「主客は糾える縄の如し」で、人は逆に、世の中から見られ、自身もまた、世の中の構成要素でもあり、客体でもあることに無関心である。現代社会では、個人情報の流出により、個人の思考も嗜好も筒抜けにされており、「主客転倒」が横行しているが、人々は、一向に無頓着である。自身が意識の主体であると同時に、世の中もまた、様々な意識の主体で構成される、「主客入り混じった集合意識」であることを、肝に銘じて置くべきであろう。

〔05〕(2018.05.08) ~天使と悪魔~

国会で、政治と行政の不祥事が取り沙汰され、いまだに燻っているが、国際的にも、同様の事態が後を絶たない。在英国際ジャーナリスト、木村正人氏は、5月5日の 報道で、「ノーベル文学賞を選ぶスウェーデン・アカデミー(定員18人)が4日、性的スキャンダルに端を発したアカデミー自身の混乱を収拾できないため、今年のノーベル文学賞を来年のノーベル文学賞と合わせて授与すると発表した。ノーベル文学賞は平和賞と同様「政治的だ」と批判されることが多いだけに、選考や授賞の正当性が求められている。セックスと金と権力にまみれたスウェーデン・アカデミーに果たしてその正当性が認められるのだろうか。『絶対的権力は絶対に腐敗する』のが世の習いとは言うものの、ノーベル文学賞の理想主義と人道主義はいったい、どこに行ってしまったのか。」と論評している。サルトルは、この様な事態を予期して、ノーベル文学賞を辞退した訳では無いであろうが、今後、心ある作家達が、受賞を拒否するのでは無いかと危惧される。この際、ノーベル文学賞を、Wikipediaを運営する、カリフォルニア州サンフランシスコの「ウィキメディア財団」に、ノーベル平和賞を、マイクロソフト会長のビル・ゲイツと妻メリンダによって2000年に創設された、世界最大の慈善基金団体「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」に授与することを提案したい。なお、この記事で、思い起こされるのは、今世紀初頭、2002年に、アメリカ合衆国のメディアが大々的に取り上げたことをきっかけに、多くの報道が行われ、一部は訴訟にまで発展した、ローマ・カトリック教会の聖職者による児童への性的虐待問題のことである。アメリカに続いて、アイルランド、メキシコ、オーストリアといった国々でも訴訟が起き、イギリス、オーストラリア、オランダ、スイス、ドイツ、ノルウェーにおいても行われてきた性的虐待が問題となった。アメリカやアイルランド、スコットランドでは、教区司教が引責辞任に追い込まれるという異例の事態となった。これら一連の騒動により、アメリカなどでは、一度でも児童への性的虐待が発覚した聖職者は、再任することができなくなったが、職場を追われた神父らが、メディアなどの監視が行き届かない、南米など発展途上国で同様の聖職に就き、同様の事件を起こしていることがわかり、新たな問題となっている。2010年4月18日、教皇ベネディクト16世は、訪問先のマルタにおいて、虐待被害者たちと会談、涙を流して「遺憾と悲しみ」の意を表明し、祈りを捧げると共に、教会が全力で疑惑の調査を行っている事を説明し、虐待の責任者を処罰するまで調査を続け、未来の若者達を守る方策を実施すると約束した。同年5月11日、教皇ベネディクト16世は、当該問題につき「教会内部で生まれた罪により、教会が脅威に晒されている」とし、教会の責任に初めて言及した。しかし、これはポルトガル訪問の際の機中で記者団に語った発言であり、屋外ミサにおける説教では特に言及はされなかった。ベネディクト16世に代わり、2013年3月13日に新たに教皇となったフランシスコは、2013年4月5日にこの問題に関して「断固とした対応をとる」という声明を発表した。子どもへの性的虐待が原因で2011、2012両年に教会から解任処分などを受けた聖職者は384人に達したという。しかも、2018年1月8日の「Keystone」の報告によると、スイス・カトリック教会のセクハラへの取り組みは、未だ道半ばであり、近年、性的暴行被害の申告数は、急増しているとも言われ、地元メディアの報道によれば、2010年以降、スイスのカトリック教会で起きたセクハラ事件の数は、報告されたものだけで250件に上り、この中には成人に対するものが相当数含まれる事も明らかに成っている。

権力・権威による犯罪が問題となっているのと同時に、一般大衆による暴動事件も起こっている。「本年、5月1日、フランス全土でメーデーのデモが行われ、複数の情報によると14万人から20万人が参加し、デモは大規模な暴動に発展した。例えば、パリの行進ではマスクをかぶった約1200人の若者がレストランやカフェのショーウィンドーを割り、ファーストフード・チェーン「マクドナルド」を襲撃、車両に放火した。警察は当初反応しなかったが、鎮圧のために催涙ガスを使用したり、放水を行うこととなった。」と『スプートニク日本』は報じている。今回の事件で想起されるのは、1789年10月5日から6日にかけて、ルイ16世をパリに引き戻すために、市民が暴徒化してヴェルサイユへ進撃した出来事(ヴェルサイユ行進)である。同月10日、『フランス革命の考察』の著者、エドマンド・バーク(1729年1月12日‐1797年7月9日)は、息子リチャード宛ての手紙の中でこう記している。「フランスのゆゆしき宣言(人間と市民の権利の宣言のことで、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記したもの)においては、まるで人間社会を構成する要素がみな解決したかのように思われたが、逆に、怪物のような世界が生成されようとしている」。「メーデー」とは本来、五月祭を意味し、この日に夏の訪れを祝う祭がヨーロッパの各地で催されてきた。この祭では労使双方が休戦し、共に祝うのが慣習であったが、これが近代に入り、現在の「メーデー」へと転化し、今日の「労働者の日」メーデーが誕生したといわれ、暴動とは真逆の祭典であった。

