〔01〕(2019.04.24) ~メモ~

震災による原発事故で、ディアスポラとして生きることを強いられた福島の人々が、多数、心の病が原因で死亡している。現在その調査が行われており、チェルノブイリのケースと同様の、フラッシュ・フォワード(未来の喪失感)が問題として注目されている。一方で、この様な状況にあって、前向きに生きている人も少数であるが存在する。この方達も調査することで、将来への貴重なヒントが得られるかもしれない。現在に過去と未来が在り、未来の喪失が現在に深刻なダメージを齎しているのであれば、現在における人々の意識の有り様を、精査せねばならない。
(‘19.03.03)
豊かさから生まれる文化もあるが、貧しさから生まれる文化もある。人類を底辺で支えてきたのは、貧しさから生まれた文化なのかも知れない。
(‘19.03.04)
「永らえて委ぬ当て無き去年今年」
(‘19.03.10)
「列島に春行き渡らせて桜散る」
(‘19.03.12)
覚醒剤に手を染める若者が増えているのは、人類の未来への不安が遠因となっているのかも知れない。カルト的集団の横行も同様である。
(‘19.03.21)
G・ベイトソンに「精神と自然」(1979年)という著書があるが、精神と自然は、強(あなが)ち、対立するものではなく、自然的精神と称すべきものも存在するように思われる。むしろ人工淘汰により、自然的精神が失われつつあるのかも知れない。
(‘19.03.30)
cast off the self(自我を脱する)と、ギリシャ語のέκστασις(ekstasis、エクスタシス、外に立つこと)の異同。
(‘19.04.16)
覚醒し悟達することは、以後、生涯に亙り、これを保持する覚悟を伴う。
(‘19.04.18)
愛するとは、理解し、信じ、耐え、見守り、待ち続けることである。
(‘19.04.18)
共感能力は直感的理解力に不可欠である。
(‘19.94.19)
宇宙(ユニバース)がマルチバースであり、オムニバースであるように、意識界にも多数の意識界が併存している。キリストを核とするキリスト教的集合意識界、ブッダを核とする仏教的集合意識界などは、さながら、宇宙における超銀河団のようなものかもしれない。
(‘19.04.23)
アルツハイマーが人類特有の疾患なのか定かではないが、子育て時代ぐらいまでの記憶が残存しているケースが間々見られるのは、自然的集合意識に支えられていたせいではないのか。それ以降の人工的個人意識が何らかの原因で不具合をきたしたとも考えられる。
(‘19.04.24)
意識の再帰的働き。
(‘19.04.24)
遷延性意識障害は、俗に植物状態ともいわれる。せん妄などの認知的意識障害は、退行による動物状態と称していいかもしれない。
(‘19.04.24)
哲学が他の専門分野の学問と一線を画するのは、人格と表裏一体となっていることであり、言行が一致していなければならないことである。集合意識を醸成し、人々の拠り所と成る思想を創造する際は、取り分け、不可欠である。
(‘19.04.24)
意識障害の存在は、背理法的に意識の存在を証明するものである。
(‘19.04.24)

〔02〕(2019.04.26) ~愚痴(叢話と挿話)~

「愚痴」は仏教用語であり、愚かなこと。無知によって惑わされ,すべての事象に関してその真理を見ない心の状態をいう。俗に、言ってもしかたのないことを言って嘆くことである。以下、最近経験した私事に関しての愚痴を聞いて頂きたい。

4月20日(土)の早朝、NHKの教育TVの番組、『こころの時代~宗教・人生~シリー禅の知恵に学ぶ 第1回「禅とは何か」』を視聴した。岐阜県美濃加茂市の正眼寺、正眼僧堂師家の山川宗玄が6回に亙り法話を語るとのことであった。第1回「禅とは何か」で山川が紹介した二つの挿話に、私は違和感を覚えた。そのひとつは、京都、妙心寺の開山、慧玄が、修行したこの地を去るに当たり、人々が別れを惜しむ席で、老夫婦が冥土の土産に、ひとつ法話をお聞かせ戴きたいと申し出た際、慧玄は二人を呼び寄せ、二人の頭と頭をぶつけ、二人がイタタタと叫んだ刹那、「そこじゃ」と言った、公案のようなエピソードを山川が解説して、慧玄が伝えたかったのは、将来を案ずるより、「いまここ」を大切に生きろということだと述べている。今ここを大事にしろと説く為に、敢えて老人夫婦の頭と頭をぶつける必要があったのか、禅僧はよく、「いまここ」に没入しろと説くが、そもそも、「いまここ」とは、何を意味するのか、私には不明である。山川は、説明しようがないという。

