〔01〕(2022.05.17) ~本を出版しない訳~
10代の後半から20代の前半にかけて、私は、詩作をし、詩の雑誌に投稿し、木原孝一氏から詩集を出すよう勧められたことがあった。60代半ばから、「覚書」「探究ノート」、計3冊を3,4年掛けて書き上げ、それぞれ百冊程、私家版を作り、友人、知人に配ったときも、何人かから、出版してはどうかと云われた。私は、いずれの際も、著書を世に出すことを断った。「世俗的栄達を望まぬこと」という、10代後半に己に課した戒律に従った為である。
同時に、詩にしても、散文にしても、世に出すことを考えて書いたものではなく、言葉が、泉から水が湧き出るように、天から雨が降り注ぐように、思い浮かんだ際、それをそのまま書き留めたものであり、自分が書こうと意識して思案して書いたもの、というより、過去、現在、未来、何れかの「集合意識」に促されて書かされたものであり、真の著者は、それらの集合意識であると思われ、詩にしろ、散文にしろ、本当に人々に求められるものであれば、現在もしくは未来において「木霊」のように、自然に伝わってゆくものと思われたからでもある。
〔02〕(2022.05.30) ~国家資本主義~
ロシア、中国、北朝鮮、など、国家社会主義、乃至、国家共産主義を標榜している国々の実態は、国家資本主義であり、民主主義が機能していない、独裁主義であり、帝国主義である。企業による資本主義が公共財を独占しつつあるのも問題であるが、民主主義が全く機能せず、独裁国家が軍隊のみならず、マスメデイア、公共財を全て独占しているのは、最悪であり、マルクス主義の負の遺産であると言ってよい。
〔03〕(2022.06.22) ~狂句~
「人災が 天災を生む 末法難」
「あなをかし 地獄極楽 壁一つ」
「人間は 闇を宿して 皮一枚」
〔04〕(2022.06.27) ~サブカルチャー・集合意識~
サブカルチャーについて
サブカルチャーは厳密には文化とは言えない。本来の文化は、最小公倍数としての人間を対象とするものであるが、サブカルチャーは、最大公約数としての人間をターゲットにしており、文化と云うより文明に近いものである。サブカルチャーが資本主義の興隆とともに流行するようになったのも必然である。
集合意識を理解するために
集合意識は読み解くものではなく、感じ取り理解するものである、ジャーナリストにとって、同時代の集合意識の理解は必須である。歴史家は、過去の時代の集合意識を正確に認識することがもとめられる。ヤーコブ・ブルックハルトは、その資質を持った、類まれな歴史家であった。個人、集団を問わず、人間理解に、集合意識と意識そのものの理解が、必要不可欠であるが、その為には、自身の意識の、広がり・質・志向性を鍛錬するしか方法は無い。
〔05〕(2022.07.02) ~善行~
他人に対する善行は、自己に対する善行である。他人(ひと)も我なりであれば当然のことである。したがって、善行によって、相手が喜び、その人の人生に、プラスの効果があったのであれば、自己の喜びでもあり、自身の人生にとっても良いことであり、これ以上のことを、期待するのは、間違っている。
〔06〕(2022.09.25) ~跋・意識論の効用~
文化は精神性を、文明は実用性を本分とする。文化は最小公倍数としての人間を対象とし、文明は最大公約数としての人間を対象とする。民族固有の文化が存在する所以である。文化にせよ、文明にせよ、人間の意識が生み出したものであり、生み出した人間がいなくなった後も、それ等の産物は、至る所に見られ、したがって、生み出した人間の意識も看取することができる。意識は、広がり・質・志向性の特性を持ち、広がりの大小、質の良し悪し、志向性の高低は、人それぞれであり、三つの特性の組み合わせは無限に存在し、文化の多様性の源泉となっている。芸術作品も、意識の産物である以上、三つの特性を含んでおり、意識論は、評価する基準として有効である。意識論が人間の営為全般の理解に際しても役立つことは言うまでもない。