以上の様な世界情勢を見ると、権威機関から大衆にいたるまで、精神的貧困とモラル意識の低下が進行しており、人類は恰も、滅亡への坂道を転げ落ちているかのように思われる。ポール・ヴァレリー(1871年10月30日-1945年7月20日)の「精神(esprit)の危機」は、「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」という一文から始まる。書かれたのは1919年、第一次世界大戦が終わった直後である。現代文明に対して彼が抱いた危機意識は、社会全体の組織化・平準化によって個人それぞれの精神的自由が奪われていく処にあると言える。『方法的制覇』では、経済的・軍事的大国として台頭しつつあるドイツにプロトタイプを見出しており、ナチス・ドイツの台頭と、ヒトラーの独裁を予見しているかのようである。また、「結局、近代生活の条件は不可避的に、容赦なく、個人を平準化し、個性を均等化する方向に向かうだろう。平均値が向かうところは、残念ながら、必然的に最低水準の範疇に属するものである。悪貨が良貨を駆逐するのだ。」(「精神」の政策)とも述べ、「要するに、精神が自分を見失い、自らの主要な特性である理知的行動様式や、混沌や力の浪費に対抗するモラルを、政治システムの変動や機能不全により、もはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的に、ある一つの頭脳・権威が、可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。」(独裁という観念)とも警告している。

ここで、ヴァレリーの警告にも拘わらず、第二次大戦とホロコーストの大惨事を齎したナチス、ヒトラーについて、若干、触れて置きたい。何よりも不思議なのは、何故、ドイツ国民は、ヒトラーの扇動に乗り、ナチス政権に加担したのかということである。勿論、軍部の主張に付和雷同した日本国民に付いても同様の事が言える。何故なら、国民の支持なしに、世界大戦という奇っ怪で、大それたことは、為し得なかったはずだからである。深層意識として、地下のマグマのように蓄積されていた、国民の集合無意識が、社会情勢の悪化により、ヒトラーのナチスによる結晶化作用を経て、顕在化し、巨大な集合意識へと成長したものと思われる。ホロコーストに付いても同様のことが指摘できる。当時、ユダヤ系ディアスポラは、二種類に大別されていた。東欧系ユダヤ人(アシュケナジム;ドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫、言語はイディッシュ語=ユダヤドイツ語)と、スペイン系ユダヤ人(セファルディム; ユダヤ系のディアスポラのうち、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリア、トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した人々、およびその子孫、言語はラディーノ語=ユダヤスペイン語)である。両ユダヤ人は、ユダヤ教を信仰しており、ドイツ人は、カトリック教会から宗教改革によって分離したプロテスタント(ルター派)の信者が大勢を占め、両者は共に、旧約聖書(の大部分)を聖典として共有する。なお、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を持つ、アブラハムの宗教と言われる。ユダヤ人とドイツ人相互に、宗教的・民族的軋轢が、永年に亙り、深層意識下に蓄積されていたものが、ナチス・ドイツの意図的な誘導により顕在化し、ドイツ人を暴徒へと駆り立てたものと思われる。現在、表立ってナチスを崇拝することは、ドイツでは禁じられており、具体的に何人くらいのネオナチが、ドイツに存在しているのか、は不明であるが、ネオナチのシンボルであるスキンヘッド族は、1万人程度存在している。一説によると、いまだに、ドイツ人の20%が、何等かの形でナチス的な考えに、賛同を示しているとのことである。近年のデータで、どれくらい、このネオナチによる犯罪被害が起きているのかというと、2010年には15,000件の犯罪被害が生じている。

ロシアでは、プーチン氏が7日、モスクワのクレムリンで大統領就任宣誓を行い、通算4期目に入った。3月18日投票の大統領選で、プーチン氏は得票率76.69%と大統領選史上最高の得票率で圧勝した。しかし、就任式直前の5日に野党勢力指導者ナワリヌイ氏の呼び掛けで、ロシア各地で反政権デモが行われ、モスクワでは数千人が参加、若者を中心にプーチン政権に対する不満が蓄積されていることが浮き彫りになった。今後、ヒトラーのナチスのような独裁政権に為らないかどうか心配である。独裁政権と言えば、来たるべき米朝首脳会談に備え、このところ対米批判を控えていた北朝鮮が、「ソウル聯合ニュース」の伝える処では、北朝鮮外務省を通じ、6日、米国が北朝鮮への制裁と人権問題での圧力を加え続けている事に対し、公式に警告したと言う。北朝鮮の外務省報道官はこの日、朝鮮中央通信の記者の質問に答える形で、「北南(南北)首脳会談で採択された板門店宣言で示した我々の非核化意思に対し、(米国は)制裁と圧力の結果であるように世論を操作している」と指摘、その上で、「北朝鮮の完全な核廃棄まで、制裁と圧力を続けるとして、朝鮮半島情勢を再び緊張させようとしている」と非難した。北朝鮮は米朝首脳会談の開催が決まってから、トランプ政権に対する非難を控えていたが、今回は外務省報道官を通じ、公式に非難したことになる。水面下で進んでいた米朝間の調整に問題が生じた、との観測とともに、米朝首脳会談で優位な立場を占めるためのパフォーマンスである、との見方も出ている。日本の拉致問題解決に向け暗雲とならないか、こちらも気がかりである。また、北朝鮮に人権問題での圧力を加えている、当のアメリカ自身、トランプ大統領の就任以来、メキシコからの移民を制限したり、黒人に対する人種差別の増加を放置する等、人権問題で揺れている。