二つ目は、仏法の法についても、山川は、説明しようのないものであるが、その存在無しに、方程式が成り立たない為、背理法により、実体は解明されていないが存在が仮定されている宇宙におけるダークマタ―と似たようなものである、と述べている。因みに、2013年までに発表された、人工衛星プランクの観測結果からは、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、原子等の通常の物質が4.9%、暗黒物質(ダークマター)が26.8%、ダークエネルギーが68.3%と算定されている。ここで、ウィキペディアのダークエネルギーに付いてのコメントを紹介すると、「ダークエネルギーには互いに反発する性質があるため、宇宙膨張を加速する原因となりうる。これは物質優勢の宇宙という伝統的な描像で膨張の減速が起こると予想されているのとは対照的である。宇宙の加速膨張は多くの遠方の超新星の観測から示唆されている。宇宙の全エネルギー密度の研究からも別の議論がもたらされている。理論的・観測的研究から、宇宙の全エネルギー密度は宇宙がちょうど平坦になる(すなわち、一般相対性理論で定義される時空の曲率が大きなスケールで 0 になる)ような臨界密度に非常に近いことが昔から知られている。(特殊相対性理論のE = mc2から)エネルギーは質量と等価なので、これは通常、宇宙が平坦になるのに必要な臨界質量密度と呼ばれる。光を放出する通常の物質の観測からは、必要な質量密度の2-5%しか説明できない。この足りない質量を補うために、ダークマターと呼ばれる目に見える光を放出しない物質の存在が長い間仮定されてきた。しかし、1990年代に行われた銀河や銀河団の観測で、ダークマターをもってしても臨界質量密度の25%しか説明できないことが強く示唆された。もしダークエネルギーが臨界エネルギー密度の残りの約70%を補えば、全エネルギー密度は宇宙が平坦であるのに必要な量と矛盾しなくなる。」とある。この説明によると、仏法の法は、むしろダークエネルギーに譬えた方が適切であるようにも思われる。山川は、埼玉大学理工学部で物理学を専攻したそうであるが、現代の宇宙科学に関しては、生半可な理解しかないようである。仏法に関する理解もそうでない事を祈って已まない。

〔03〕(2019.04.27) ~意識と意識障害~

50年程前、精神活動全般の理解には、「意識」の解明が不可欠であることに想い到り、独学で「意識探求」に生涯を賭ける決意をした。その際、「意識探求」の現状をチェックする為、脳科学、精神医学、心理学、哲学、等の文献に、可能な限り当たって見た。その結果分かった事は、「意識」は、諸科学、諸学問、によって、未だに解明されておらず、それぞれの科学・学問によって、対象としている「意識」が、微妙に異なり、共通認識の確立には程遠いことであった。脳科学において、「意識」は意識障害の研究を基に認定され、精神医学・心理学などでは、精神疾患の解釈から「意識」を推理し仮説を立てることが多い。また、認知と「意識」の関わりについても、未解明のままであり、したがって、意識障害と認知症の区別も曖昧である。当時も、現在も、「意識」の実体も実態も科学的に明らかになっておらず、「意識」の発現機序に関しても不明である。この様な「意識研究」の状況は、今日でも、あまり変わっておらず、この50年での進歩は残念ながら殆んど見られない。脳神経外科においても、意識障害、認知症に対する有効な治療法は、見出されていない。私は、5年ほど前、「意識に関するメモ」を書き留め、その中で、「意識」には「広がり」「質」「志向性」があることを指摘しておいたが、最近の脳神経科学においても、「意識」の構成には「清明度」「広がり」「質的」の三つの要素が存在する事が正式に認定されるようになってきたようである。「清明度」の低下による、「広がり」の喪失は、催眠、昏睡、半昏睡、昏迷、失神などの『意識狭窄』を、「質的」の変化は、せん妄やもうろう等の『意識変容』を、それぞれ齎すとされている。私は「意識」の構成要素に「志向性」を加えて置いたが、30年程前に出版された『意識障害の現象学』(上下2巻、1990年10月30日、世界書院発行)のなかで、著者の脳神経外科医、安芸都司雄氏も、「意識」を「志向現象」として捉えていた。これは、安芸都司雄氏が傾倒していた現象学、とりわけ、「意識」が先ず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目した、フッサール、の影響によるものと思われる。また、脳神経外科医として、意識障害を通じて「意識」を解明することの難しさを実感してもいた様である。