さて、ここまで、暗いニュースばかり列挙し、人間精神の負の側面を取り上げてきたが、現在の状況を齎した元凶を探り、如何に、此処から脱却するかを考えて見たい。
人間には、本来、天使と悪魔が共存しており、「欲望の(資本主義の)時代」と言われる現在、悪魔的部分が表立っては、優位を占めている。天使は博愛と善意・善行の象徴であり、悪魔は、強慾と悪意・悪行の象徴である。人の相互理解は、愛なくしては成り立たず、利己心・利己的欲望は、人を孤立させ、相互理解の障害となる。「覚書」の〔01〕で、「コミュニケーション=意思の疎通をはかるとは、意識を交感することであり、相互理解を阻んでいるのは「意識の壁」であり(「バカの壁」ではない!)、利己心を離れた愛により人は正しく意識を交感し理解しあえる様になる」と指摘して置いた。さらに〔61〕では、「人と人が理解し合う為には、何よりも、お互いに相手を理解しようと思うことが肝心である。相手を理解しようと思う心、これこそは愛である。欲望を離れた愛こそが理解である。人を愛するとは、人を理解することである。また、人と人が理解し合うとは、お互いに意識を交感しあうことである。人は母親の愛を中心とする人の愛の中で生まれ育ち人となる。人が意識界で人としての意識を獲得できるのは、愛の存在があればこそである。キリスト教の神は愛であると言われる。菩薩の愛は、慈悲である。人は生まれながらにして人から愛され、理解されることを必要とし、生涯これを求め続ける。神や仏の前で、人は無条件に愛され、理解されていると感じ、救われるようである。」とも述べている。キリスト教の神の愛は、アガペー(ギリシア語: αγάπη)と謂われ、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)に於いて、人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何らかの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛でもあり、旧約聖書には、神の「不朽の愛」として出てくる。新約聖書では、キリストの十字架上での死において顕された愛として知られる。一方、神の愛、即ち「アガペー」が、無限にして無償であることは、この世の「悪」や「悲惨」の存在からして、疑問であるとも考えられる。神が無限・無償に人間を愛しているのなら、何故、この世界には悪や悲惨や不幸や差別や貧困や、様々な矛盾が存在するのか。原始キリスト教の出現と並行して擡頭した、地中海世界でのグノーシス主義は、この世の悪の原因は、この世が元々「悪の神・偽の神」によって創造された為であるとした。グノーシス主義の主張は、その基本的な「悪の実在」に関して明晰であり、非常に説得力がある。この為、敬虔なキリスト教徒の母の元に生まれながらも、思想的に、グノーシス主義の主張に共鳴した、ヒッポの聖アウグスティヌス(354年11月13日-430年8月28日)は、東方グノーシス主義最大の教派であるマニ教の信徒となった。しかし、後にアウグスティヌスはキリスト教に回心(改心)し、キリスト教の立場から、マニ教の主張を論駁する。この世に「悪の現象が実在」する(ように感得される)、ということに対する議論の前提として、アウグスティヌスは先ず、神は世界を善によって創造したが、その世界はまた多元的な世界であることを指摘する。それ故に、世界が具体的な実在として現象する限りにおいて、人知の及ばざる神慮による、善の現れが(見掛け上)濃淡のあるものとなり、ある次元で善が実現するために、別の次元において善が実現していない様に見える事態が生じ、世界全体として、相対的に、善と悪が混在しているように感得されるのであって、「悪そのもの」は本来、実在していないとの説明を行った。これを、キリスト教神学では「(見掛け上の)善の欠如としての悪」という。私としては、グノーシス主義、キリスト教改宗後のアウグスティヌス、双方の主張共に、間違っていると思われる。神の創造に拠るかどうかは別として、人間の意識界には、天使=善を齎す愛も、悪魔=悪の元凶である慾(望)も、両者共に実在し、ときに、『愛の摂理』を逸脱した慾望が、人間に悪事を行わせていると思っている。旧約聖書の出エジプト記によると、神はモーセに、自らを「在りて在るものである」と述べたと言う。この様な、実存主義的な神が、善と悪、愛と慾望に関し、思弁的な扱いをするとは思われない。神の創造した世界を意識界に置き換えると、これ等は共に実在し、相互作用によって、天使的にも、悪魔的にも、成り得るのだと考えたい。つまり、善と悪、愛と慾望は表裏をなして居り、オセロゲームで、先手である黒石が多い局面から、最終的に、後手である白石が勝る結果となることがあるように、善と愛が人々の集合意識において、支配的になることが起こらないとは限らないのである。なお、ギリシア語には「愛」を表現する言葉が四種あり、エロース (ερως、性愛) 、ストルゲー (στοργή、家族愛)、フィリア (φιλια、隣人愛) 、アガペー (αγαπη、自己犠牲的な愛) である。もとより人は、これ等の愛によって、生まれ、育ち、成長し、人と成る。Never Give Up!『奇蹟』は、聖人の博愛と善意・善行に共感する使徒達の集合意識によって出来(しゅったい)するものであり、反対に、『奇難』は、暴君の強欲と悪意・悪行に付和雷同する手先達の集合意識によって齎される。東日本大震災の直後、日本国内に澎湃として湧き起った援け合いの意識は、『奇蹟』の顕現を予感させる出来事であった、とも言えよう。