cf. 現象的意識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「現象的意識(げんしょうてきいしき、英: Phenomenal consciousness)は、人間の意識という言葉に関する区分のひとつで、質的な内容を持った、主観的な体験のこと。現象的意識に含まれる個々の質感のことをクオリアと言う。
現象的意識は現在の物理学の中に還元できる特性のひとつでしかない、と考える唯物論(または物理主義)的立場と、そうした還元は出来ないと考える二元論的立場の間で、その存在論的位置づけを巡って、一部で論争が行われた。

目次

  • 類義語・同義語
  • 性質

類義語・同義語


まず類義語、同義語について説明する。現象的意識という概念は多くの類義語・同義語を持っている。このことを知らなければ、心の哲学や脳科学関係の本を読んだときに、かなり混乱する。この概念を指す決定的な用語というのはまだ定まっておらず、大抵の研究者は「意識体験とか現象特性とかクオリアなどと呼ばれるソレについてこれから話す」といった感じでこの概念に言及する。こうした語法の混乱は、この概念がまさに研究の途上であることを意味する。以下、この節では様々な類義語・同義語について紹介していく。

よく見られるものとして、意識の現象的側面(phenomenal aspect of consciousness)、意識体験(conscious experience)、主観的経験(subjective experience)、質的経験(qualitative experience)、現象特性(phenomenal property)、とはどのようなことか(What it is like)、感じ・実感(sensation)、生の感じ(raw feel)などがある。これらの言葉は、その言葉が使用される文脈にもよるが、現象的意識とほぼ同じ、または全く同じ意味内容を持つ言葉として使用される場合が多い。
次に少しややこしい言葉として、現象学(phenomenology)というものがある。この言葉は心の哲学分野では現象的意識のことを指して使われる場合も多いが、単にフッサールの創始した哲学の一分野(記事現象学を参照のこと)のことを指している場合もある。この二つの意味の区別は文脈から容易に行なえるだろう。また経験・体験(experience)という言葉も、稀に現象的意識のことを指す言葉として使用されることがある。しかしこの言葉は日常的な意味で使用されている事の方が多い。この言葉の意味の区別は、特に説明がない限り、読み手が文脈から判断していくしかない。
更にややこしい言葉としては表象(representation)というものがある。この言葉は現象的意識とほぼ同じ意味内容を持つ言葉として使われることもあるが、思考や推論の際に変形・操作を受ける心的記号のこと、を意味する言葉として使われていることもある。このどちらの意味で表象という言葉が使用されているかは、特に説明がない限り、言葉の使用されている文脈から、読み手が逐一判断していく他ない。とはいえ表象という言葉の上の二つの意味には、互いに重なり合う部分も多いため、文章の執筆者がどちらの意味で表象という言葉を使用しているのかが判然としない場合も少なくない。
このように様々な表現が使われているが、しかし現象的意識の事を指す言葉として、現在最も頻繁に目にする言葉は

意識(Consiousness)

である。このことは意識関連の文献を読む読者を無駄に混乱させている面がある。 しかしこうした用法が実際に使われているため、文献を読む読者は、著者がその場面において、どういう意味で「意識」と言う言葉を使用しているのか、については、十分注意しながら読み進んでいかなければならない。その意味は記事意識内で解説されている意味のどれか一つであったり、そうした意味の複数の組み合わせであったり、または著者独自の新規の概念であったりする。こうした点を正確に判断することは時に困難でさえあるが、一つの目安として「意識は謎である」「意識の問題は難しい」などといった形で「意識」という言葉が使用されている場合、それは本項目で説明している現象的意識、またはそれに類似した概念を指していると考えておおよそ間違いない。このように複数化した意識に対して著者と読者間でズレが生じたとしても特に間違いではなく、それ自体が意識であると言える。

性質


主観性
現象的意識は誰かにとってのものである。例えば痛みの経験は常に誰かにとっての痛みの経験であり、誰のものでもない痛み、というようなことは考え難い。物の長さや大きさなどの属性が持つ客観的なあり方に対して、現象的意識のもつこうしたあり方のことを一般に主観性(英:subjectivity)という。