〔06〕(2018.05.20) ~『意識論』素描~

「意識の分類」

個人意識(意識)
集団意識(集合意識)

解悟意識(覚醒意識)~宇宙意識
実存意識(自覚意識)~志向意識
表層意識(日常意識)~潜在意識を含む
深層意識(有史意識)~通常は無意識・無自覚意識
原初意識(自然意識)~本能的・生理的・身体意識

個人意識・集団意識は、個人同士、個人と集団、集団同士、で、共時的にも、通時的にも影響・干渉・共鳴し合っている
意識は、「(本能的・文化的)愛と欲求」により表出する。
意識は、感情という衣装を纏い発露する。意識は憑依している感情により、善意にも悪意にもなる。
集団意識は、原初意識から生まれ、人類の進化と共に発展した。
言葉・言語は集団意識から発生し、意識と共に共進化したものと思われる。
個人意識は集団意識から派生したものであり、集団意識の中で成長する。
理解は、対象(意識および意識の象徴)に、意識が交感し、共鳴し、共感することで成り立つ。
(個人的・集団的)人間の諸活動は、全て、意識の象徴であり、逆に、象徴的事象から、意識を読み取ることが出来る。
自然界の事物や人類共通の事象が、複数の異なる意識の象徴と成っている場合が有り、その際は、「意識」と「象徴である事物・事象」を照合し、確認する必要がある。
同時代、過去の時代を問わず、個人意識・集団意識を読み取ることは可能であるが、読み取り手の意識が対象とする意識を包含している場合に、始めて可能になる。
過去の人物の言動や作品を通して、過去の人物の意識を理解でき、過去の事蹟を通して過去の人々の集団意識を観取することができる。
個人意識・集団意識には、「広がり」「質」「指向性」があり、通時的・共時的に、個人差・集団差がある。
誤解を恐れずに言えば、意識には、直感的思考を組織化・象徴化し、未来を予知し、意識を結集する「親和力」の様な作用があり、力(エネルギー・パワー)が在り、カルト・宗教が誕生する原因ともなっている。
個人意識・集団意識は、進化することもあれば、退化することもある。
個人意識・集団意識が(創造的)進化をするとは、個人意識・集団意識の「広がり」「質」「指向性」が向上することであり、文化の発展は、これによって齎される。
個人同士・集団同士、の意識の違いが、相互理解の障害となっている。(意識の壁)
人類史上において、異なる、時代、地域ごとに、過去の集合意識が地層のように堆積しており、自然災害、人為的災禍の際、意識の地殻変動により、過去の意識層が露出することがある。また、過去の意識層には、多様なコンプレックスが内包されており、火山の噴火同様、どのような形で現れるかは、完全には予測できない。

以上、現時点での私の『意識論』の概略を、簡潔に纏めて見た。今まで、慣例に従い用いていた用語を、この機会に、明確にするため、大幅に改めてある。

〔07〕(2018.05.23) ~人間・意識・宇宙~

三十五歳のシッダ―ルタは、ガヤ―地区のほとりを流れるナイランジャナ―川で沐浴したあと、村娘のスジャ―タから乳糜(にゅうび)=乳粥(ちちがゆ)の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹(菩提樹)の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)。「師」と仰ぐ「欅の老木」と出会い、親炙したお陰かどうかは、不明であるが、私は、十代後半に、幸か不幸か、決定的とも言うべき、「解悟意識」体験をし、意識探求の道に踏み出した。物事に取り組む際、出来るだけ、白紙で臨むのが、私のモットーであった為、先ず、自身の考えをゼロから纏めることに専念した。二十代はじめ、ある程度、自分なりの、「意識論」の概略が見えてきた後に、自身の見解を、過去の文献に当り、テストし、検証する為、仏教哲学の「唯識」、「ユング心理学」の順に、目を通した。この章では、前章に掲げた、現時点での私の「意識論」の補足説明を兼ね、それぞれの「意識観」に対する、私の考えを述べる積りである。