私秘性

現象的意識は外部から計器を用いて物理的に観測することができない。これに関しては、現象的な意識が存在論的に物理的なものと別枠にあるから観測できないのだ、という二元論的な考え方と、物理的な現象だが観測できるような概念ではないから観測できないのだ、という考えの二つの立場がある。何にせよ、現象的意識の外部から計測できない、という性質のことを一般に私秘性(英:privacy)という。「我々は意識メーターを持たない」という表現で言い表されることもある。

統一性

現象的意識はある範囲で統一されている。例えば飛んでくるボールを視覚で捉えたとき、動きの情報と形の情報はそれぞれ脳の別の部位で処理されているが、それでも動きと形は最終的には統合された形で提示される。つまり脳の異なる部位で、空間的・時間的に距離を隔てて物理的に処理された情報であっても、現象的意識としては継ぎ目のない単一のものとして提示されているように思われる。この性質のことを統一性(英:unity)と言う。脳梁を切断された分離脳の患者は、脳全体を単位とした統一性を欠いているのではないか、と言われている。
また、自分とは違う他人、つまり別の脳で処理されている情報は現象的意識として統一されない(つまり、誰か他の人の腹痛を感じる、ということはない)。グレッグ・ローゼンバーグはこのひとつの脳を単位としておきる現象意識の統合と、脳を隔てた場合の現象意識の分離の間のギャップを境界問題と呼び、問題として定式化した。」

〔04〕(2019.04.28) ~認知症の社会的費用~

ウイキペディアによる認知症にかんする資料に、気になる記事があったので、メモし、コメントして置く。

「認知症は70歳以上人口において2番目に多数を占める障害疾患である。全世界で3,560万人が認知症を抱えて生活を送っており、その経済的コストは全世界で毎年0.5-0.6兆米ドル以上とされ、これはスイスのGDPを上回る。患者は毎年770万人ずつ増加しており、世界の認知症患者は2030年には2012年時点の2倍、2050年には3倍以上になるとWHOは推測している。」
「現在の医学において、認知症を治療する方法はまだ見つかっていない。安全で効果的な治療法を模索する研究が行われているが、その歩みは難航している。」
「日本については、65歳以上高齢者の有病率は3.0〜8.8%(調査によってばらつきが大きい)とされ、OECDでは2009年では6.1%と報告されている。2026年には10%に上昇するとの推計もある。」
「2010年には、日本での認知症患者数は約462万人(65歳以上人口の15%)、その前段階の軽度認知障害(MCI)は約400万人(13%)と推定された。2014年では、日本の認知症患者数は約500万人、社会的費用は14.5兆円と、国民医療費全体の3分の1を占めていると推計された(厚労省認知症対策総合研究事業)。また2035年には22.9兆円に膨らむ見込みとされる。」
「認知症に対しての経済的コストは、オランダでは保健支出の5.5%、ドイツでは3.7%を占めている。コストの総額は、全世界では推定6450億ドル(2010年、スイスのGDPと同額)、米国では1680-2300億ドル、欧州全体では2130億ドルに上ると試算されている。」
認知症の顕著な増加がいつ頃から始まったのか、調べて見なければわからないが、認知症、意識障害、精神疾患、適応障害などは、産業化(工業化)、都市化などの急速な文明化によって、齎されたことは間違いない。同時に、交通事故や犯罪、テロや戦争の多発、などにより、世界の社会秩序の維持コストは、かなり、膨らんでいるものと思われ、現代社会は、コストパフォーマンスの観点からも、決して、良好な状況とは言い難い。モラルの低下は犯罪の増加などと共に、見えない経済的ロスを招いている。

〔05〕(2019.05.29) ~自然と精神~

「健全な精神は健康な肉体に宿る。」(A sound mind in a sound body)という慣用句は、古代ローマ時代の風刺詩人、弁護士である、デキムス・ユニウス・ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis, 60年 – 128年)作、『風刺詩集 (Satvrae) 』の一節が、誤訳・誤用され、流布されたものといわれ、もとのラテン語は、「orandum est, ut sit mens sana in corpore sano」である。この一節が記されている詩は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒める内容のものであり、ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが本来の意味である。、近世になって世界規模の大戦が始まると、ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へと恣意的に改竄しながら、軍国主義を推し進めた。その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなったものである。
私は、健全な精神は、公徳心が根づく、健全な社会に宿るものであると考える。また、健全な社会(の集合意識)は、自然との共存によって、育まれると思っている。自然淘汰により人と成った当時、人間は今より健全な(自然的)意識・集合意識を持っていた様に思われる。文明化に伴い、人工(社会)淘汰の結果、個人的意識が強化され、利己的意識が増大し、公徳心も薄れていったように見受けられる。人間は、自然を離れ、人工化した環境に置かれると、不健全な精神状態に陥ってしまう様である。