玄奘(602年 – 664年3月7日)は、629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って、645年に経典657部や仏像などを持って帰還、以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。インドではまた、ナーランダ大僧院で、戒賢に師事して「唯識」を学んだ。「唯識」は、釈迦滅後、千年程経った、4世紀頃、部派仏教から大乗仏教が分かれて後、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経』『大乗阿毘達磨経』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論」を、世親は「唯識三十頌」「唯識二十論」等を著した。世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ(Nālanda)の大僧院において、唯識はさかんに研究された。帰朝後、玄奘が、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論』である。この書を中心にして玄奘の弟子の慈恩大師基(もしくは窺基)によって法相宗が立てられ、中国において極めて論理学的な唯識の研究が始まった。実質的な開祖は基であるため、法相宗では玄奘を鼻祖と呼び、分けている。その後、玄奘の訳経と知名度等により中国で、法相宗は隆盛を見た。法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって、日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ、南都六宗のひとつとなった。その伝統は、主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受け継がれ、江戸時代には、優れた学僧が輩出し、倶舎論と共に仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。私が「唯識」に取り組んだのは、二十代始めであったが、仏教哲学の精緻さと、インド思想の奥深さに、衝撃を受けたのを覚えている。意識の解悟体験後、自分なりに意識論を纏めていたものの、「唯識」の呪縛から抜け出すのに、半年ほど費やすことになった。「唯識三年倶舎八年」と言われるのも、もっともであると思われた。また、今から、千五百年も前に、現代の大学の哲学科に引けを取らない、人間学が講じられていたことに、驚きを禁じ得なかった。玄奘が命を賭して学びに行っただけの事はあると、納得すると共に、現代の日本で、簡単に「唯識」に接することが出来る幸いを痛感し、先人への感謝の念を覚える事しきりであった。同時に、仮に、不完全なものではあったが、自分なりの「意識論」を持たずに、「唯識」に臨んだら、どうなったことかと、慄然としたことも確かで、まかり間違えば、興福寺あたりで、「唯識」「倶舎」の学習に明け暮れることになったかも知れない。一方、その後の、「ユング心理学」との出会いは、「唯識」のとき程の、感銘は受けなかった。丁度その頃、「ユング心理学」は、翻訳され、日本に紹介されたばかりであったが、逆に、「ユング心理学」に先立つ事、千数百年前、「唯識」によって、「ユング心理学」が先取りされ、より明確な論を展開していることを知り、驚愕させられたのをおぼえている

次に、これから展開する、「唯識」並びに「ユング心理学」に対する見解は、「意識論」素描を踏まえたものであることを、予め、お断りしておきたい。
意識研究に拘わる文献の解読に際し、心得て置かなければならないことがある。
人間のあらゆる活動が意識の象徴である以上、意識研究の文献もまた、著者・著者達の意識の象徴であり、著者・著者達の意識状況を判読できて、はじめて著作である文献の解読も可能になる。逆に、著作を通して、著者・著者達の時代的、地域的制約を含め、意識状況を理解することが不可欠である。意識研究の場合、意識が意識を研究することになり、この様な配慮が殊更もとめられ、重要となる。次に、どの様な意識を対象として研究しているのか、見分ける必要がある。個人的意識なのか、集団的意識なのか、通時的に、どの様な年代幅の意識を念頭に置いているのか。共時的に、どの範囲の人間集団を対象としており、どの階層構造の意識までを扱っているのか、等である。地球上における、生命の誕生は、40億年程前に遡り、真核生物は20億年前、多細胞生物は10億年前、その後、絶滅・繁栄の紆余曲折を経て、ホモ・サピエンスの出現は、20万年前、文化を持つ現代人が現れたのは、5万年前である。生物学的意識が生まれたのは、いつ頃で、人類の集合意識が、いつ頃発生し、言語・文化と共にどの様に進化し、個人意識が、どの様に芽生え、成長したのか、等は不明である。しかも、文化を持つ以前と以後とでは、自然的進化と文化的進化で、進化の速度も、内容も異なっている。また、居住していた自然環境、文化環境の違いにより、集団意識間の相違も出て来る。
以上の前提を考慮し、「唯識」並びに「ユング心理学」を見ていくことにする。

日本の法相宗で学ばれている「成唯識論」は、玄奘が世親の著作「唯識三十頌」を漢訳したものである。世親は部派仏教の説一切有部から大乗(唯識派)に転向したとも、元々、瑜伽行派の学匠であったとも言われている。何れにせよ、仏教が、小乗・部派仏教から大乗仏教へ向かう、転換期の人物であり、彼がいた時代は、釈迦没後、すでに、千年ほど経過していた。釈迦は、クシャトリアのシャーキャ族の出身であり、生没年は定かではないが、紀元前5世紀から4世紀頃、インドに実在した人物である。釈迦とほぼ同時代に、ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)など、バラモン教の祭儀重視やヴェーダの権威に批判的な自由な思想家が多数輩出しており、当時(紀元前5世紀頃)のインドは、バラモン教からヒンドゥー教への移行期に当たっていた。バラモン教はインダス文明から、ヨーガやグル信仰、聖典としての「ヴェーダ」と、紀元前800年‐500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学「ウパニシャッド」、を受け継いだ。ヒンドゥー哲学の基本となる、「業」「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻転生」などの諸観念は、ウパニシャッド哲学から来ていると思われ、仏教思想にも、同様に影響を及ぼしている。バラモン教、ヒンドゥー教は、古代ギリシャの多神教やユダヤ教と同じように、始祖を持たず、教義も明確で無い、集団的・民族宗教である。現在の、ユダヤ教に関して、民族的宗教なのか、ユダヤ人が宗教的民族なのか、と言われる事があるが、これは、ヒンドゥー教にも当て嵌まることで、ユダヤ教同様に、他の宗教からの改宗も、寛容に受け入れる。ただし、ヒンドゥー教に入信した場合は、最下層のカーストに属することになる。ユダヤ教から後に、イエスを教祖とするキリスト教、ムハンマドを宗祖とするイスラム教が興り、ヒンドゥー教からブッダを開祖とする仏教、マハーヴィーラを祖師とするジャイナ教が派生した。これ等、二つの史実から、通時的に、宗教的・集合意識から宗教的・個人意識が誕生する過程が読み取れ、興味深い。また、共時的には、教祖の意識の「広がり・質・志向性」が、出自と成る集団の集合意識の「広がり・質・志向性」と相関関係を持っている事も感得される。背景的説明はこの位にして、「唯識論」の中身の検証に移ろう。全体的に、プラトン哲学の本質論に似て、観念主義的である。時代的制約なのか、悠久の大地であるインドの風土的影響なのか、同時代の、衆生の集合意識と自己の意識の観想から、意識を分類し、衆生の済度より自己の得度に重点が置かれているように思われる。恰も、宇宙が空・無から始まり、空・無に終わると言っている様で、進化の最中の宇宙に生きる人々にとっては、何等の救いも齎さない。共時的に見ても、意識・集合意識には個体差・集団差があるはずであり、時代変化と共に、意識・集合意識も変化して行くが、その辺りの視点が欠落しているように見受けられる。「修行の結果悟りを開き仏になると、八つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。」と謂われ、識である業の呪縛から、抜け出す方途が無い訳ではないが、その為に、「唯識では成仏に三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれる、気が遠くなるほど長い時間の修行が必要だとされる。」のである。これでは、衆生に、度し難い人間と言う残念な生き物は、現世においては、救いは無いのだと言っているに等しい。どうやら「唯識」の「パンドラの箱」には、「希望」さえ残って居ない様である。気付けに、私が敬愛して止まない、ブーレーズ・パスカル(1623年6月19日-1662年8月19日)の言葉を紹介して置こう。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。 空間によって、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えること(意識)によって、私は宇宙をつつむ。」-パンセ。

唯識派の思想に対抗してかどうかは定かではないが、空海の真言密教では、即身成仏は、可能だと説く。(なお、唯識派の徳一と論争した最澄と違い、空海は『十住心論』で、「唯識」の内容には、敢えて触れていない。)真言密教は、実践的・直感的で、衆生の済度と安心立命を志向する仏教である。同じ密教でありながら、法華経にもとづく、天台宗は、不立文字を標榜する禅宗や、六字名号を唱える浄土真宗を輩出したが、総じて、個人救済を目指す仏教であり、大乗から小乗に逆戻りした感がある。真言密教は、慈善事業を行い、護摩法要を催し、立体曼陀羅を開示する等、衆生に親炙し、直感的意識に働きかけ、宗徒の数を競わず、謂わば、人々の記憶(集合無意識)に残る仏教であることを心掛けた。先の東日本大震災の際、日本国内に澎湃として湧き起った弘法大師・空海への傾倒は、はからずも、この戦略の正しさを立証するものである。真言密教はヒンドゥー教など他宗の神々とも宥和し、差別化せず、融合化し、(例えば、ヴィシュヌ神の妃・ラクシュミーは吉祥天、シヴァ神の化身・マハーカーラは大黒天である。) 衆生に対する「慈悲と済度」の「心と志」(MIND・MORALS・MOTIVATION)を持することで、意識の「質・広がり・志向性」を向上させ、結果的に、解脱・解悟の境地に近づいた。また、これ等を象徴する両界曼荼羅に、日々、対峙することで、実存的・主客合一の秘義を体得し、即身成仏へと向かった。「唯識論」の検証なのか、「真言密教」の解説なのか、分からなくなって来たように思われるかも知れないが、二つを対照することで、より両者の本質が見えて来ることを期待し、試みた次第である。

次に、ユング心理学の意識論に目を転じよう。

第一次世界大戦  (1914年 7月28日-1918年11月11日)
世界恐慌     (1929年10月24日-1941年頃まで)
第二次世界大戦  (1939年 9月 1日-1945年 9月 2日)
カール・ユング  (1875年 7月26日-1961年 6月 6日)