〔06〕(2019.05.30) ~人類社会の健康診断~

4大聖人と言われる、孔子、ソクラテス、ブッダ、イエスは、人類社会の倫理・道徳の醸成に多大な貢献をした人々であるが、彼らが、歴史に残る事績を為し得たのは、彼らを支持する人々がいたからである。逆に、彼らは、彼らが出現するにふさわしい社会環境(集合意識)に育まれ、活動したと言え、彼らと云えども、時代の子であったとも言える。さらに、彼らを支持した人々もまた同じく時代の子であったと言えよう。したがって、仮に、彼らが、現代社会に復活したとしても、当時のような活躍は望むべくもないと思われる。

彼らが生きた時代は、自然環境も、社会道徳も、現在より格段に良好であった。自然淘汰の末、進化した人類は、文化と文明を創り出し、今では、人工(社会)淘汰の末、個人意識を強化し、慾望を解き放ち、経済優先の高度資本主義・文明社会を創造し、地球の支配者を任じている。同時に、産業革命以後、社会の工業化・都市化に伴い、自然破壊が加速し、人類は現在、環境汚染をはじめ、地球温暖化が原因とされる異常気象などに直面している。また、精神破壊とも言うべき、社会道徳(集合意識)及び文化の劣化により、犯罪やテロの横行による疑心暗鬼に悩まされており、適応不全に陥っている者も多く見られる。自然と精神の荒廃は、もはや危惧すべき状況に到っており、人類社会の健康診断の結果は、憂慮すべき、『死に到る病』(キルケゴール)とも言える症状であると断言せざるを得ない

〔07〕(2019.05.01) ~あとがきに代えて~

チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin([tʃɑrlz ‘dɑː.wɪn], 1809年2月12日 – 1882年4月19日)は、当時のイギリスで広く普及していた人為選択に注目し、彼の進化論の中心となる自然選択説を、それとの類比から導き出した。人為選択は、自然選択とは違って観賞や食用などの人間の目的に応じて行われるものであるから、自然条件下ではかならずしも生存できないようなものもつくりだされる。しかし、自然に存在する遺伝的な変異の存在を前提とするという点では、自然選択も人為選択も同じである。その為、創りだされる品種には一定の限界がある。遺伝子操作による育種は、その限界を越えるものであり、それだけに危険性も伴うことになるが、人類は、バイオテクノロジーの進歩により、遺伝子操作の技術をすでに手中にしており、バイオハザードは現実の問題となっている。ここで注意して置きたいのは、幾らバイオテクノロジーが進歩しても、人類はコピーや改変はできても、バクテリアでさえ、ゼロから創造することは出来ず、一度改変したものを、完全に元に戻すことも出来ない。遺伝子操作の人体への医学的応用が危険な所以である。ダーウインは人為選択、遺伝子操作の技術がこれほど早く進歩し、実現するとは、夢にも思っていなかったに違いなく、まして、人類自体が、自ら創り出した人工的社会によって、人工(社会)淘汰されることなど、想像だに出来なかったと思われる。もっとも、当時も(おそらく今日も)ダーウインのみならず、他の学者達の認識も同様であった。ゾロアスター教・アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の終末論的世界観では「最期の審判の日」が、何れ訪れることになっているが、さすがに、人類が近い将来、その時を迎えるかも知れないことまでは、想定外であった模様である。仏教においては、末法(まっぼう)の世(仏の教えのみが存在して、悟りに入る人がいない時期)が、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降に始まると言われている。末法(まっぼう)というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことであり、正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。三時の長さのとらえかたには諸説あり、一説によると、正法 千年、像法千年、末法 一万年とされている。仮に、この仏教の予言が正しいとすると、人類は、すでに、末法の時代を迎えており、今後、当分(1万年間)は、この状況は変わらないということになる。
終末が予想より早く訪れるにせよ、末法の世が続くにせよ、人類の未来は、お先真っ暗のようである。合掌。