先ず、上記の年表を見て戴きたい。ユングは四十歳から七十歳に懸けて、後半生を、世界恐慌を挟み、二つの世界大戦の中で、過ごした事になる。スイスのプロテスタントの牧師の家(ドイツ系)に生まれた、ユングにとって、人類史上、最も悲惨な時期に、最も凄惨な地域の近くで、学究生活を送ったことで、様々な障害に直面した事は、想像に難くない。資料には、以下の様な記述もある。「ナチスが政権を取った1933年、ドイツ精神療法学会が改編されることになりヒトラーに反対したユダヤ人のエルンスト・クレッチマーがその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した。これをもって、ユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部で言われた。後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。彼は実際、ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部をスイスのチューリッヒに移し、ドイツ国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。けれども、ナチスが国際精神療法学会に干渉して、ナチスへの忠誠を誓うマニフェストが学会誌に掲載されたために、会長のユングは激しく非難された。ユングはこの非難に対しては即座に反論したものの、今日に至るまでユングとナチズムとを関係づけ、非難する意見は存在する。しかし、ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人アニエラ・ヤッフェによれば、『ナチスへの対応には甘いところがあった』が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対しており、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたようである。また、ユングが戦前において、人々の群衆心理への傾倒、及びそれに伴う暴力性の発現に対して警鐘を鳴らしていた記録や、ヒトラーに関連した事象がもたらす危険性について警告していた記録も残っている。」
ユングにとって、幸いだったのは、人間形成にとって重要な十代、二十代、三十代を、比較的、平和な時代に過ごせたことである。とはいっても、忍びよる大戦の気配は、すでに、ユングにも、時代精神にも悪影響を及ぼしていたものと思われる。事実、この頃、ドイツでは、「精神分裂病」「統合失調症」の患者が増えており、在野の心理療法家を始め、当時、出来たばかりの精神医学会では、治療の決め手が見つからず困っていた。ユングの精神医学、心理療法の師であった、オイゲン・ブロイラー(1857年4月30日-1939年7月15日)、ピエール・ジャネ(1859年5月30日-1947年2月24日)、ジークムント・フロイト(1856年5月6日-1939年9月23日)等は、催眠療法、自由連想法、などにより、夢や「無意識」の分析を通じて、症状の解明と治療を試みたが、目立った成果は得られなかった。フロイトは自身の療法を「精神分析」と命名し、症状の原因は、抑圧された、性的「リピドー」にあるとし、個人的「無意識」の存在を指摘した。ジャネは催眠療法を行い、フロイトより先に、「無意識」を発見していたとも言われている。(在野の心理療法家の間でも、無意識の存在は知られていた様である。)ユングは、フロイトとの共同研究を通じて、少なからぬ影響を受けたが、フロイトの個人的無意識に対する、認識の狭さや、性的抑圧に偏った考えに疑問を呈し、フロイトと袂を分かち、独自の言語連想実験による研究と治療を行った。ユングは、個々の患者の無意識を分析する過程で、共通する無意識の象徴が見られることに気付き、個人的無意識の出自である、集合的無意識の存在を突き止めた。意識領域の階層構造が、フロイトの精神分析による、意識、前意識、無意識、から、ユングの分析心理学によって、意識、前意識、個人的無意識、集合的無意識へと、大幅に拡張され、無意識に見出される観念と感情の複合体をコンプレックスと名づけた。さらに、ユングは、「個人のコンプレックスが単一ではなく多数存在し、コンプレックス相互の関係を研究する過程で、更に深層に、自我のありようとは独立した性格を持つ、いわば「普遍的コンプレックス」とも呼べる作用体を発見した。それは、男性であれば、自我を魅惑してやまない「理想の女性」の原像であり、また困難に出逢ったとき、智慧を開示してくれる「賢者」の原像でもあった。ユングは、このような「原像」が、個人の夢や空想のなかで、イメージとして出現することを見出したが、個人の無意識に存在するこのような原像が、また、民族の神話や、人類の諸神話にも共通して現れることを見出した。これらの像は、フロイトの学説にある「抑圧」等が起こる無意識層よりも更に深い位置にあり、民族や人類に共通する原像であった。ユングは、このような像は、個人の体験に基づいて構成されたのではなく、人類の極めて長い時間の経験の蓄積の結果、構成されたもので、遺伝的に心に継承されると考え、これらの像を生み出す性向を、『古態型(Arche-Typ,元型)』と名づけた。神話的元型が存在すると考えられる無意識の層はきわめて深く、また民族等に共通するため、このような層を、ユングは「集合的無意識(Collective Unconscious)」と定義した。」

ユングは、個人的無意識は、集合的無意識から生まれ、共有する、集合的無意識を媒介し、個人的意識・無意識同士による、「外的世界の物質の運動を主として規定する「因果性」と共に、因果性とは独立して、『意味』や『イメージ』の『類似性・類比性』によって、外的世界の事物や事象、個人の精神内部の事象等が互いに同時的な相関性を持つ『共時性(シンクロニシティ)』が存在する。」とも述べている。また、「フロイトの言う『無意識』は個人の意識に抑圧された内容の『ごみ捨て場』のようなものであるが、自分の言う無意識とは『人類の歴史が眠る宝庫』のようなものである。」と言っている。フロイト、ブロイラー、ジャネ、ユングが研究と治療、活動をしていた時期は、精神医学が漸くアカデミズムに認知され始めた時期で、世間で、当時、流行していた、オカルティズム的なものと誤解される危険性があった。特にユングの場合、「学位論文で、『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを『霊媒』として開かれた『交霊会』を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また錬金術や占星術、中国の易などに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新異教主義的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また『集合的無意識』や『元型』などの一般の生物学の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の科学から離脱して19世紀の自然哲学に逆戻りしてしまったという批判があり、フロイトもユングとまだ訣別する前に、『オカルティズム』を拒絶するよう強く求めていた。」

「19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では精神医学を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の治癒」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者も心霊主義の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだと、いう動機を口にしており、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んでばかりいた訳ではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり、こうした点について決定的な評価を下すことは、まだ難しいといえる。しかしながら、オカルトはユングの研究対象であったのか、それともユングの心理学そのものがオカルトであったのか、ということに関しては、しばしば誤解を生んでおり、峻別しなければならない問題であろう。」
ユングは、同時代の人間の深層心理・集合無意識にオカルト的意識象徴である元型も見出していたようである。何れにしても、「コンプレックス(感情複合)の現象を研究したユングは、言語連想実験等を通じて深層心理の解明を志向し、当時、精神分析を提唱していたウィーンのジークムント・フロイトから受けた多大な影響を脱し、フロイトと訣別し、「リビドー」の概念を、従来より、はるかに幅の広い意味で定義し直し、「集合的無意識」の存在を提唱し、元型の概念において、神話学、民俗学、文化人類学等の研究に通底する深層心理理論を構成した。」また実際に、「1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。同時に、1933年からは、アスコナでのエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。開催をしたオルガ・フレーベ・カプタインは、ユングに強く協力を求め、ユングが参加できない場合は廃止も辞さない構えであった。これには1951年まで出席し、鈴木大拙、ミルチャ・エリアーデ、ハーバート・リードらと親交を結んでいる。」さらに、ノーベル賞受賞者である、物理学者のウォルフガング・パウリ、作家のヘルマン・ヘッセは、ユングの患者であった。

この辺で、ユングの「分析心理学」を総括し、ユング論を終わりにしたい。ユングの場合も、時代的制約、文化的偏向、アカデミズム的現実認識の欠如、等が残念ながら観取される。先ず、彼自身の研究、「意識論」に付いて言えば、ドイツ観念論、及び、科学主義の影響からか、意識を機能的に考える一方、意識の持つ、「質・広がり・志向性」といった、特性や実態を認識しておらず、従って、共時的、個人間の意識・集団間の集合無意識の違いに、無頓着である。彼が、歴史の宝庫であると称する、集合意識・深層意識も、有史以来、幾重にも無意識の層が積み重なって居り、そこには、ハルマゲドン的なもの、パノプティコン的なもの、ホロコースト的なもの、ナチズム的なもの、等、悪魔的なものも含まれていることを見落としている様である。さらに、通時的にも、人類の文化的進化と共に、集合意識も変化しており、進化のみならず、退化することもあり得ることも認識していなかった様である。同時代に生きた、マックス・ウエーバー(ドイツの社会学者、1864年4月21日-1920年6月14日)は、エルンスト・トレルチ(ドイツのプロテスタント神学者)と共に、「『The Social Teaching of the Christian Churches』 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において、「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト(ドイツ語でセクト:sekte)を次のように提唱した。「カルト」とは宗教団体の初期形態を指すとし、この段階では周辺からの迫害に遭うが、市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。」また、フランスの社会学者、エミール・デユルケム(1858年4月15日-1917年11月15日 )は、「社会学を「道徳科学」と位置づけ、諸個人の統合を促す社会的要因としての道徳(規範)の役割を解明することであると考えた。そしてその後、『社会学的方法の規準』において、社会学の分析対象は「社会的事実」であることを明示し、同時代の心理学的社会学の立場をとっていたガブリエル・タルドを強く批判した。デュルケームが社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである(たとえば、初対面の人に挨拶をすること、嘘をつくのは悪いことだと考えることなどは、社会における一般的な行動・思考のパターンとして個人の意識の中に定着したものである)。彼は、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだと主張し、個人の意識を扱う個人心理学的な視点から社会現象を分析することはできないとして、タルドの個人心理学的社会学の立場を批判した。」マックス・ウエーバーは、カルトが宗教の起源であることを理解しつつ、その危険性をも警告しており、エミール・デュルケームは、ユングより早く、集合意識の重要性を指摘している。ユングが、ウエーバーやデュルケームの研究に注意を向けていたら、と思わずにはいられない。更に、歴史に、タラ・レバは禁物であるが、エラノス会議に参加していた、仏教学者の鈴木大拙がユングに、「唯識論」を、きちんと紹介していたら、晩年に到るまで研究を続けていたユングの研究内容も、また違ったものになっていたかも知れない。ユングにとって、不運であったのは、数多く居た弟子達の誰一人として、ユングの研究の重要性を正しく認識せず、ユングの研究を引継ぎ、発展させる者がいなかったことであり、その所為か、ユングの心理学は、いまだに誤解されたまま、放置されている。まるで、一時、隆盛を極めたものの、その後、影が薄くなった実存主義哲学の行く末を再現しているようである。ウエーバーの指摘通りカルト(culte)は宗教の起源であるが、同時に文化の源泉でもある。カルトは、カルチャー(culture)・文化の核となる語であり、ラテン語の耕作、崇拝の義から、宗教的な祭儀や崇拝をあらわす語源となった言葉でもある。文化大革命の名のもとに、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱は、当初、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって、国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った後、毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内を大混乱に陥らせ、経済の深刻な停滞と、文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受ける結果となった。皮肉にも、文化創生運動が文化を破壊する結果を招いたことになるが、今から振り返ると、これも、或る種のカルトであったと思われる。明治期の日本で、神仏分離政策後、全国的に生じた、仏像・仏具の破壊などの廃仏毀釈運動も同断である。結局のところ、ウエーバーやデュルケームの言う様に、時を経て社会的に有用であると人々(の集合意識)に認知されたものが、社会淘汰の後、宗教・文化として生き残っているものと思われる。ところで、第二次世界大戦を生き延びたユングは、ヒトラーのナチスもまた、巨大カルトそのものであったことに、果して、気付いていたのであろうか。

以下に、十代後半に、「解悟」体験をした際、作った詩を掲載し、「続・探求ノート」を終了することにする。

    『覚醒』

お伽噺に胸はずませ
道の行方に思いを馳せ
夜ごと夢見る明日への想い
明暗のけじめ無き五彩の時空の中で
今、立ち現れる失われた人々の記憶
過去が無ければ、現在は無く
未来が無ければ、現在も無い
現在に、過去と未来が在る
「今、此処」から意識を解き放て!
意識を意識し、存在から実存へと化せ!
無辺際の宇宙に浮かぶ惑星、地球
その、現在、過去、未来
実存をめぐる、境界なき意識の三角錐